第13話 傷痕

 先日みなの靴が転がっていた駐輪場奥のゴミ置き場で、白柳のスリッパは見つけた。

 駿によると、俺の辞書や資料集が消えたときも、それらはここで見つけたらしい。すぐに見つけられるとわかっていて、それでも変わらずここに捨てるのは、彼らの目的が隠すことではないからだろう。

 ただ、自分たちの持っている敵意を伝えたいだけなのだ。俺のことを憎んでいると、許さないのだと、それを示すための行為なのだ。そして、俺の傍にいる者も俺の味方をする者も、同じなのだと。


 白柳のスリッパは、一年生担任の先生に「偶然見つけた」と言って渡しておいた。

 その後も教室に向かう気にはなれなくて、またふらりとゴミ置き場へ戻っていた。白柳は、みなと駿が保健室へ連れて行ったらしい。途中通り過ぎた昇降口は、数分前の騒々しさなんてなかったかのように静かだった。吐瀉物もすでに綺麗に片づけられていた。

 教科書でも靴でもスリッパでも、いっそ心おきなく全部切り刻むなり燃やすなりしてくれればいいと思った。机だって罵詈雑言で埋め尽くしてくれればいい。面と向かって暴言を投げつけて糾弾して、それでも気が済まないなら殴るなり何なり好きにすればいい。俺になら。俺の物なら。そんなことすら、本気で思った。


「なーおき」

 ふいに名前を呼ばれ振り返ると、駿がこちらに歩いてきていた。

 どれぐらい時間が経ったのかよくわかなかったが、「こんなとこいたのか」と駿がため息混じりに呟くのを聞く限り、彼はかなり長い時間俺を捜していたようだ。俺の隣に座ったあと、駿は携帯を取り出して電話をかけ始める。

「あー、みな? 直紀いた。駐輪場の奥の……そう、そこそこ」

 それだけ言って通話を切った彼に

「もう課外始まってるだろ」

 と、俺が言えたことではないと思いつつも言ってみる。案の定、「そりゃ直紀もだろ」と駿はばっさり切り捨てた。


「お前さあ、どうせサボるんなら保健室行きゃいいのに」

「なんで」

「なんでって、あの一年生、今保健室いるじゃねえか」

 当たり前のように言う駿の言葉に、少し憮然とした。

「俺のせいであんなことになったってのに、行けるわけない」

 力無く返せば、駿が「はあ?」と思い切り呆れた顔をした。

 駿は何か言わんと口を開きかけたが、けっきょく思い直したように一度口を閉じる。それから「……あのさあ」と妙に静かな声で言った。

「多分、あの一年生、前にこういうことされたことあるんじゃねえの」

「え?」

「スリッパなくなっただけであの反応はちょっと異常だろ」


 ゆっくりと息を吐いた。人に嫌われるのが恐い。人に頼み事をするのが恐い。いつだったか、白柳はそう言った。すべてが問題なく繋がる。すぐに納得できた。

 また、体の奥がぎりっと痛んだ。

「……なあ駿、保健室、行ってくれるか」

「は?」

「駿も課外サボるんだろ。じゃあ保健室行って、白柳の様子見てきてほしい。で、よかったら一緒にいてやってほしい」

「俺が行っても意味ねえだろ。わかってんだろ。あの一年生は直紀じゃないと」

 でも、と口を開きかけたところで、駿はすでに続く言葉を察したらしく、「つーか」と遮って声を上げた。

「ここ来る前、一回保健室寄ってきたんだよ。そしたらさ、なんかあからさまに怯えられて結構ショックだったんだけど」

 そう言いつつ、駿はまったく気にした様子もなく笑う。そんな白柳の姿はやたらはっきり想像できて、俺も少し笑った。「とりあえず」と駿は軽い口調で続ける。

「課外終わる前に、直紀は保健室行ってこい。多分あの様子じゃ、あの子、今日は早退するだろうし」

 今度は素直に頷いていた。それを見て駿も満足げに頷いたあとで、「でさ」と少し声のトーンを低くする。

「やっぱ一回粟生野と話そうぜ」

 唐突に彼が口にしたその名前に、ざわりと胸の奥が波立つ。え、と困惑した声がこぼれた。

「ほっといたらどうにもならねえし。あいつがやってるってことはわかってんだから」

「粟生野がやってるとは限らないだろ。噂流したのは粟生野だけど、こういう嫌がらせやってんのは粟生野本人じゃなくて、粟生野の友達とかだと思うけど」

「粟生野の友達が直紀に嫌がらせすんのはわかるけど、みなとかあの一年生にまで嫌がらせする理由はないだろ。直紀の味方するから気に食わないとか、そんなこと考えるのは、直紀を貶めようとした本人だけだよ。粟生野の友達は、粟生野に酷いことした直紀が許せないだけで直紀の友達とかに興味はないんだから」

 ああ、と呆けたように頷いてしまった。たしかにそうだと思った。

 そのとき、ふっと気に掛かっていたことを思い出した。

「なあ、駿は本当に何もされてねえの? こういうこと」

 駿は「ああ」と軽く頷いたが、俺がまったく信じていないような顔をしていたのか、

「いやマジで、俺は何もされてねえよ。なぜか」

 と真面目な顔で付け加えた。どうやら本当らしい。

「なら、よかった」

 ため息のような声がこぼれる。心の底から、そう思った。


 少し元気も戻った気がして、保健室へ行こうと立ち上がったとき、みながやって来た。

「あれ、課外は?」と思わず尋ねてしまった言葉は、「直紀こそ」と、またあっさり突き返された。

 みなは足を止めると、少しの間、じっと俺の顔を見つめた。

「どこ行くの?」

 不自然な間のあとに、みなは静かな声で尋ねた。

「保健室」と答えると、ふうん、と相変わらず静かに相槌を打ったあと

「柚ちゃんのとこ、行くんだ」

 と、独り言のような調子で続けた。みなの顔が奇妙に無表情で少し困惑したが、次にみなが口を開いたときには、その顔にはいつも通りの笑顔が戻っていた。

「みなもね、さっき様子見てきたんだ。だいぶ落ち着いたみたいだったよ」

「そっか」

「直紀を待ってるみたいだったよー。みなの顔見たら、なんかがっかりした顔されちゃったもん」

 みなが言うと、「あー、俺も俺も」と後ろから駿の声がした。

「わりと傷つくよな」「よね」と言葉を交わす二人に少し笑ったあとで、

「じゃ、行くから。駿たちはまだここにいるのか?」

「んー、どうせ今から課外出ても欠席扱いだし、ホームルーム始まるまでいる」

 そっか、と相槌を打って、踵を返そうとしたところで「直紀」と駿に呼ばれ、また振り返る。

「あとで二組行くから」

 それだけで、駿の言いたいことはわかった。うん、と静かに頷いて、踵を返した。


 保健室の戸は、ノックしてみても反応は返ってこなかった。

 開けてみると、中に人の姿は見えなかった。ただ、奥のベッドのカーテンが一つだけ引かれていた。

 近づいて、「白柳」と声を掛けてみる。布が擦れる音がしたあと、「先輩?」と小さな声が返ってきた。

 開けていいか、と尋ねれば、彼女は頷いた。しかし俺は、カーテンを掴んだ手を、なかなか動かすことができなかった。目を閉じて、一度息を吐く。それから、ゆっくりとカーテンを引いた。


 白柳はベッドの上で身体を起こして、こちらを見ていた。目が合うと、わずかに微笑む。いかにも弱々しい笑みだった。彼女の顔は、青白いと形容したほうが適切なほど、不健康に白かった。ぎしりと体の奥が軋んだ気がした。

 大丈夫か。そう尋ねようとした喉からは、意図せず「ごめん」と力無い声がこぼれていた。白柳がきょとんとした表情になる。

「俺のせいなんだよ」

 白柳はじっと俺の顔を見つめたまま、次の言葉を待っている。

「あのさ、俺」

 一瞬、迷った。しかしそれは、本当に一瞬だった。

「今、クラスのやつらにすげえ嫌われてて」

 白柳は静かな表情で、ただ俺の話を聴いている。一つ息を吐いたあと、「だから」と続けた。

「俺と一緒にいたから、白柳までこんなことされたんだよ。それだけだから。白柳は何も悪くないから、気にすんな……ってのは無理かもしれないけど、なるべく気にしないでほしい。本当、ごめんな。全部、俺のせいだから。白柳には、何も関係ないから」

 彼女は静かにまばたきをした。ふっと目を伏せた白柳の口元に、わずかに笑みが刻まれる。奇妙なほど穏やかな、感情の見えない笑みだった。少しの間があって、白柳の唇がゆっくりと動く。

「……先輩のせいじゃ、ないです」

 その声は小さいのに、いやにはっきりとしていた。

 思いも寄らない言葉に、え、と声が漏れる。

「先輩のせいじゃないですよ」

 彼女の穏やかさに、ぞっとした。その横顔はみじんも変化を見せない。おそろしく淡々とした調子で、言葉は続く。

「先輩が悪いんじゃないです。だって、私、私が」

「白柳」

 彼女の言葉を遮ろうと口を開けば、思いのほか強い声が溢れた。

 白柳はびくりと肩を震わせて、口を噤んだ。

 俺はベッドの脇に置いてあったパイプ椅子に腰掛けると、驚いたように顔を上げた彼女と視線を合わせる。まっすぐに彼女の目を見据えたまま、「あのさ」と口を開く。

「クラスの女子に、俺のことすげえ嫌ってるやつがいるんだよ。で、そいつが俺につきまとわれて乱暴されかけたってデマ流して、みんなそれ信じて、だから俺、今ほんっとに嫌われてんだよ」

 わずかに白柳は目を見開いた。「な、だから」言い聞かせるように続ける。

「そんなやつと仲良いやつも気に食わない、とか考えるやつもいるわけで、白柳にあんなことしたのは、そういうやつなんだよ。白柳が何かしたとか、そんなんじゃないから」

 そこで一度言葉を切って、笑った。「だから」心からの気持ちを込めて、言う。

「誰も、白柳のこと、嫌ったりしないよ」

 白柳もまっすぐに俺の目を見つめていた。彼女の顔から恐いほどの穏やかさが消え、代わりにどこか泣き出しそうに歪む。小さく、彼女は頷いた。

 俺も「よし」と頷くと、ぽんと彼女の頭を軽く叩いた。すると白柳はまた、あの幼い笑みを浮かべる。

 真っ白なシーツの上に無造作に置かれた彼女の手を、ふいに握りしめたくなった。しかし、そんなことは出来るはずもなかった。ただ、きっと当分見ることはできないだろう、目の前の無邪気な笑顔を見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る