第20話 好きなひと

「なあ、あれさ、マジなん? ほら、二組のさー……なんかあったじゃん」

「あー、粟生野さんのやつ? マジらしいぜ。粟生野さんから直接聞いたってやついたし」

「うへー、マジかよ。誰だったっけ、そのやったやつ」

「桐原だろ。俺、去年同じクラスだったんだけど。あ、つーかさ、刈谷っているじゃん、二組に」

「あー、あいつな。なに、どうかしたの?」

「一組の子と付き合ってたじゃん。この前別れたらしいぜ」

「あ、そうなん? 一組の子ってあれだろ、桜さんだろ」

「あー、そうそう桜さんだ」

「え、でもあの二人めっちゃ仲良かったじゃん」

「だろ? 俺も変だと思ったんだけどさ、なんかさあ、それも桐原がなんかしたっぽいって」

「は、マジで? うっわ、ありえねえ。桐原と刈谷って仲良かったじゃん」

「ありえねえよな。マジ引くわ」


 力任せに鞄を机に叩きつけると、ぶつかった金具が鋭い金属音を立てた。

 続いて、重たい教科書が落ちる鈍い音。二人が驚いたように振り向く。遅れて右手の痺れが伝わってきたとき、少し反省した。物に罪はないのに。

 表情なんて作る気になれなくて、きっとこれ以上ないほどの無表情を、目の前の二人へ向ける。

「――ね、それ、誰から聞いたの?」

 え、と一人が声を漏らす。

 答えが返ってくるのを待たず、「まあいいや」と続けた。

「とりあえず、勝手なこと言うのやめてねー。直紀が迷惑するでしょ」

 未だぽかんとしたままの二人に、にこりと笑みを向ける。こめられる限りの威圧をこめて。

「次言ったら、怒るよ?」


 それはひどく単純で、当たり前のことだった。

 優しい人だった。不思議なほど、みなを喜ばせる言葉ばかりくれる人だった。すてきな人だと思った。一緒に過ごす中で、すごく、好きになった。だから、守りたいと思った。その人が傷つくのは嫌だと思った。傷つかないように、傍にいようと思った。ただ、それだけのことの、はずだった。きっと、最初はほんとうに、それだけのことだったんだ。



「ごめん」

 初めて聞く、彼の悲痛な声に、みなに向けられたその苦しげな謝罪の言葉に、こみ上げたのは紛れもなく喜びだった。

 下駄箱から靴が消えているのに気づいたときにも、それはわずかに感じたものだった。つらくはなかった。幼稚な嫌がらせだと思うだけだった。

 だけど、直紀はつらそうだった。自分のせいだと気に病んでいた。そんな彼を見て喜んでいる自分に、みなは、はっきりと気づいていた。

「大丈夫だよ」

 掛ける言葉も、握る手も、直紀を救おうと伸ばしたものだった。けれどそれは、直紀のためのものではなかった。全部、みなのためだった。彼の抱く罪悪感も、それを優しく拭おうとするみなの手も、そのまま全部、直紀をみなの傍に繋ぎ止めてくれるものになる。それを手に出来たことが、うれしかった。

 みなはあの日、喜んでいた。直紀が苦しんでいることに。だけど、気づかない振りをした。



「似合わないよ」

 粟生野さんは、そう言った。

「園山さんがそんなこと言うの。園山さん、そんな綺麗な考え方しないでしょう」


 駅で電車を待っていると粟生野さんが近づいてきて、突拍子もなく「一緒に帰ってもいい?」なんて尋ねてきたから、「直紀についての誤解、解いてくれるんならいいよ」と返してみたときだった。

 粟生野さんは笑っていた。本当に、そうしてほしいの? ざわりと胸の奥が波立ったのを打ち消すようにすぐに頷けば、かえって不自然になってしまった気がした。粟生野さんは、そんな不自然さは全て見透かしたように、薄く笑って、言った。

 似合わないよ、園山さん。


「――あの子のどこがいいの」

 ずるりと、見ない振りをしていた何かが眩い光の中に引きずり出されていった。

「ねえ、そう思ってるでしょ? ほら、あの、図書委員の一年生。あの子、邪魔でしょう」

 粟生野さんは、まるで小さな子どもをからかうようなその笑みは崩すことなく、淡々と言葉を継ぐ。

「私、最初はさ、桐原って園山さんが好きなのかと思った。でも、違ったんだね。桐原は別に、園山さんのことなんて何とも思ってなかったんだ」

 そのときにはもうすでに、みなは返す言葉すら見失っていた。まだ電車がやって来る気配はない目の前の線路を見つめたまま、膝の上に無造作に置かれていた右手に力をこめる。

「桐原って、結構あからさまよね。園山さんとあの一年生が同じことされても、反応は全然違うんだもん。園山さんのときは別にたいしたことなかったのに、あの子のときはすごく動揺してたし。ね、酷いと思わない? 同じことされたのよ?」

 それは、みなは平気だったから。でも柚ちゃんはすごく傷ついたから。それだけ。それだけの、ことなんだよ。

 そう言いたかったのに結局言葉が出てこなかったのは、きっと心のどこかでみなは気づいていたからだ。


「園山さん」

 次に彼女が発した声は、思いがけなく優しいものだった。きっと浮かぶ笑みも優しいものに変わっていたのだろう。視線を動かすことができなかったから、みなにはわからなかったけれど。

 ベルが鳴る。続いて、まもなく上り電車が参ります、というアナウンス。

 それに反応して立ち上がってから、粟生野さんはみなのほうを振り返った。

「誤解が解けたら、桐原は何の問題もなく、あの子のところに行ける。桐原の友達だって、園山さんたちだけじゃなくなる。園山さんたちがいなくても、平気になるのよ、桐原。そんなの嫌でしょ。だって園山さんって」

 視界に電車が滑り込んできた。それでも、みなは立ち上がれなかった。視線すら動かすことはできずに、粟生野さんの言葉を聴いていた。

「大好きなものを独占するために、妹だって殺しちゃうような人だもんね」


 ドアが開く音がした。電車のほうへ踏み出した足を止めて、粟生野さんは動こうとしないみなへ一度目をやった。そうしてしばしみなを見つめていたが、やがて何も言わずに電車へ乗り込んだ。

 ドアが閉まり、粟生野さんの姿が見えなくなる。すぐに電車は動き出して、視界から電車は消え目の前の景色が元に戻る。ベンチに座ったまま、みなはただ、それを眺めていた。



 直紀が好きだった。すごくすごく、好きだった。

 だから、傍にいたかった。傍にいてほしかった。誰よりも、近くにいたかった。彼の一番近くに、ずっと、いつまでも。

 だから他の人なんて、誰一人、直紀の傍にいなければいいと思った。そうしたら、何も心配することなんてないんだ。直紀が好きだって思ってる人も、直紀のことを好きだって思ってる人も、いなければいい。みなだけなら。直紀が頼れるのも、笑顔を向けられるのも、みなだけなら。


 それは、あの日抱いた暗い想いに似ていた。

 直紀の味方なんて、いなくなってしまえばいい。そんな中で、みなだけが優しく手を差し伸べてあげる。直紀が縋ることができる、唯一の手になってあげる。そうしたら、直紀はみなから離れられないから。そのために直紀がどれだけ傷つこうが、構わないと思った。

 直紀の痛みなんて、いつだってみなにとっては想像の範囲外にあった。直紀を優しくいたわりながら、その実、この状況がいつまでも続くことを願っていた。直紀と、直紀の大事な子が苦しむことを、心の奥底で、確かに願っていた。


――あの子のどこがいいの。


 粟生野さんの声で響いていたはずのその言葉は、いつの間にかみなの声に変わっていた。


 陰口を言ってる人がいたら、みなが釘を刺しておいてあげる。教科書を隠されたときはみなが一緒に探してあげる。それでみなにまで飛び火してきたって、みなは平気だって笑えるし、ずうっと直紀の傍にいてあげられる。直紀の味方だって、堂々と言える。

 でも、あの子にそんなことはできない。スリッパを隠されたくらいで、寝込んで、学校にも来られなくなっちゃうような、直紀のために平気な振りすらできないようなあの子が、直紀のためにしてくれることなんて、何一つない。

 ねえ、ないんだよ、直紀。

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