第18話 自覚

 十秒ほど呼び出し音が続いたあと、もしもし、と戸惑ったような調子の小さな声が返ってきた。

 雨を避けるため駐輪場の屋根の下へ移動しながら、「白柳、大丈夫か?」と出し抜けに尋ねる。

 すぐに、『は、はい』と返事が返された。やはり戸惑っているようだった。


 強くなるでもなく、一定の静かさを保ったまま雨がコンクリートを濡らしていくのを眺めながら

「新井さんに、白柳が最近学校来てないって聞いて」

 白柳が困ったように『あ……』と声を漏らすのが聞こえた。

「なあ、ちゃんと言っただろ。白柳は何も悪くないんだよ。もう何も心配することないから。大丈夫だから」

 思わず捲し立ててしまったあとで、我に返った。電話の向こうで、白柳が口ごもっているのがわかる。一度息を吐いたあと、「なあ白柳」と静かに呼んだ。

 少し間があって、はい、と語尾を上げた調子の声が返ってくる。

「もう、誰も白柳に嫌なことはしないよ。あれだって、俺と一緒にいたからあんなことされただけなんだよ。だから、もう大丈夫だって。心配しなくても、白柳には話しかけないようにするし」

 そこまで言ったところで、『嫌です』と思いがけなく強い調子の声が聞こえて、面食らった。

『嫌です、そんなの』

 繰り返した彼女の声は、ひどく必死に響いた。怯えたような声だった。

『私、大丈夫です。だから、嫌です。そんなの嫌です』

「どこが大丈夫なんだよ」

 俺の喉から溢れた声も、白柳に負けないほど強い調子のものだった。

「大丈夫なら、なんで学校来ないんだよ」

 どこか責めるような口調になってしまったことに気づき、すぐに後悔した。

 電話の向こうで、白柳が押し黙る。何をしているんだろう、とため息をついた。白柳を元気づけるために電話したんじゃなかったのか。

 冷静になって、もう一度改めて口を開きかけたとき、『先輩』と思い詰めた声で白柳が呼んだ。

『私のこと、嫌いになりましたか』

 小さいのに、その声は奇妙にはっきりと耳に響いた。

 驚いて、「なるわけないだろ」とまたやけに強い調子で返してしまった。

『私、先輩にあんなところ見せちゃったから――』

「白柳」


 嫌いになんかならないよ。そう言おうとして、やめた。

 開きかけた口を閉じて、一度ゆっくりと息を吐いた。それから、できるだけ穏やかな声になるよう努めて「白柳」と、ふたたび彼女の名前を呼ぶ。

 自分でも驚くほど、するりと言葉を紡いでいた。

「好きだよ」

 口にして、ようやくはっきりと感じた。

「俺は、白柳のこと、好きだ」

 白柳は何も言わなかった。しばらく沈黙があった。雨が、変わらぬリズムで控えめに屋根を叩いている。

 やがて、小さく息を吸い込む音がした。『先輩』と白柳の声が続く。


『眠れないんです』

 先ほどまでとは変わり、訴えかけるような悲痛な声だった。

「え?」と聞き返せば

『わかってるんです。ちゃんと、信じてます。先輩の言葉は、私、全部信じてます。でも駄目なんです。昔のこと、どうしても思い出しちゃうんです。そうしたら止まらなくなるんです。あのときのこと思い出したら、息ができなくなって、痛くて痛くて仕方なくて、眠れないんです。最近、ずっと』

 先輩、と縋るように白柳が呼ぶ。

『私、どうしたらいいんでしょうか』


 咄嗟に、言葉が出てこなかった。

 携帯を握る手に力を込める。雨がコンクリートを濃い色へ変えていくのを見つめながら、なんとか「大丈夫だよ」と口を開く。

 その言葉は、自分でも嫌になるほど軽く響いた。それでも、それ以外に彼女へかける言葉が見つからなかった。

「大丈夫。今は、白柳を傷つける人なんて誰もいない。昔のことは昔のことだろ。もう終わったことなんだから、何も、気にすんなって」

 並べた言葉の、気休めにしかならない安っぽさも、そもそも白柳が望んでいるのはそんな言葉ではないということも、俺は、よくわかっていた。



 通話を切ると同時に、遠くで予鈴が鳴った。

 一つため息をついて、踵を返す。そのとき、思いがけなく近くに佇む人の姿が目に入り、驚いて足を止めた。

 みなだった。駐輪場と校舎の間にある渡り廊下に立ち、こちらを見ている。

 目が合うと、彼女はにこっと笑って片手に持っていた弁当箱を掲げた。

「直紀、お弁当箱、食堂に置きっぱなしだったよー」

 みなと駿のことや弁当箱のことは、すっかり頭から抜け落ちていたのに気づいた。

「あ、ああそうだった。ごめん」

 謝りつつ、みなから弁当箱を受け取る。みなは笑顔のまま首を振って

「予鈴鳴ったよ。教室、戻ろ」

 と踵を返した。

 しばらく歩いたところで、みなが唐突に「柚ちゃん」と口にした。

 彼女のほうを向けば、真剣な表情でこちらを見つめる目と視線がぶつかり、少し驚いた。

「柚ちゃん、大丈夫そうだった?」

「え?」

「さっきの電話の相手、柚ちゃんでしょ」

 頷くと、みなは「大丈夫そうだった?」と同じ質問を繰り返した。

「うん、まあ。あんまり」

 そんな歯切れの悪い答えを返すと、みなが笑って「どっち?」と聞いてきたので

「あんまり、大丈夫そうじゃなかった」

 と言い直した。「最近、眠れないらしい」続けると、みなは短く相槌をうってから

「心配だね」

 と静かな口調で付け加えた。そうだな、と俺は頷いた。



 今から学年集会があるから体育館へ行け、と先生はホームルームをする代わりにそれだけ言って、さっさと教室を出ていった。

 すでに帰り支度をすませて待機していたクラスメイトの数人から、不満げな声が上がった。何かあったのかな、と教室がざわめきだす中、俺は、集会が開かれる理由がはっきりわかっていた。

 被害者である白柳が学校へ来なくなってしまったからなのか、事件は知らぬ間に大きなものへと発展していた。

 一年生を集めた学年集会では結局何の糸口も掴めなかったからなのだろう。そもそも犯人は一年生ではないのだから当たり前なのだが。

 体育館では、いつもと同じように、粟生野が前に立って生徒たちを並べていた。なんだか不思議な気分になった。マイクを使い、てきぱきと指示を出している彼女の表情の裏に、行き来している感情は、まったくわからなかった。 


 集会の内容は、予想通りだった。悪質な嫌がらせを受けた一年生がいる、と、もちろん被害者の名前は出すことなく、かなり大まかな内容が伝えられた。

 その後は、人を傷つける行為は何であろうと許されない、このような嫌がらせをした生徒は停学や退学も覚悟してもらわなければならない、という話が十分ほど続いて、集会は終わった。


 解散と告げられると同時に、生徒たちは一斉に踵を返す。

「じゃあ、なんであいつは退学にならねえんだろうな」

 どこかから、そんな声が聞こえた。途端に騒がしくなった体育館の中でも、その声ははっきりと耳に届いた。俺の耳に届くよう、言われた言葉なのだろう。

 前を向けば、中野がこちらを見ているのに気づいた。冷たい目だった。目が合うと、視線は外れる。

 中野の少し後ろを、粟生野の友人である二人の女子が歩いていたが、彼女らの視線がこちらに向くことはなかった。なにやら真剣な表情で話し込んでいる。その声が微かに聞こえてきた。

「知らないよ。別に、それとは関係ないんじゃないの」

「でも、さ、聞いたんだけど、例の一年生って図書委員だって。それに、」

「だからって関係してるとは限らないでしょう。だいたい、明李がそんな……」

 そこまで言ったところで、一人があわてたように声量を落とすようジェスチャーで示したため、二人の声はそれきり聞こえなくなった。


 学年集会は終礼も兼ねていたため、教室に戻るなりクラスメイトたちは鞄を掴んでさっさと下校していき、すぐに教室は閑散とした。

 俺はいつも通り、みなたちが来るのを待つため席に座る。相変わらず一定のリズムを保って降り続いている雨をぼんやり眺めていたとき、ふっと、今日傘持ってきてたっけ、と気にかかり、確認するため鞄を開けようとした。

 しかしその手は、鞄に触れようとした直前で止まった。


 閉めていたはずの鞄の口が、わずかに開いていた。ただそれだけのことだったが、一瞬でぞっとするほどの嫌な予感が広がり、息が詰まった。

 ファスナーを引く。中を覗き込めば、特に視線を巡らす必要もなく、気づいた。それは、たった一つ、絶対に触れられたくないものだった。

 つかの間、目の前が真っ暗になった気がした。

 なんで。声が、喉から独りでに零れ落ちた。

 もうとっくに終わったと思っていた。この一週間ほど、気配すら見せなかったのに、なんで今更。


 急速に、全身から熱が引く。鞄は無造作に机の上に放って、立ち上がる。他にも何かなくなったものがあるかもしれなかったが、それはべつにどうでもよかった。白柳の本が消えていた。それ以外は、どうでもよかった。

 なんで。ぐるぐるとその言葉ばかりが頭を回る。なんであの本なんだろう。俺の教科書ならいくらでもゴミ置き場へでもどこへでも持って行けばいいのに、なんで、たった一冊の、白柳のものを。

 ゴミ箱を覗いたが、そこには紙くずが転がっているだけだった。折り目も汚れもない、大切に扱われていたその本が瞼の裏に浮かぶ。

 ふっと目をやった窓の外は薄暗く、変わらず雨粒が落ちている。ぎりっと、体の奥が捻り上げられるように痛んだ。

 みなと駿は、まだやって来ない。

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