第15話 言葉

 みなが、自分の皿にある付け合わせのにんじんを、ごく自然な動作で駿の皿に移した。駿は一瞬渋い顔をしたが、もう諦めているようで、それらをみなの皿に戻すことはなく口に放り込んだ。

 ハンバーグを半分ほど食べたところで、みなが思い出したように「ねえねえ」と駿へ話しかける。

「みな、パフェ食べたいなあ。頼んでいい?」

「なんで俺に聞くんだよ。言っとくけど奢らねえぞ」

「直紀と半分こするから。ねっ、直紀」

「お前、ちょくちょく直紀使うのやめろよ。半分ことか言って、どうせ九割はみなが食べるだろ」

 結局、なんだかんだ言いつつ、みなの分と駿の分と二つのパフェがテーブルに追加された。


 ご飯作ったり片づけたりするの面倒だから外で食べようよ、というみなの意見で、みなの家へ行く前に近所のファミレスに入った。

 まだ時間が早いためか、店内はそれほど混み合ってはおらず、学校帰りの高校生の姿が目立つ。篠野高校の生徒もちらほら見える。

 それをぼうっと眺めながら、「粟生野って」となんとなしに口にしたとき、二人が揃ってパフェをすくう手を止めた。

 急に、今その名前を出すのはひどく場違いだったような気がして、「いや、なんでもない」と話を切り上げようとしたが

「粟生野が、なに」

 と駿に続きを促され、おずおずと続けた。

「粟生野って、本当に俺のこと好きだったのかな、と」

「まあ、普通なら本当に好きなやつにあんなことはできねえよな」

 いや、そうじゃなくて。言いかけたが、それに続く言葉が見つからなかったため、やめた。代わりに一度頷いて、そこで話を終わらせた。


 みなも駿もパフェは半分だけ食べて、残りの半分は俺に寄越した。そのため、結局俺が一番多く食べていた。

「嫌なことは、美味しい物食べて忘れちゃおうよ」

 いつかと同じ台詞を、みなは繰り返した。今度は駿まで「そうそう」と同意していた。

 ここ最近は、やたら甘いものの摂取量が多い気がする。落ち込んでいる人には甘いものを、という定説でもあるのか、白柳もみなも駿も、最近揃って甘いものを差し出してくれるからだろう。

 元々甘いものはそれほど好きでもなかったのだが、こうして彼らが与えてくれるものは、どれも不思議なほどおいしかった。


 パフェ半分では足りなかったらしく、みながさらに追加したバニラアイスもぺろりと平らげたあと、店を出た。会計のとき、みなはバイト代が入ったら返すから、と駿に頼み込んで、自分の食べた分も払ってもらっていた。

 みなのアパートへ向かう間も、交わす会話は他愛ないものばかりだった。学校でみなの言っていた「話したいこと」が気になっていたのだが、それを切り出す気配はなかった。

 そもそも、ファミレスや帰り道で簡単に話せるようなことならば、わざわざ家へ呼ぶ必要はないのだろう。すぐにそう思い至って、みなが話し出すまで大人しく待つことにした。


 案内された先は、ピンク色の壁が印象的なやたら可愛らしいアパートだった。ここにみなが住んでいるというのが、妙に納得できた。

 二階に上がり、手前から二つ目のドアの前で足を止める。みなが鞄から取り出した鍵でドアを開け、「どうぞー」と笑った。

「散らかってるけど、気にしないでね」

「お前がちょっとは気にしろよ」

 勝手は知っているかのように遠慮無く中に入った駿が、部屋を見回して呟いた。

 カラフルな水玉柄のカーテンだとか、それに合わせたらしいカラフルなベッドカバーだとか、ぼんやりと頭にあったみなの部屋のイメージそのままだった。少し雑然としているところも、想像通りだった。


「そういえば、直紀、大丈夫だったの? お母さんとかちゃんと許してくれた? 外泊」

「大丈夫。最初ちょっと渋ってたけど、みなと駿の名前出したら結構あっさり。母さん、気に入ってたみたいだから。二人のこと」

 そう言うと、みなの顔がぱっと輝いた。「わー、嬉しいな」と弾む声で呟いたあと

「直紀の家もすっごい厳しいのかと思ってたけど、そうでもないんだねえ」

 意外そうな彼女の声に、なんで、と尋ねれば

「だって先生の家だから。先生の家ってどこも厳しいんだろうなって思ってたよ。駿の家の印象が強いからだろうけど」

 みながそう言ったとき、いきなり駿が立ち上がった。驚いて振り向くと、「電話」と短く告げてから彼は部屋を出ていった。

 すぐに携帯の向こうの相手と言葉を交わす駿の声が聞こえてきた。それは抑揚のない静かな声だったが、ひどく刺々しく響いた。

 通話は、長く続いた。しだいに駿の声が苛々した色を滲ませてくる。それをなんとなく落ち着かない気分で聴いていると、「じゃ、切るから」と急にきっぱりした口調で駿が言った。通話は終わったらしい。

 部屋に戻ってきた駿は、疲れ切った顔でため息をついた。

「お母さん?」

 みなが尋ねると、駿は頷いた。「大丈夫だった?」と続いた質問にも、同じように頷く。みなは「そっか」と呟いたあとで

「じゃ、みな、お風呂沸かそっかな」

 と明るく言った。


 風呂が沸くと、みなは俺に先に入るよう勧めてくれたが、女の子を差し置いて一番風呂に入るというのはさすがに気が引けたため、みなに先に入るよう言った。渋々ながら彼女は頷いて、風呂場へ向かった。

 みながいなくなった直後だった。テーブルの上に置かれていた駿の携帯電話がふたたび震えだした。

 駿は中を確認すると、「電話」と先ほどと同じように短く告げて、また部屋を出た。かすかに聞こえる駿の声は、やはり穏やかとは言い難いもので、漠然と焦燥のようなものがこみ上げた。

「大丈夫なのか」

 戻ってきた彼に、思わずそんな唐突な質問が口をついた。

 しかし、それだけで駿は理解できたらしく、笑って「あー、大丈夫大丈夫」と軽く答えた。

「……お母さん?」

 だいたい察しはついていたのに、気づけばみなと同じ質問を繰り返していた。先ほどと同じように、駿は頷く。

 いろいろと気に掛かることはあった。しかし、どう尋ねればいいのかわからず口を開きあぐねていると、ふっと駿が真顔になった。それはほんの束の間のことで、すぐに彼の顔には表情が戻る。かすかに笑うその表情は、見覚えがあった。

「言ったっけ? 俺、あんまり親と仲良くないって」

 思い出す。それは、俺の家で見た、兄と比べられるのが怖かったのだと告げたときの駿の笑みだった。

「ちょっと聞いた」と静かに返せば、駿は黙って頷いた。しばし考えるような間があった。やがて、その暗い色が滲む笑みは崩すことなく、彼は言葉を続ける。

「俺の兄貴、すごいやつなんだよ。これも言ったっけ」

 頷くと、「ああ、そういや今日粟生野も言ってたしな」と駿は呟いた。

「本当にすごいやつなんだよ」

 駿は繰り返したが、そこに誇りだとか自慢だとか、そういった感情はまったく見あたらなかった。ただ事実をありのまま述べている、無機質なものだった。

「だからさ、当たり前っちゃ当たり前だけど、親は兄貴のほうが可愛いわけで」

 小さく相槌を打つ。まだ言葉は続くかと思ったが、「まあ、それだけでだいたいわかると思うけど」と、いきなり彼は話を打ち切ってしまった。

 なぜか少し焦って、「でも」と返す。

「さっきの電話、二回ともお母さんからなんだろ」

 駿はぽかんとして、「まあ」と頷いた。

「それさ、お母さん、駿のこと心配してるってことだろ」

 続けると、駿は納得したように「ああ」と呟いた。それから、笑って「違うよ」と答える。妙にきっぱりした口調だった。

「心配してんのは、俺のことじゃなくて自分のことだよ。俺が何か問題でも起こして、面倒なことにならないかって」

「いや、それ、駿のこと心配してるんじゃ」

「昔はさあ」

 言いかけた俺の言葉を遮って、駿が唐突に切り出した。

「今ほどあからさまじゃなかったんだよ。昔っから、俺と兄貴の差は歴然としてたんだけど。親の態度はそこまで酷くなかった。あからさまになったのは、父親が浮気しだしてからだなあ」

 え、と声が漏れた。駿は力なく笑う。

「もうちょっとうまくやりゃいいのに、すーぐ家族全員にばれて、そしたらなんか開き直ったらしくて余計堂々と浮気するようになって。その頃から母親がすげえギスギスしだしてさあ。まあ当たり前だけど。昔から俺より兄貴のほうが気に入ってるっぽかったけどさ、態度にすげえ差が出てきたのはその頃からだな」

「え、ちょっと待った」

 頭の中で整理するのが追いつかなくなって、そこで一旦止めた。

「家族全員が、お父さんが浮気してるって知ってんの?」

「そう」

「それで、そのままなのか?」

「そのままって?」

「浮気を黙って見てんの? 離婚とか、する気はないのか?」

 ああ、と合点がいったように駿は一度頷いて

「うちの母親、離婚なんて世間体が悪いからもってのほか、みたいに考えてるらしいから。そういうの、すげえ気にする人なんだよ。周りからどう見られるかってところのほうがさ、自分が幸せかどうかより重要らしい。立派な職業に就いてる夫がいて、裕福で、優秀な息子もいて、周りからうらやましいって言われる家庭にいたいんだよ。だから表面的には浮気を許して、幸せな家庭っていう外見を壊さないようにしてんの」

 その気持ちを理解するのは、難しかった。眉を寄せていると、駿が笑って「そういう人もいるんだよ」と付け加えた。

「でもやっぱり、浮気されてんのは相当きついらしくて。兄貴だけをひたすら可愛がって、俺には冷たくあたって、そうやってなんとか気紛らわしてんだよ。かわいそうなんだよ、あの人も。兄貴は兄貴で、あんだけ期待背負わされてんのもきつそうだし。なんだかんだ、全然期待されてない俺が一番楽でいいんだよな」 

 そう言いながらも、駿の顔から暗い色が消えることはなかった。なにか反論したかったが、何も言葉が見つからなくて、結局小さく相槌を打つだけだった。

「俺もさあ、中学の頃までは必死だったんだよ。なんとかして兄貴より良い点数とろうって、テストとかやたら張り切ってて。でも結局、俺はどんなに頑張っても九十点しかとれなくて、同じときに兄貴はさらっと百点とってくる、って感じだったな、いつも。父親が浮気しだして家の中の空気があんなふうになってからは、なんかもういいやーって気になってきて」

「でも」

 思いのほか大きな声が口をついて出た。

「駿はいいやつだし」

 言いながら、自分が相当脈絡のないことを言っているのはわかっていた。

 いいやつだし、何なのか。なにか続けるべきところだろうに、それ以外言葉が見つからない。ただ、駿にそれだけ伝えたかった。伝えなければならないと思った。


 駿はしばし黙って俺の顔を見つめた。やがて視線を落とし、「いいやつ」と俺の言葉を反芻するように繰り返す。そして、いやにはっきりとした口調で、続けた。

「全然いいやつじゃねえよ、俺は」

 なぜか妙に焦って、「でも」とすぐに彼の言葉を打ち消す。今度は、続く言葉が次々に溢れてきた。

「最近、俺はいっつも駿に助けてもらってるよ。あんなことになっても俺と変わらずに接してくれるのなんて、駿とみなだけだし」

 駿の表情に変化はなかった。俺の言葉には取り合わず、駿はさらに重ねる。

「俺さあ、基本、嫌なやつなんだよ」

 投げやりにも響いたその声に、なんだか意地になって、三度目の「でも」を言いかけた。しかし、駿が言葉を続けるほうが早かった。

「だってさ、俺、もしみなが粟生野と同じことしたとしたら、直紀のこと助けねえもん。みなに止めろとか言わないし、直紀の力になったりもしない。何もしないよ。むしろ、みなを手伝うかもしんねえし」

 俺はそういうやつなんだよ。念を押すように、駿は付け加えた。


 その言葉に軽く動揺してしまったのを隠すように目を伏せた。一度ゆっくりと息を吐く。それから、「でも」と口を開いた。

「今は、駿はちゃんと俺の力になってくれてる。それで充分だよ。別にそれだけじゃなくて、駿には、いいところいっぱいあるし」

 きっと、一番伝えたかったのはこれなのだと思う。少しだけ、駿は驚いたような顔をした。やがて、ふ、と表情を緩める。その笑みには確かに穏やかさが戻っていて、ほっとした。

「俺、多分、それ言ってほしかったんだろうなあ、直紀に」

 そう呟いた彼に、「え?」と聞き返したのは無視された。

「なあ直紀」と視線はこちらを向かないまま、駿が呼んだ。

「直紀さあ、あの一年生が好きなんだろ」

 否定する隙などみじんもないほど、断定的な口調だった。自信に満ちて断言するというより、事実をありのまま告げているような印象だった。

 それは初めから質問ではなかったらしく、俺が何か返すより先に彼は低い声で呟いた。

「みなだったらよかったのに」

 そうしたら、俺たち、きっと。

 駿がそこまで言ったとき、みなが風呂から戻ってきた。彼の言葉はそこで途切れた。それきり、続きを聞くことはできなかった。

 駿はそこではっきり言葉を切っていたし、みなが戻ってこなかったとしても、その言葉を最後まで聞くことは、きっとできなかったのだろうと思う。

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