第21話 両想い

 なにも期待してないなんて、嘘だ。みなはあの日、直紀ならきっと全部受け入れてくれるって、そう思ったから話したんだ。

 直紀はいつだって、みなを裏切らない。直紀はみなを軽蔑したり拒絶したりはしないって、みなの汚いところを知ったって目を逸らしたりもしないで一緒に背負ってくれるって、そう、期待したから。

 いつもいつも、みなは直紀を縛りつける方法ばかり考えていた。



 ひとけのない教室で、直紀の鞄を手に取る。ファスナーを引くときも、教科書の中から一つだけ場違いな文庫本を取り出すときも、少しも躊躇なんてしなかった。この行為が直紀をひどく傷つけるものだとわかっていても、みなの心は穏やかなままだった。

 この一冊の本が、彼とあの子の関係においてどれだけ大切なものかということも、みなはよく知っている。たかが文庫本の一冊ではないのだ。罪悪感に取り憑かれた今の直紀には、こんな小さな本でも、きっと決定打になる。

 直紀のことはよくわかっている。ずっと、ずっと見ていたから。直紀は今度こそ、あの子を絶対に傷つけない方法を探すだろう。そしてその先に行き着く結論は、一つしか存在していない。

 でも、柚ちゃん。心の中で声を投げる。柚ちゃんが悪いんだよ。

 直紀のためになにも出来ない、あなたが悪い。そのくせ直紀の心は独占して、苦しめてばかりいるから。だからみなが助けてあげるの。直紀にとっても、そのほうがいいんだよ。

 そこまで考えたところで、ふっと笑みが漏れた。

 苦い笑いだった。


 直紀を貶めた粟生野さんにも、直紀のことを悪く言うクラスメイトにも、直紀にためになにも出来ない柚ちゃんにも、腹が立ったのは本当だった。直紀を苦しめないでほしいと思ったし、みなが守ってあげようと思った。みなはたしかに、そう思った。

 手の中の本に目を落とす。直紀の大切な、あの子の本。直紀の、大事なもの。

 ごめん、と、みなを傷つけたことを謝る直紀の苦しげな表情を思い出した。あの日、直紀はほんとうに苦しそうだった。だけど、それがみなの傍に直紀を繋ぎ止めてくれる苦しみならば、みなは全部許した。


――ああ、なんだ。

 本を握ったまま、笑う。


 なにもできなくたって、少なくともあの子は、心から直紀の幸せを望んでいるはずだ。直紀の苦しみを苦しんで、直紀の喜びを喜んであげるはずなのに。

 みなには、そんなことすらできない。

 遠い昔の、それでも未だに鮮明に思い出せる、お母さんの泣き顔が瞼の裏に浮かぶ。大好きな人を、これ以上ない惨い方法で傷つけた、あの日の。

 他人の痛みなんて、所詮みなからは遠い場所にあるものだった。みなにはわからなかった。


 直紀がほしかった。みなだけのものにしたかった。それが直紀を苦しめることだとしても、みなの願いが叶うなら、みなは何をするにも躊躇うことはなかったのだろう。

 直紀がみな以外とは話さないように、みな以外は見ないように、足枷でもつけて、みなの部屋に繋いで、閉じこめて。そんなことも、みなはきっとやれる。直紀がどれだけ必死に助けを求めても、みなは簡単に撥ね付けることができる。それが直紀をみなの傍に置いておくための方法ならば、みなの心はきっと少しも痛まない。

 好きなのは本当だった。

 だけど、それは多分、愛じゃなかったんだ。




 びしょびしょの制服を眺めて、これじゃあ帰れないね、と二人で苦笑する。幸い二人ともジャージを持ってきていたから、教室に戻って着替えることにした。

「ちょ、みな」

「へ?」

 ブレザーのボタンに手を掛けたところで、ぎょっとしたように直紀が呼んだ。

「まさか、ここで着替える気か?」

 きょとんとして「駄目かな?」と返せば、直紀は一瞬絶句していた。

「いいじゃん、直紀しかいないんだし」

 付け加えると、直紀はさらに信じられないといった顔をして

「まあ俺は後ろ向いてりゃいいけどさ、でも誰が来るかわかんないだろ。まだそんな遅い時間じゃないし」

 みなはべつに気にしなかったのだけれど、直紀があまりに止めるため、渋々ながらジャージを持ってトイレに向かった。


 窓の外へ目をやれば、雨脚は随分と弱まっていて、静かに窓の表面を流れていた。

 個室に入り、ボタンを外そうと掛けた手をふっと止める。

 直紀はなにも聞かなかった。全部わかってくれて、全部、許してくれた。そしてまた、変わらない優しさをくれた。

 ついさっき聞いた、みなを気遣う直紀の言葉を何度も何度も反芻する。みなの、何よりも好きなものだった。

 右手を持ち上げて、制服の袖を鼻先に押しつける。息を吐く。触れるのは、冷たく湿った感触だけだった。

 直紀の匂い。体温。まだここに残っているような気がした。

 きっと、もう二度と触れることはできないぬくもり。狂おしいほど欲したそれを、そして一生手に入ることのなくなったそれを思って、みなはしばらくそうしていた。


 教室に戻ると、直紀も着替えをすませていた。制服を机の上に干していた彼は、みなに気づくと振り向いて笑顔を向けてくれた。

 もうとっくに見慣れたはずの笑顔なのに、みなは一瞬呼吸も忘れて、ぼうっと眺めてしまった。大好きだと、強く思った。あらためてそう感じると同時に、胸の奥に広がった暖かさに、つんと鼻の奥が熱くなる。あわてて直紀から目を逸らし、何とはなしに窓のほうへ視線をとばした。

「あ」

 小さく声を上げると、直紀もみなの視線を追って外を見る。

 それから、あ、と同じように小さく声を上げて

「雨、あがった」

 うん、と相槌を打つ。


 直紀が悲しいのは嫌だ。あのとき、みなはたしかにそう思えた。

 苦しかった。胸が締めつけられるように、痛かった。やっぱり、直紀は笑っているのが一番いい。笑っていてほしい。苦しまないでほしい。なによりも強く、そう思えた。

 それがうれしくて、悲しかった。

「……直紀」

 呼ぶと、直紀の視線がこちらに戻ってきた。まっすぐに見つめる。痛みが、暖かかった。

「みなね、直紀が幸せだとうれしいよ」

 直紀は少しきょとんとしながらも、うん、と静かに頷いて、笑った。それから、俺も、と続けた。

「俺も、みなが幸せだとうれしいよ」

 知っていた。みなはちゃんと、知っていたんだ。

 だって直紀は、みなのために怒ってくれた。みなのために、泣いてくれた。

「……なんだ」

 よかった。笑みがこぼれる。じゃあ。

「みなたち、しっかり両想いだね」


 こみ上げた愛しさに、泣きたくなった。

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