第17話 後悔

 あ、と思わず声が漏れた。しかし彼の耳には届かなかったらしく、下駄箱からスリッパを取り出す手が止まることはなかったため、ほっとする。

 少し躊躇ったあとで、すぐに、べつに俺があいつを避ける必要はないのだと思い至り、靴を脱いで下駄箱へ進んだ。

 そこでようやく、彼もこちらに気づいた。

 教室以外の、他のクラスメイトがいない場所で健太郎と顔を合わせるのは久しぶりで、いまいち勝手がわからない。

 俺の下駄箱は健太郎の隣だ。気づかない振りなどとてもできない距離だった。

 振り向いた健太郎と、目が合う。彼の顔が強ばるのがはっきりとわかった。なにも気にしない振りをして、出来るだけ軽い調子で口を開く。


「おはよ」

 健太郎は何も返すことなく、ただ気まずそうに視線を逸らした。充分予想はできていた反応だった。健太郎はすでにスリッパに履き替えていたため、俺が隣に立つのを待たず、すぐに踵を返してしまった。

 ため息をついて、下駄箱の中のスリッパを掴んだとき

「なんだあいつ」

 背後からいきなりそんな声が聞こえて、心臓が跳ねた。

 振り返ると、駿が靴を手に立っていた。視線は、廊下を歩いていく健太郎の背中に向けられている。

「びびった。いつからいたんだよ」

 俺の質問は当然のように無視して、「前からちょっと気になってたんだけど」と視線を健太郎から動かさないまま駿が続ける。

「あいつさあ、直紀と仲良かったんじゃなかったっけ?」

 まあ、と曖昧に頷くと、駿は眉を寄せて

「なのに、あいつも普通に粟生野の話信じてんのか?」

 言葉尻に健太郎への敵意を感じ、なぜか焦って「いや」と返していた。

「健太郎とは、粟生野とのことがあるちょっと前にいろいろあって」

「いろいろって?」

 健太郎が廊下を曲がりその背中が見えなくなったため、駿の視線がこちらに向く。

 簡単に説明しようとしたが、うまくまとめられそうになかったため

「あー……長くなるから、あとで話す」

 と返せば、駿は頷いたあとで「ま、どうせそれも粟生野がなんかしたんだろ」とさらっと付け加えた。

 頷く代わりに苦笑いを浮かべれば、ふいに駿が真面目な顔になってこちらをじっと見つめてきた。


「え、なに」

 と尋ねるのに重ねて、彼は真顔のまま「直紀、お前さあ」と、俺の背後を指さす。そして、表情も声のトーンもまったく変えることなく、これ以上ないほどあっさりした口調で言った。

「幽霊憑いてんぞ」

 ちょうど横を通りかかった一年生の男子が、ぎょっとしたように一度こちらを振り返った。

 数秒間、ぽかんと駿の顔を見つめる。その間も、駿は真顔のままだった。

「はあ?!」

 ようやく我に返って声を上げれば、駿は相変わらず飄々と「気をつけろよ」などと言ってきた。

「いや、え? なに? なにが憑いてるって?」

「だから、幽霊」

 なんとも淡々と告げる。明らかにふざけたことを言っているのに、駿の表情があまりに真面目で次第にわけがわからなくなってきた。思わず信じてしまいそうになるのを必死に打ち消すように、早口に続ける。

「いや、あの、一応聞くけど、冗談だよな?」

 そう尋ねたあとで、自分がものすごく間抜けな質問をしてしまった気がした。

 しかし駿は笑う気配も見せず、「本当」とみじんの隙もない口調で答える。ますます混乱しそうになるのをなんとか落ち着けようと

「冗談だろ」

 と繰り返しても、駿はにこりともせず同じ答えを返しただけだった。だんだんと駿の言葉を信じてきている自分に気づいてあわてる。

「いや、あり得ねえって」自分に言い聞かせた言葉は、口からも溢れていた。

「冗談だよな、駿」

「何回聞いてんだよ。本当だって」

「……マジで言ってんの?」

「マジで言ってんの。俺、見える人みてえだなあ」

「え、マジでマジなの?」

「マジでマジだって」

 なんとも嫌なタイミングで、白柳から借りていたホラー小説の一場面を思い出した。主人公が、悪霊に取り憑かれた女性に襲われる場面があったのだ。

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ?」

 その質問は、もはや駿に縋るようなものになっていた。

 駿は「さあ」と肩をすくめる。「さあって」憮然として彼の言葉を繰り返した。

「幽霊への対処法なんて知らねえよ。ちょくちょく会うわけじゃねえし」

「んな無責任な。駿が見つけたんだから責任もって退治しろよ」

 言いながら、滅茶苦茶なこと言ってるなと自分で思った。

「つーか、退治できねえんなら、むしろ教えないでほしかった」

 そう愚痴れば、「そりゃごめん」と腹立たしいほどの軽さで謝られた。

「なあ、どんな幽霊が憑いてんの? 悪い霊じゃないよな?」

「あー、いいか悪いかはわかんねえけど、そんな悪いやつじゃなさそうだし大丈夫じゃねえの」

「あ、そう……」

 力なく返したとき、ひたすら真顔だった駿がようやく笑った。しかし、「なーんて、冗談に決まってんだろ」というような期待した台詞が彼の口から発せられることはなかった。代わりに、

「直紀、怖いのか?」

 と、からかうように聞いてきた。ますます憮然として「当たり前だろ」とやたら力強く答えてしまった。

「大丈夫だって。ほんと、悪いやつじゃなさそうだから」

 何を根拠に、と心の中でぼやく。

「幽霊って、何の幽霊? 人間?」

「んー……動物。あれみてえだな。イタチ」

「イタチ?」

 また、ふっと疑念が湧いた。眉を寄せる。

「……もっかい聞くけど、駿、マジで言ってんの?」

 今度は、一秒も間を置くことなく「しつこい」とばっさり切り捨てられた。



 イタチだろうが、得体の知れないものが取り憑いているなどと言われればやはり気味が悪い。完全に駿の話を信じたわけではなかったが、気にしないわけにはいかなかった。

 ちらと背後へ目をやってみる。当然、何も見えなかった。

 気配すら感じないものに対して、なにをこんなに怯えているのだろうと苛立てば、同時にその苛立ちは駿のほうへも向かう。駿が変なことを言うせいだ。たとえ本当に“いる”のだとしても黙っとけよこういうことは、と心の中で文句を言いつつ、時折気休めのように南無阿弥陀仏を唱えてみたりした。

 しかも、タイミングが悪い。ちょうど白柳から借りたホラー小説を読み終えたばかりだから、こんなに気になってしまうのだ、と自分に言い聞かせてみたとき、ふっと数日前に見た白柳の弱々しい笑みを思い出した。


 保健室で話したきり、白柳とは会っていない。会えるはずがなかった。

 鞄の中にある、一冊の文庫本を眺める。時間が経てば、状況は変わるだろうと信じている。俺と親しい人間にまでいちいち嫌がらせを加えるという骨の折れる作業を、彼女がいつまでも飽きることなく続けるとは思わなかった。粟生野だって暇ではないはずだ。

 俺への誤解が解けることはないかもしれないし、嫌がらせも続くかもしれない。しかし白柳やみなへの嫌がらせは、粟生野がやめさえすれば終わる。とりあえず粟生野はバカではないし、きっといつか、自分がバカらしいことをしていると気づくだろう。それか、俺のことなんて本当にどうでもよくなる。そう、信じたかった。


 手持ち無沙汰に、手にした本をぱらと捲ってみる。折れ目一つない、その本。最初にこの綺麗すぎるほど綺麗な本を見たときは驚いたが、本を読んでいる白柳の姿を思い出せば、すぐに納得がいった。白柳の指先は、本当に繊細な、そして丁寧な動きでページをめくるのだ。まるで宝物を扱うかのようなその所作を思い出せば、自然と俺の手もそうっとページをめくっていた。

 とりあえずこの本だけでも返さないとな、とぼんやり思う。本を渡すくらいの短いやり取りなら大丈夫だろう。それか、新井さんあたりに渡してもらおうか。そんなことを考えながら本を鞄に戻した。

 もう一度、背後に目をやってみる。イタチは見えなかった。



「直紀、なんか今日、顔色いいね」

 食堂でみなにそう言われ、思わず箸を止めてみなの顔を凝視してしまった。

 みなは嬉しそうに笑って

「ほんとほんと。いつも直紀ね、昼休み、すっごい顔色悪いんだよ。ご飯もあんまり食べないし。でも今日は、食欲もあるみたいだね」

 よかったよかった、とにこにこ笑いながらみなが頷く。言われてみれば、たしかにいつもより腹が減っている。だが今日は、朝教えられた幽霊の存在が気になって仕方なく、顔色はいつもより悪くなっているような気がしていた。

「嘘だろ。駿が俺に幽霊憑いてるとか言うから、今日はそればっか考えててげっそりしてたんだけど」

「え、直紀、幽霊憑いてるの? すごいねー!」

 みなに目を輝かせてそんなことを言われ、思わず言葉に詰まる。駿が相変わらず真面目な顔で「イタチのな」と付け加えた。

「イタチ? 可愛いね。いいないいな。ていうか、駿って見える人だったんだ?」

 みなの反応を見ていると、怯えていた自分が恥ずかしく思えてきた。そんな俺の心を見透かしたかのように、駿がにやりと笑って

「幽霊のことばっか考えてたから、よかったんじゃねえの」

「え?」

「余計なことごちゃごちゃ考えずに済んだだろ」

 そのとき、はっと思い当たった。

「あ、駿、お前まさか」

 言いかけた言葉は、駿に「ところでさあ」と遮られた。

「あとで話すって言ってたやつは?」

 少し考えたあとで、思い出す。「ああ、健太郎のことな」と呟けば、すぐにみなが反応した。

「あ、みな、知ってる。桜さんの元カレだよね」

 みなの使った元カレという単語が、妙に胸に軋む。

「桜? 一組の?」

「うん。この前別れちゃったらしいね」

「ああ、もしかして、それで桜休んでたのか」

 駿の言葉にぎょっとして

「桜さん、今も休んでるのか?」

「いや、今は普通に来てる。二日くらい休んでたけど。まさか、それも粟生野となんか関係あるわけ?」

 頷く。駿は呆れたようにため息をついてから、「何したんだよ、粟生野」と続きを促した。

「健太郎に、俺が桜さんのこと好きだった、って感じのこと言ったらしい。あとは、俺と桜さんが二人で被服室にいるときに中に閉じこめたり。で、健太郎が俺と桜さんが一緒にいるところ見て、多分それで誤解して」

「そんだけ?」

「え?」

 思いがけなく駿にそう聞き返され、少し面食らう。

「そんだけで別れたのか?」

「まあ」

 頷けば、「ふーん」と駿は無表情に呟いた。


 そのとき、ふと視線をずらした先に、食堂の入り口付近にいる新井さんを見つけた。

「あ」と思わず声を上げると、みなと駿も俺の視線を辿って新井さんのほうを見る。

「ん? だあれ?」と不思議そうに尋ねてくるみなに「図書委員の子」と短く答えてから、急いで立ち上がった。

「ごめん、ちょっと行ってくる」

 二人にそれだけ告げて、早足に新井さんのもとへ向かった。歩きながら、白柳から借りていた本を今は持っていないことを思い出したが、それはあとでもいいかと思い直した。

 購買のほうへ向かう彼女の背中に「新井さん」と声をかけると、彼女は驚いたように振り向いた。それから、「あ、桐原先輩」と目を丸くしたまま呟く。


「あのさ、新井さん、最近白柳と会ってる?」

 出し抜けにそう尋ねれば、ふっと新井さんの表情が曇った。小さく首を横に振り、「会ってないです」と力なく答えが返される。

「え、図書室来ないのか?」

「図書室にっていうか」

 視線を下に落として言いよどむ新井さんを見ているうちに、嫌な予感がこみ上げた。

「柚ちゃん、学校にも来てないみたいなんです。ここ最近、ずっと」

 ずしりと、冷たく重たい何かが体の奥に落ちたようだった。

「メールとか電話とかしてみたんですけど、ちょっと具合が悪いだけだって、それしか言わないんです。でもあんなことがあったあとだから、心配で」

 新井さんが続けた言葉に、え、と声を上げる。

「あんなことって……新井さん、知ってるのか?」

 彼女は暗い表情のまま頷いて

「学年集会があったんです。もちろん、柚ちゃんの名前は出なかったし、何があったのか具体的に話があったわけじゃないですけど。でも同じときに柚ちゃんが学校来なくなったから、やっぱり、そうなんだろうなって」

 俺は、黙って頷くことしかできなかった。

 数日前に見た、白柳の笑顔が頭をかすめる。その後少し新井さんと言葉を交わして別れたが、ほとんど上の空で、自分が何と言ったのかもよくわからなかった。


 ポケットに入れていた携帯電話を掴むと、早足で食堂を出た。

 昼休みは、どこも生徒たちで賑わっている。人のいない場所を探して、視線を巡らすが見あたらなかった。

 ふと、最近何度か足を運んでいる駐輪場の奥にあるゴミ置き場が頭に浮かぶ。あそこなら、とりあえず人はいないだろう。携帯を開き、白柳の番号を探しながら歩いた。

 どうしてもっと早く連絡を取ろうとしなかったのかと、真っ暗な後悔が広がる。俺が白柳と関わりさえしなければそれで大丈夫だなんて、本気でそう思っていた自分が信じられなかった。

 通話ボタンを押すと同時に、落ちてきた雫が画面の上で弾けた。見上げれば、雨が静かに降り出したところだった。

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