第16話 家族
べつになにか期待してるわけじゃないんだ、とみなは言った。
「ただ、なんとなく、直紀には話したいなって思っただけ。みなが何か酷いことして、お母さんたちと一緒に暮らせなくなった、ってことまでは知ってるわけだし、それならもう全部知ってほしいなって」
みながそう切り出したのは、俺も駿も風呂に入って、あとは特にすることもなく、だらだらとテレビを眺めて過ごしていたときだった。
そこまで言ったところでテレビから高い笑い声が響いて、みながかすかに眉を寄せ「消していい?」と言った。頷くと、みなは立ち上がりテレビの上の方についている電源を切った。
「本当に、なにか期待してるわけじゃないんだよ」
まるで自分に言い聞かせるように繰り返したみなの声は、静まりかえった部屋の中では妙にくっきりと耳に残る。
「だから直紀は、何も言わなくていいよ。ただ、聴いてほしいんだ。あんまり、いい話じゃないんだけど」
いつだったか、駿もそう言っていた。うん、と静かに頷く。
みなは、なにか確認するように一瞬だけ駿を見た。その視線はすぐに戻ってきて、俺の顔に留まる。
「みながした、酷いこと、ね」
俺のどんな些細な反応も見逃さないように、彼女はまっすぐに俺の目を見つめている。
「妹を、殺したんだ。その子がお母さんのお腹にいるときに」
何を言われても動じない覚悟はできていたつもりだったが、そのひどく暴力的な響きに一度心臓が跳ねた。体の奥に重いものが沈み込む。
それでも、みなから目を逸らすのはやめた。動揺は悟られてもいいから、とにかくこちらを見つめる彼女の目から視線を外してはいけないと、それだけは強く思った。
みなの視線も、少しも動かなかった。
しばし間があった。何かを見極めようとするかのように、みなはじっと俺の目を覗き込んでいる。
やがて、俺の反応はとりあえず恐れていたものではなかったのか、彼女の表情がわずかに和らいだ。
「みなの本当のお母さん――みなを生んだお母さんね、男作って蒸発しちゃったんだって。それで、お父さんが再婚したのが今のお母さん」
みなはそこで言葉を切ると、ふっと視線を外した。
「お母さんね、すっごく可愛がってくれたんだよ、みなのこと。本当の娘じゃないのに。みな、本当に嬉しくて、幸せで、お母さんのこと大好きで。だから」
みなが目を細める。その表情は、先ほど見た、駿が家族のことを語るときの笑みと似ていた。自嘲するような、暗い笑みだった。
「独り占めしたかったんだ」
ひどく淡々とした口調の中にも、潜めた激しさが覗く。
「ずうっと、みなだけのものにしたかった。だから妹なんていらなかった。耐えられなかった。妹が生まれたら、お母さんはみなだけのお母さんじゃなくなる。やっと見つけた、みなを可愛がってくれる、大好きな人なのに。そんなの絶対嫌だったんだもん」
だから。そう続けたみなの顔が、かすかに歪んだように見えた。
「殺したんだよ。お腹の大きなお母さんを階段から落として、それでお腹の中の子は死んだ。みなはね、それ聞いて喜んだんだよ。お母さんが泣いてるの見て、満足してた。これでお母さんは、これからもみなだけのものだって。そうなれば何でもよかったんだよ。別にね、大好きな人がどれだけ傷つこうが、みながその人を独り占めできるなら、それだけで」
また戻ってきたみなの視線と、まっすぐにこちらの視線を合わせる。まるで何かを探すかのように、みなはじっと俺の目を覗き込んだ。それを静かに見つめ返す。そうしなければならないと、はっきり思った。
あいつは家族だと、そう言った駿の声が、唐突によみがえる。
だんだんと靄が晴れていくかのように、見えてくるものがあった。
「みなはそういう人間なんだよ」
それは、先ほど聞いた駿の言葉と同じものだった。
「だからね、当たり前だけど、そんなことになったあとでお母さんがみなと一緒に暮らせるわけないでしょ。お母さん、本当に傷ついたし、いっぱいいっぱい苦しんだ。みな、それもよく知ってるんだ。さすがに小学生とか中学生のうちは一人暮らしなんて出来ないし、だから高校に上がるまでは一緒に暮らしてたんだけど、お母さん、みなの顔見ようとしなかったな」
まったく感情の動きが伴わない口調だった。自分のことというより、遠い赤の他人を語っているかのように聞こえる。
「みなが中学生のときに、お母さんにはまた赤ちゃんができたんだ。そのときはもう、さすがにどうこうしようとか思わなかった。ちゃんと無事に生まれて、今は、お母さんとお父さんとその子の三人で仲良く暮らしてるよ。みなさえいなかったら、ずうっと幸せでいられるんだ、あの家族は」
家族。心の中で、その単語を繰り返す。
「うん、まあ、だいたいこんな感じ。なんか、どうしようもないよね。嫌になるほど、全部みなのせいなんだよ」
必死だったんだよ。駿はそう言った。その言葉を思い出すと同時に、頭の中で何かが合わさる音がした。
必死だったのだ。駿も、みなも。
二人とも、家族を嫌ってなどいなかった。どんなに冷え切った関係の中にいても、彼らの感情まで冷え切ってはしまわなかった。必死に、手を伸ばしていた。
けれどその手は、どちらも望むものに届くことはなかった。代わりに、“此処”に落ちた。届かなかった二つの手は、お互いを掴んだ。すべて必然だったのだ。
――ああ。
だから、“家族”なのか。
ようやく、理解した。
理解したと思った途端、瞼の裏が火がついたように痛んだ。視界が滲む。堪える暇もなかった。
頬を流れ落ちる感触に、ぎょっとしてあわてた。急いで袖で拭っても、涙はあとからあとから溢れてキリがなかった。もうごまかしようもなくて、とりあえず両手を目元に押し当てたまま俯く。なにか堤防が壊れてしまったようだった。溢れたものは、止めようがなかった。
「直紀?」
駿の声は、珍しくあわてていた。彼が、こちらへ寄ろうと体を動かしかけるのがわかった。しかし、すぐに思いとどまったように動きを止める。結局その場に座り直し、ただ俺を眺めていた。
「直紀」
続いて、困ったようなみなの声がした。口を開けば嗚咽が漏れそうで、きつく唇は結んだままこみ上げる涙が治まるのを待った。
人前で泣くのなんて、いつ以来かもわからない。鼻の奥が熱く、だんだんとその熱は耳にまで広がっていく。二人が、困り果てたように俺を見ているのがわかる。それでも、どうしようもなかった。なんとかこみ上げてくる嗚咽を呑み込む。声が上擦ってしまわないよう細心の注意を払って口を開く。
「ごめん。なんか、多分、情緒不安定なんだと思う、俺」
苦し紛れの言い訳は、それだけ言うのが精一杯だった。あとはまた嗚咽を押し殺すのに必死で、腕に顔を埋めた。
友達でも、恋人でも、駄目だったのだ。
心の底から求めたものは二人とも同じで、同じだったからこそ、こうして一緒にいる。どうしたって届かないものに見切りをつけて、新たな存在を探した。そうやって必死に築き上げた関係だったのだ。
“家族”に、なろうとした。
「なんで泣くの、直紀」
そう尋ねたみなの声は、もう困惑の色は消えていて、不思議なほど静かだった。
「みながかわいそうだから? 違うよね。みなは全然かわいそうじゃないもんね。悪いのは、全部みななんだし。じゃあ、あれかな。みなのお母さんが、かわいそうだから? それとも妹?」
黙って首を振った。何のための涙かなんて、わからなかった。ただ、言いようのない悲しさだけがあった。
しばらく沈黙があって、やがてみながそっとそれを壊した。
「嫌な話聴かせちゃって、ごめんね」
優しい声だった。それはまるで小さな子どもへ言い聞かせるかのようで、少しくすぐったかった。
「ありがとう」
呟くようなみなの声は、ふわりと耳の奥で溶けていく。ようやく落ち着きかけていた涙がまたせり上がりそうになって慌てた。
それでいいと思った。
二人は、家族だ。聞き分けのない子どものように、強く強く思った。
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