第14話 憎悪

「何の用だよ」

 話がある、という駿の言葉に、粟生野が何か返すより先に、そんな中野の鋭い声が割って入った。

 駿は面倒くさそうに中野へ視線を移し

「いや別に、お前に用はねえよ」

 と素っ気なく返せば

「粟生野に、何の用だよ」

 敵意を隠すこともなく、中野は言い直した。


 俺と駿、それにみなが揃って粟生野の机の前に立ったときから、教室中から怪訝気な鋭い視線が向けられるのは感じていた。

 数人の粟生野の友人が急いで立ち上がり、こちらへ歩いてきたが、その中でも席の近い中野が一番早かった。彼は粟生野の机の脇に立ち、噛みつくような視線でこちらを睨んでいる。

 駿は呆れたように「はあ?」と眉を寄せ

「なんでそれ、お前にいちいち言わなきゃいけねえんだよ」

 中野は、絶対に自分が正しいことをしていて、そして目の前にいる三人より高い位置にいる、と信じて疑わない目をしていた。駿へ向けていた視線を、ついと俺の顔にずらし

「あんなことしといて、よく平気で粟生野に近づけるよな」

 これ以上ないほどの侮蔑を込めて、吐き捨てた。駿が口を開きかけるのがわかった。しかし、それよりも早く粟生野が言った。

「――いいよ、中野くん」

 静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。驚いたように粟生野のほうを振り返った中野に、彼女はにこりと笑みを向ける。それから「ありがとね」と柔らかな声で続けた。

 粟生野がゆっくりと立ち上がると、中野は戸惑った表情を浮かべた。そんな彼へ「大丈夫だから」と柔らかな笑みを崩さないまま告げたあと、粟生野はこちらに向き直る。

「ここじゃ落ち着かないでしょう」

 短くそれだけ言うと、こちらの返事は聞かず粟生野は歩き出した。俺たちも、黙って彼女のあとに続いた。教室を出るまで、いくつもの鋭い視線が剥がれることはなかった。


 粟生野はまっすぐに廊下を歩いていく。そのまま六組の教室まで通り過ぎると、突き当たりにある鉄の扉を開けた。扉の向こうから、涼しい風が吹き抜ける。数日前、健太郎と最後に言葉を交わした場所だった。

 扉を閉めれば、休み時間の喧噪から切り離され、途端に辺りは静まりかえった。

 粟生野はこちらに体を向けると、

「で、なあに? 皆さんお揃いで」

 口元に薄い笑みを浮かべ、そう尋ねた。初めて見る表情だった。粟生野の冷たい表情なら、最近何度か目にしている。しかしその表情は、これまで見たどんな冷たさとも違う、ひどく歪んだ憎悪の混じるものだった。

 彼女はちらと俺へも視線を向けたが、そのあとは駿とみなのほうだけを見ていた。


「いい加減にしろよ、お前」

 いきなり飛んできた駿の低い声にも、粟生野は飄々と「何が?」と返す。

「みなの靴と、あの一年生のスリッパ。捨てたのお前だろ」

「知らない。何のこと?」

 怯む様子など、みじんもなかった。どこまでも飄々と、粟生野は聞き返す。薄い笑みも崩れることはない。

 駿は一つため息をついて

「つーか、直紀に何がしたいわけ? 誤解解いて、嫌がらせもやめてほしかったら、自分と付き合えとか言うのか?」

 粟生野は短く声を上げて笑った。彼女は自分たちより高い場所に立っている、と、そうはっきりと感じられた。

「そんなみじめなこと、しないわよ」

 虚勢などではない。ひどくきっぱりとした口調だった。

「別に、私もう、桐原のことなんてどうでもいいの」

「じゃ、もうやめねえ? あんな程度低い嫌がらせ。小学生じゃねえんだから」


 そのとき、すっと粟生野の顔から一切の表情が消えた。なにか考えるように視線を足下に落とす彼女の仕草が、寂しそう、だとか一瞬奇妙なことを感じた。

 しかしそれは、ほんの束の間だった。粟生野の唇が動く。こぼれた声は小さな、低いものだったのに、不思議なほどの存在感を持って耳に届く。

「……どうして、それ、高須賀くんが言うの」

 次に粟生野が顔を上げたときには、彼女の視線はまっすぐに俺のほうを向いていた。ひどく冷たい、憎しみのこもった目だった。

「なんで桐原が直接言わないの。ああ、嫌なことはぜーんぶオトモダチがやってくれるってわけ?」

 間を置かず、「ちょっとー」とみなが口を挟んだ。

「直紀にきついこと言うのやめてよー。直紀、今すっごい参ってるんだから。粟生野さんのせいなんだよー?」

 粟生野の視線がみなへ移る。無表情だった彼女の口元がかすかに歪んだかと思うと、それはすぐに冷笑へと変わった。同時に粟生野が口を開きかけるのがわかったが、遮るように駿が言った。

「オトモダチに全部やってもらってんのはお前だろ。振られた復讐がしたいんなら、自分だけでやれよ。周りにまで手伝わせんな」

「別に、こんなことしてって私が頼んだわけじゃないわよ。みんなが勝手にやってるだけ」

「自分があんなこと言ったら、クラスのやつらがどうするかなんて想像ついただろ」

「だったら、高須賀くんたちが言ってあげればいいじゃない? 私が嘘ついてるって。桐原は何もしてないって。先生たちにも、みんなにも。教えてあげれば? 簡単な話でしょう」

 粟生野は、絶対的な優位を感じさせる笑みを浮かべていた。

「みんながどっちを信じるかなんてわかりきってるけどね。ああそうだ。ねえ園山さん、一人暮らしもバイトも学校側は認めてるらしいけど、快く思ってない先生も少なくないのよ。園山さんがもうちょっと真面目で成績も良かったら、先生たちの反応も違ったかもしれないのにね。それに、その髪だって。地毛らしいけど、信じてない先生も多いわよ。だってほら――お母さんの髪の色と、全然違うし」


 頬や指先を撫でながら吹き抜けていく風が、かすかに温度を下げた気がした。

 空気が変わったのを感じた。粟生野が何を言おうとしているのかはわからなかった。ただそれが、きっと触れてはいけないものだというのはわかった。

 少し間があって

「……それ、誰から聞いた?」

 押し殺した声で駿が尋ねた。潜めてはいるが、その声に動揺が混じっているのをはっきりと感じた。

 粟生野が冷たい笑みを深める。紛れもない憎悪が、そこにあった。

「中学のときに、先生から。ああ、言っとくけど私、全部知ってるわよ、園山さんのこと。園山さんがなんで一人暮らししてるのかも、昔、どんな酷いことしたのかも」

 そこで粟生野は、俺の表情を窺うように見た。きっと、わけがわからない、という顔をしていた。それを確認して、粟生野は満足したように笑う。

「先生が、粟生野になんでみなの話なんかするんだよ」

 不審げな駿の言葉に、粟生野がふっと真顔になる。一瞬、またその表情を寂しげだと感じたが、それは本当に一瞬で、すぐに彼女の顔には冷たい笑みが戻ったためよくわからなくなった。

「覚えてないと思うけど、私たち、一年のとき同じクラスだったのよ。園山さん、クラスに馴染めてなかったでしょう。まあ馴染めてなかったっていうか、自分から壁作ってたみたいだけどね。でも先生はそんなことわからなくて、ただ人見知りが激しい子なんだろうって考えたらしくて。だから学級委員だった私に言ったの。園山さんが早くクラスに馴染めるように、いろいろ計らってほしいって。そのときに、園山さんは家庭がちょっと複雑だから、って先生ぽろっと言ったのよね。だから私、どう複雑なんですか、何があったんですか、それがわからないと園山さんにどう接していいのかわからないから教えてください――とか、しつこく頼んだら教えてくれたわよ」

 粟生野はそこで一度言葉を切ると、みなのほうへ顔を向け「ねえ」と声を投げた。

「知らなかったでしょう? 園山さん」

 みなは何も返さなかった。そっと彼女の表情を窺い見る。そこには、初めて見るような顔があった。ひどく強ばった、どこか怯えたような表情で、みなは食い入るように粟生野を見つめている。

「心配してたのよ、先生。全然知らなかったでしょう。園山さん、何も見てなかったものね。高須賀くん以外、何にも」


 粟生野のこともみなのことも、俺には何一つ見極めることができなかった。ただそこにある、ひどく屈折した感情だけははっきりと目にした。

 粟生野は一度息を吐いて、また言葉を続ける。一瞬だけ、彼女の目が俺を捉えた。

「一緒に暮らせないのも、当たり前よね。私、その話聞いたとき、信じられなかったな。ねえ園山さん、自分を可愛がってくれた人にどうしてあんな酷いことできた――」

「粟生野」

 粟生野の言葉を遮り、駿が声を上げた。

「今はみなの話してるときじゃねえだろ。直紀の話してんだよ」

 粟生野に気にした様子はなかった。むしろ待っていたかのように、「ああ、そうだ。ねえ高須賀くん」と矛先を変える。

「お兄さん、生徒会長になったんでしょう。それに、この前の模試、全国で五位とったとか。すごいね、おめでとう」

 駿が怪訝気な顔をするのに気づいたのか、「友達に、福浦に通ってる子がいるの」と粟生野は続けた。


 まるで、彼女は何もかも知っているかのようだった。みなのことも駿のことも、彼らの抱く、きっと隠しておきたいであろう暗い感情さえも、すべてわかっているような目でこちらを見下ろしていた。

 良くない、と漠然と感じた。得も言われぬ焦りがこみ上げる。しかし俺には、何もわからなかった。この場にいる誰のことも、知らなかった。

「本当に、すごいわね。ここまで差があったら仕方ない気もしない? 私が親だったとしても、やっぱりどうしても扱いに差は出ちゃう気がするなあ」

 言葉尻に、駿を傷つけようとする意思をはっきりと感じた。無意識に、握りしめた拳に力がこもる。

 粟生野が言葉を切る。そしてまた、口を開く。次に彼女が発する言葉も、きっと二人を傷つけるものだ。どうしようもなくそれがわかるのに、俺は為す術無く、粟生野の唇が動くのを眺めるしかなかった。


「――かわいそうね」

 それは、声というより単なる音のように響く。見事なまでに、一切の感情も温度も削ぎ落とされていた。

「親からも愛してもらえないなんて」

 一瞬、目の前が白く染まった。喉から声が溢れるより先に、身体が動いた。粟生野の言葉を止めたかった。ただ、それだけに必死だった。

 伸ばした手は、気づけば彼女の襟首を掴んでいた。怒りは、一拍遅れて訪れた。粟生野の顔から笑みが剥げ落ち、驚いたようにわずかに歪む。頭の中はひどく熱くて、そして真っ暗だった。一瞬にして膨らんだ怒りだけが頭を埋め尽くして、それ以外何も考えられなかった。知らず知らずのうちに手に力がこもった。

「直紀」

 すぐに駿の手が伸びて、俺の腕を掴んだ。

 そのとき、眉を顰めていた粟生野の顔に笑みが戻った。自分の襟首を掴む手を見下ろして、高く唇の端をつり上げる。それから、俺とみな、それに駿の顔へ順に視線を滑らせた。

 駿に引っ張られるまま手を離せば、粟生野がいきなり声を上げて笑い出した。こんなにも感情のこもらない笑い声を聴いたのは、初めてだった。


「なんだよ」

 駿が眉を寄せて低く問えば、「だって」と肩を震わせたまま粟生野は答える。

「高須賀くんも園山さんも、自分たちが桐原を守ってやってるみたいな顔してるから、おかしくて」

 眩暈すら覚えるほどの鮮やかさで粟生野の顔から笑みが消え去り、完璧な無表情に切り替わる。

「ぜーんぶ、あなたたちのせいなのにね」

 ありったけの憎悪の込められた、声だった。

 最後に一度にこりと笑ったあと、粟生野は踵を返した。扉を開け、校舎へ戻っていく。重い音を立てて扉が閉まり、粟生野の背中が見えなくなるまで、俺たちはそれを眺めていた。


 頬に触れる柔らかな風の感触が、急にクリアに感じられるようになった。

 しばしの沈黙のあと、

「ね、直紀」

 張りつめていた空気がほどけるような、明るく柔らかな声でみなが呼ぶ。「ん?」と彼女のほうへ顔を向ければ、そこには穏やかな笑顔があった。それだけで、まるで何事もなかったような気にすらなった。

「今日、みなの家に泊まりに来ない? 明日休みだし」

 あまりに場違いで唐突な言葉に、「は?」と素っ頓狂な声を上げていた。

 みなはにこにこと笑ったまま

「ほら、この前は直紀の家に泊めてもらったから、今度はみなが招待するんだよ。ね、駿も一緒に、お泊まり会しようよ」

 はあ、と曖昧に頷くと、みなが少し真面目な顔になって「だめかな?」と尋ねてきた。

「いや、いいよ」

 答えれば、みなは「よかった」と笑う。

 そして笑顔のまま、しかしどこか真剣な声で付け加えた。

「みなね、直紀に話したいことあるんだ」

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