第12話 手品

 教室に満ちる空気は、少しも変わることはなかった。それでも、それが始まった初日に比べ、気持ちは格段に楽になっていた。

 慣れたわけではない。きっと何日続こうが、これに慣れることなど出来そうにもなかった。救いは、みなと駿の存在だった。たった二人でもよかった。信じてくれる人がいるだけで、充分だった。


 二人は、休み時間のたびに代わる代わる二組の教室へやって来た。また何か持ち物を隠されたりしていないかと心配してくれているらしかった。

 二人のおかげかはわからないが、引き出しから教科書が消えることはさっぱりなくなった。ついでに机の落書きも、あの一度きりだった。目に見える形での嫌がらせはもうなかった。ただ、腫れ物を扱うかのごとく避けることで、俺への侮蔑を示すだけだった。


 気に掛かるのは、俺への敵意が俺の傍にいる者にも向くのを知ったことだった。聞いてみたが、みなが靴を隠された以外に、二人が嫌がらせを受けたことはないらしい。しかし本当にそうなのかは怪しかった。聞いたところで、もし何か嫌がらせを受けていても、二人がそれを俺に伝えるとは思えなかった。

 ただ、二人が明るい笑顔を崩さないでいてくれることが救いだった。俺と一緒にいるせいで二人の評判まで落としてしまっているのはわかった。とくに、二組のクラスメイトたちの二人への敵意は、俺に対するものと同じぐらいにあからさまだった。それを気に病めば、二人はいつも言った。――人に嫌われるのは、慣れてるから。


「なーおき、帰ろー」

 放課後、また教室に明るい声が響く。

 遠慮なく集う視線など気にした様子もなく、みなと駿は教室へ入ってきた。

 頷いて、立ち上がり鞄を肩に掛ける。確認したわけではないけれど、粟生野がこちらを見ているのははっきりとわかった。


 階段を下りようとしていたところで、思いがけない人物に出くわした。

 目の前の階段を上ってきたのは、白柳だった。なんだか、随分と久しぶりに見たような気がした。

 白柳はこちらに気づくと、はっとして固まってしまった。それからあわてたように視線をあちこちに彷徨わせたあと、思い切り俯く。そんな様子は、どこか叱られた子どものように見えた。

 この校舎の二階には、二年生の教室しかない。一年生の教室は一階だし、特別教室は隣の校舎だ。少し首を捻った。

「白柳、どうした?」

 尋ねると、彼女は困ったように「いえ、あの……」と俯いたままもごもごと返す。

「先輩、最近、図書室来ないから……その、えっと」

 それは今にも消え入りそうな声だったが、なんとか耳に届いた。自分の足下を睨んだまま、「どうしたのかなって」と白柳はいっそうか細い声で続ける。

 そこまで聞いて、思い当たった。そういえば、ここ最近は全く図書室へ行っていない。いろいろあったせいで、すっかり頭から抜け落ちていた。


 白柳は、すでにここへ来たことをひどく後悔している様子だった。相変わらず俯いたまま、困り果てたように立ちつくしている。

 ふ、と笑みがこぼれた。ここ最近の中で、一番自然に笑えた気がした。

「ごめん」

 思わず目の前の頭へ手を伸ばしていた。くしゃりと撫でれば、強ばっていた彼女の肩からふっと力が抜ける。

「ちょっと最近忙しくて、全然行けなかった。今日は行くから」

 ぱっと上がった白柳の顔には、弾けるような笑みが満ちた。「本当ですか?」と聞き返す彼女の声は、途端に高いトーンに変わっていた。

 頷いたあとで、あ、と隣の二人のほうを向くと

「じゃあ俺らは、先帰るな」

 駿があっけらかんと言った。みながにっこりと笑みを浮かべ、「ね、柚ちゃん」と白柳へ声を掛ける。

「直紀のことよろしくねー」

 白柳はきょとんとしながらも、「は、はい!」と大きく頷いていた。


 カウンターに座るなり、白柳は鞄の中を何やら探し始めた。また飴だろうか、などと思いながら眺めていると、彼女はおもむろに一本の紐を取り出した。手芸に使うような、麻の長い紐だ。

 何をする気なのかとそのまま待っていると、今度はタオルを取り出したあと、「あの、先輩」と遠慮がちに声が掛けられる。

「お願いが、あるんですけど」

 白柳の口からその言葉を聞くのは初めてだった。なんとなく嬉しくなって、「なに?」とできるだけ優しく聞き返す。白柳はしばし言いづらそうに口ごもっていたが、やがて握っていたタオルをこちらに差し出し

「これで、私の手首を縛ってくれませんか」

 白柳の唐突な発言は今に始まったことではない。だいぶ慣れたと思っていたが、これには思わず「は?」と当惑した声を上げてしまっていた。

 途端、白柳の顔が後悔したような表情に変わるのを見て、あわてて

「いや、別にいいんだけど、なんで?」

 と尋ねつつ、白柳の手からタオルを受け取る。

 白柳はまた、困ったように口ごもった。「えっと、その、ちょっと」とよくわからないことをもごもごと呟いている。

 まあいいか、と思って「どう縛ればいいの」と尋ねる。

「あ、えっと、こうやって、両手首をまとめて縛ってください」

 言われたとおり、タオルで白柳の両手首を一括りにする。

「ありがとうございます」と白柳は礼を言ったあとで、今度は傍らに置いていた紐を手に取った。

「それで、今度はこの紐をタオルに引っ掛けてください」

 わけがわからないまま、白柳の指示に従う。「あ、紐の両端はそのまま持っててください」と白柳が付け加えたため、離そうとした紐をふたたび掴んだ。

 白柳の表情がだんだんと真剣なものに変わっていく。それから、彼女はポケットからハンカチを取り出し、また俺に差し出した。

「あの、これを私の手に掛けてくれますか」

 ここまできて、ようやく白柳の意図が見えてきた。

 言われたとおりにハンカチを彼女の手に掛ける。そこでいきなり、「あのっ、先輩」と白柳が声を上げた。白柳の手元を見つめていた視線を彼女の顔へ上げ、「ん?」と聞き返す。そのとき、手元がもぞもぞと動くのがわかったが、視線を戻すのはやめた。

「今日、いい天気ですね」

 なるほど、と思い当たる。俺の注意を手元から逸らしたかったらしい。

 それにしても、もう少し上手いことやれないのかと心の中で苦笑してしまったが、白柳の一生懸命さは充分伝わってきて、そんなところも白柳らしいなと思った。

「そうだな」と相槌を打つ。その会話はそこであっさり終わらせて、白柳はまた出し抜けに

「あの、見ててください」

 と、どこか満足げな表情を浮かべて言った。

 ふたたび白柳の手元に視線を落とす。白柳は勢いよく手首を自分の体のほうへ引き寄せた。ハンカチが彼女の手から落ちる。タオルで縛られたままの白柳の両手首は、引っ掛けてあった紐をするりと抜けた。

「おお」と俺が声を上げるのと、白柳が「よかった、できた……」と呟くのは同時だった。

「すげえな」

 言うと、白柳は嬉しそうにはにかんだ。まるで幼い子どものような笑顔だった。つられて、こちらまで表情が柔らかくなるのを感じた。


 白柳の手首を縛っていたタオルを解きながら、「なあ」と話しかける。

「俺、そんな落ち込んでた?」

「え」

「だから、こんなことしてくれたんだろ」

 続けると、白柳は迷うように目を伏せたあとで、「はい」と素直に頷いた。それから、おずおずと

「あの……何か、ありましたか?」

 心配そうに見つめてくる白柳に、笑みを返してから首を振る。

「たいしたことじゃないから、もう大丈夫」

 あながち嘘でもない気がした。白柳は何か言いたそうにしばし俺の顔を見ていたが、やがて思い直したように

「先輩って、ホラー小説とか、読みますか?」

 相変わらず脈絡ないな、と思いつつ「あんまり」と答える。

「あの、すっごく面白い本があるんですけど、読みませんか?」

「ホラー小説で?」

「はい。すっごく怖くて面白いです」

「へえ。てか、白柳ってそういうの平気なんだな。ホラーとかすげえ苦手そうなのに」

「そうですか? 私、実はホラー、大好きなんです」

 俺はきっと、白柳のことも何も知らないのだろう。これから知っていければいいと、知っていきたいと、ぼんやり思う。

「じゃあ、読んでみよっかな」

 言うと、白柳は嬉しそうに笑った。鞄から、一冊の文庫本を取り出して

「面白い本読んだら、嫌なことも忘れちゃいますよ」

 みなと似たようなことを言うので、笑ってしまった。こちらに差し出された本を握る白柳の手を眺めながら、きっとあの手も温かいのだろうなと思った。



 翌朝、校門の前でみなと駿に鉢合わせた。おそらく、偶然ではないのだろう。これまでは朝に彼らと会うことなど滅多になかったのに、最近は毎日必ず顔を合わせている。きっと時間を合わせてくれているのだろうと思う。

「お、あれ、あの一年生じゃねえ?」

 ふいに駿が前方を指してそう言った。言われた先を見れば、見慣れた小さな背中が見えた。

「本当だ。柚ちゃんだ」

 みなの声は無駄に大きいため、白柳の耳にまで届いたらしい。突然後方から自分の名前が聞こえてきたことに驚いたように、白柳が振り向いた。

 彼女は俺の姿を認めると、あ、と小さく声を上げて足を止める。それから「先輩」と呟いて、顔をほころばせた。

「なんか、直紀しか見えてねえな、あの子」

 隣で駿がぼそっと呟いた言葉に、なぜか妙に気恥ずかしくなった。


「おはよ」と声を掛ければ、「おはようございます」と弾んだ声で白柳も返した。その笑顔だけで、この憂鬱な気分も少し吹き飛ぶような気がした。

 たしかに白柳は俺の顔しか見ていなくて、割り込むように駿が「おはよー」と白柳へ声を掛けると、白柳はようやく思い出したように「お、おはようございます」と、隣の二人へもあわてて挨拶をした。

 そのまま白柳も一緒に、校舎へ続く坂道を歩いていく。

「あ、あの本さ、昨日から読み始めたよ」

「本当ですか。面白いですか?」

「面白いっちゃ面白いけど、あれ、マジで怖いな」

 正直、白柳があれを平然と読んだなんていまいち信じられないぐらいだった。まだ三分の一も読んでいないが、情けないことに、すでに続きを読み進めるのが恐ろしい。白柳はきっと、ホラー映画だとかお化け屋敷だとかはまったく平気な質なのだろう。人は見た目によらないな、としみじみ思ってしまった。

「最後のほうは、もっと怖くて、すっごく面白くなりますよ」

 にこにこと笑いながら、さらっと白柳は恐ろしいことを言った。


 一年生の下駄箱と二年生の下駄箱は離れた位置にあるため、昇降口でいったん白柳とは別れて、靴からスリッパに履き替えに行く。みなも駿も、いつも通り青色のスリッパに履き替えているのを見て、なんとなくほっとした。

 下駄箱の先にある廊下で白柳を待っていたが、彼女はなかなかやって来なかった。どうかしたのかと一年生の下駄箱のほうへ様子を見に行ってみると、白柳はまだそこにいた。

「白柳、どうし……」

 続けようとした言葉は、喉を通りすぎることなく消えた。

 白柳は縛り付けられたように、その場に立ちつくしている。一つ開けられた下駄箱は、白柳のものなのだろう。蒼白な顔で、白柳はそれを覗き込んだまま固まっていた。


 ぞっとするほどの嫌な予感にさらされ、全身から急速に熱が引く。

 俺はこうなることもわかっていたのではないかと、頭の片隅でおそろしく冷静な声が響いた。

 白柳が口の中で何か呟いた。それはひどくか細く、そして震えていて、聞き取ることはできなかった。声にもならない声だった。彼女の白い手が震えながら上がって、自らの口元を覆う。震えは、彼女が息を吐くごとに激しくなっていく。

 もういやだ。

 荒い息の合間、ようやく白柳の喉から言葉として形を成した声が溢れた。それは、ほとんど悲鳴だった。ぎりっと、心臓がねじり上げられるように痛む。逃げ出したいほどの恐怖が突き上げた。

「も、やだ、こんな……もういやだ……!」

 絞り出すような声が響く。俺はきっと、この声を一生忘れることはできないだろうと思った。


 白柳がその場に崩れ落ちる。うずくまった彼女の背中が一度大きく震え、喉から引きつった息が漏れた。

 直後、彼女は嘔吐した。途端、辺りが騒然とする。短い悲鳴がそこここから響いた。驚いたように、みなと駿が駆け寄ってきた。俺は何もできなかった。為す術無く、白柳を見つめていた。金縛りにでもあったかのように、指一本、動かせなかった。目の前が、ひどく暗かった。

 屈みこんだままの白柳の脇にしゃがんだ駿が、俺に向かって何か言っている。保健室。先生。直紀。途切れ途切れに、そんな単語が耳に入った。みなが白柳の背中をさすりながら、彼女に何か話しかけている。そんな光景は、ひどく遠くから眺めているように映った。

 ふいに視線をずらした先、空っぽの下駄箱が目に入った。

 手品みたいだと、ぼんやり思った。

 白柳と一緒にいてはいけなかった。そんなこと、知っていたはずだ。見ない振りをしたのだ。俺が、白柳と一緒にいたかったから。ただ、それだけで。

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