第19話 雨

 もう五月も終わるというのに、頬に落ちてきた水滴は驚くほど冷たかった。

 いくつものゴミ袋とプリントの束が無造作に置かれているその場所に、場違いなものは見あたらなかった。

 喉をゆるく締めつけられているかのように、息がしにくい。ないとわかっても、未練がましく視線を端から端へと何度も往復させる。

 プリントが、雨にさらされ汚れた灰色へ変色していくのを目に入れたとき、また少し息苦しさが増した。


 ゴミ袋の下を確認しようと手を伸ばすと、制服が腕に貼り付くような感触があった。目をやれば、白かったはずのカッターシャツは目の前のプリントと同じように灰色に変わっていて、重たいほどの水気を含んで腕を包んでいた。

 雨脚が強くなっていたことに、そこでようやく気づいた。側の駐輪場の屋根を、耳に痛いほどの騒々しさで雨が叩いている。


 同じ本を買って白柳へ渡せば、それで済む話なのかもしれなかった。それは難しいことではないし、白柳はきっと、気にしないと言ってくれるのだろう。しかし、問題はそこではないのだとはっきり感じていた。

 数日前まで、白柳の手の中にあった。白柳が、大切に扱っていた。その本が、汚れて、どこかで雨に打たれているのだと、そう考えただけで息が詰まった。とにかく自分の手に戻したかった。


 スリッパのまま飛び出してきたため、地面で跳ね返った雫がじわじわと靴下に染み入っていき気持ちが悪い。制服もますます水を吸って重たくなっていた。

 一つゴミ袋を持ち上げてみる。下には、雨に濡れていないコンクリートが隠れていただけだった。

 その隣のゴミ袋へ手を伸ばそうとしたとき、急に視界がぼやけた。気づけば前髪もぐっしょりと濡れていて、そこから滴った水滴が瞼へ落ちてきたためだった。

 拭っても、またすぐに滴り落ちてくる。何度か繰り返したあとで諦めた。滲んだ視界の中で、次のゴミ袋を掴む。その手にも、絶えず雨粒が落ちてきた。


 体温はだんだんと奪われていっているはずなのに、反して、寒さは消えていった。

 一つ一つ、ゴミ袋を持ち上げていく。足を踏み出すたび、靴下に水が飛んだ。そもそも、ここにはないのではないか、と頭の片隅で響く声は無視して、縋るようにゴミ袋を掴む。

 ここ以外に、心当たりはない。この場所で見つからなかったならば、見つけることはできない気がした。持ち上げようとしたプリントの束は、水を吸って柔らかくなっていたせいで、掴んだ拍子に脆く破れた。

 俺は思わず、手に残ったプリントの残骸をぼうっと見つめていた。我に返って、唇を噛む。それからふやけた紙切れは放って、また次のゴミ袋へ手を伸ばした。


 どのくらい時間が経ったのかわからなかった。

 地面に膝をつけば、すぐに濡れた感触が布を通して伝わってきた。

 外にはないとわかれば、あとは袋の中しか思いつかなかった。一瞬も、躊躇わなかった。自分でも、なぜこんなに必死になっているのかよくわからなかった。まるで取り憑かれたように、あの小さな本を求めていた。

 さほど遠くない場所から、生徒たちの喧噪が聞こえる。

 雨の中傘も差さず、ゴミ袋を漁っている人間とは一体どのように映るのだろう、と、ふっと冷静になった頭の片隅に、そんな疑問がよぎった。けれどその疑問も、深く染み入ってはこなかった。


 きっと、白柳の本を探すのは白柳のためではないのだろう。頭のどこかで、気づいていた。手元から消えた途端、あの本が、白柳を繋ぎ止める唯一の綱だったように思えた。

 眠れないのだと、そう訴える白柳の声を思い出す。きっと、これ以上は無理なのだ。本が見つからなければ、俺はもう、白柳の傍へは行けない。雨音が耳元で響くたび、そんな考えに取り憑かれていた。


 袋の口は、思いのほかしっかりと結ばれていた。前髪から落ちてくる雫のせいで、あいかわらず視界は悪い。しばらく苦戦したあとで、ようやくきつい固結びが解けた。

 息をつく。そのとき、ゴミ袋を握る自分の手に、薄くオレンジ色の光がかかっているのに気づいた。手元を濡らしていた雨粒が、いつの間にか消えている。さっきまでは結び目を解くことだけに集中していたためか、気がつかなかった。

 直後、じゃり、と靴の底とコンクリートが擦れ合う小さな音が耳に届く。

 驚いて振り返れば、見慣れた友人の顔があった。


「……みな」

 みなは、何も言わず俺を見下ろしていた。

 濡れていなかった彼女の制服に、ぽつぽつと水滴が染みを作っていく。

 握っているオレンジ色の傘を、俺のほうへ差し掛けてくれているみなの顔には何の表情も浮かんでいなかった。静かというより、作り物のような無表情だった。それは、以前に一度だけ目にしたことがある、彼女の表情だった。


 無言でこちらを見つめる彼女の目を、俺も黙って見つめ返す。この沈黙を破るための言葉が、見つからなかった。

 雨は弱まることなく、みなの髪や肩を濡らし、俺の頭上にある傘を叩いている。思い出したように、体に貼り付く制服の冷たさが染み渡ってきた。

 みなの柔らかそうな茶色い髪が、今はぺたりと下へ流れている。その先から、雫が滴り落ちた。同時に、また俺の前髪からも水滴が零れる。

 ぼやけた視界にあるみなの顔が、笑顔を作りかけるのがわかった。しかしそれは完成することはなかった。上がりかけた口角は、引きつったように動きを止める。

 直後、みなの表情がぐしゃりと歪んだ。作りかけの笑顔はあっという間に崩れて、泣き出しそうな顔へ変わる。


 そのとき、急に言うべき言葉を思い出した。

「白柳の本、探してて」と口を開きかける。

 けれど、「し」の音を口にするより先に、頭上から傘が消えた。

 ふわ、と弧を描いてオレンジ色の傘が地面に落ちるのを思わず目で追ったとき、一拍遅れて、視界が黒い影に覆われる。

 額に、少しだけ濡れたブレザーが触れた。芯から冷え切っていた体に、みなの体温が驚くほど温かく感じられた。


 目の前の、点々と黒い染みのできた肩に、また新たに染みが現れていく。

 頬に、冷たい髪が触れた。頭の後ろへ回された彼女の腕に、力がこもる。同時に、声がした。ひどく近くから響くその声は、聞き慣れたものであるはずなのに、初めて聞く声のように思えた。

「やっぱり、嫌だな……」

 混じるわずかな震えさえも、はっきりと捉えることができた。

「みな、直紀が悲しいのは、嫌だな」

 たどたどしい、子どものような口調だった。

 苦しげな呼吸が耳元で聞こえる。また少し、腕の力が強くなった。顔を俺の肩に埋めて、くぐもった声で彼女は続ける。今にも消え入りそうなほど弱々しい声も、この距離ならば雨音に邪魔されることもなく耳に届いた。

「ごめんね」

 途方に暮れたように、みなは繰り返した。

「ごめんね、直紀」

 ごめん。ごめんね、直紀。ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい。

 彼女が謝罪の言葉を並べる合間には、絶えず苦しげな呼吸が挟まれる。

 俺はただ、じっとそれを聞いていた。雨は目の前にあるみなの肩を濡らし続けていて、すでに染みというより、全体的に濃い色へと変えてしまっていた。


 やがて、唐突にみなの声が途切れる。同時に彼女の腕から、ふっと力が抜けた。小さく息を吐いたあと、おもむろに体を離す。

 泣いているのかと思った彼女の表情は、予想に反して静かなものだった。俺と目が合うと、みなは怯えたようにすぐに目を伏せる。それから、無理に口角を持ち上げた不格好な笑みを浮かべ、ブレザーの内ポケットに手を伸ばした。

 ポケットから取り出されたみなの手にあったのは、探し続けていた、その本だった。


 差し出されたのは、汚れも折り目もない、綺麗なままの白柳の本だった。

 みなの手からそれを受け取ったとき、ぱたりと雨粒が表紙を濡らした。

 視線を上げる。みなと目が合った。彼女の表情が、途端に歪む。今度こそ泣いてしまったように見えたが、すでに彼女の頬は雨がしっかり濡らしてしまっていて、そこに涙が流れているのかわからなかった。

 やがて歪んだ顔が、くしゃりと、未完成な笑顔に変わる。

 視線は俺から外れて、側に転がるオレンジ色の傘に移った。それを拾いつつ、立ち上がる。そうして、なにかを振り払うように立ち去りかけるみなに気づいたとき、ぞっとするほどの焦燥に駆られた。


 手を伸ばす。今引き留めなければ、永遠にこの場から立ち去って戻ってこないものを必死に繋ぎ止めるように、みなの腕を掴んだ。驚いたように振り返った彼女を、思い切りこちらへ引き寄せる。

 気づけば、俺もみなもずぶ濡れだった。

 彼女の腕を引っ張りながら、空いたほうの手でそのまま抱きしめる。途端に、息が詰まりそうになった。背中に回した手に、強く力をこめる。

 いつも、傍にいてくれた。どれほど俺の支えになってくれていたのかなんて、わからなかった。その彼女の背中が、こんなにも小さかったのだと、そんなことすら、俺は知らなかった。

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