第11話 大丈夫
「ね、直紀、クレープ食べたくない? 奢ってあげよっか!」
ちょっと寄り道して帰ろうよ、というみなの提案に頷いて、とりあえず駅まで歩いてきたところで、みなが駅前の小さなクレープ屋を指さして、唐突に言った。
「いや、いいよ」
腹減ってないし、と続けようとしたが、それより先に
「遠慮しなくていいよー。駿の奢りだから」
さらっと言い切ったみなの言葉に、「はあ?」と駿が声を上げた。
「なに当然のように言ってんだお前」
「だってみな、今、財布の中、75円しか入ってないもん」
駿が呆れたように「お前……」と呟くのは無視して、みなはまたこちらを向くと
「ね、直紀、食べようよ。直紀が食べたいって言ったら、駿、絶対買ってくれるから。ね?」
見つめてくるみなの輝いた目を見ていると、少し、笑えた。
「じゃあ、みなの分を一口もらう」
答えると、みなは満足げに笑い、「ね、そういうことだから」と駿に向かって手を差し出した。駿は渋い顔をして一つため息をついたあとで、鞄から財布を取り出した。
ちょっと待っててね、と言い置いてクレープ屋へ歩いていったみなの背中を見送りながら「なあ」と駿に話しかける。
「んー?」
「今日、桜さん、学校来てたか?」
「あー、そういや来てなかったなあ。なんで?」
返ってきた答えに、胃がずしりと重たくなる。いや、と首を振ると、ふいに駿が真顔になった。「直紀」と思いのほか深刻な声で呼ばれる。
「大丈夫か」
その声はいつになく真剣で、そして優しかった。それだけでわかった。駿も、きっとみなも、知っている。あの噂は、しっかり耳に届いているのだろう。二人がわざわざ教室まで迎えに来たのも、寄り道をしようと言われたのも初めてだったため、薄々は感じていたけれど。
駿の言葉に頷いたあとで、「なあ駿」と続けて話しかける。
「あれ、聞いたんだよな?」
そんな曖昧な言い方でも、駿は読み取れたらしい。少し間があって、「聞いた」と答えが返された。
「……なのに、何も聞かねえの?」
そう尋ねる声は、知らず知らずのうちに弱くなった。
「だってあんな話、本当なわけねえし」
一秒も間を置くことなく返された言葉はあまりにさらっとしていて、何も考えずに俺もあっさりと頷きそうになった。そこには、疑いの余地などみじんもなかった。駿は笑って続ける。
「つーかさ、デマ流すんならもっと信憑性あるやつ流せって話だよな。あんなん馬鹿らしいにも程があるだろ」
でも、みんなは信じてるよ。
そう言おうとして、やっぱりやめた。そんなことは、もうどうでもいいような気がした。代わりに、ありがとうと言いたかった。しかし今口を開けば、声はみっともなく震えそうで、けっきょく何も言えなかった。黙って、ただ頷く。駿はすべてわかっているかのように、いつもと同じ明るい笑顔を浮かべていた。
やがてみなが二つのクレープを手に戻ってきた。どこで食べようか、というごく短い話し合いのあと、駅の横にある小さな公園に移動して、その中のベンチの一つに腰掛けた。
「はい、直紀」と、みながクレープを一つこちらに差し出す。
「先に食べていいよ。いっぱい食べていいよ」
頷いてクレープを受け取ったが、とても、いっぱい食べられそうにはなかった。そういえば今日は昼飯も食べていないというのに、奇妙なほど腹が空いていない。
「みな、なに普通に食べようとしてんだよ。それ、俺の分だろ」
俺に渡さなかったほうのクレープにかぶりつこうとしていたみなに、駿が言う。みなは気にした様子もなく「一口一口」と早口に言って、遠慮無くクレープを囓った。それから「あ、こっちもおいしい!」と声を上げて、もう一口かじる。
「いっつもお前の一口はでかいんだよ」
一口どころか全体の三分の一ほどを食べてしまったあとでようやく渡されたクレープを眺めて、駿が抗議した。
みなは「ごめんねー」と軽い調子で謝ってから、俺の手にあるまだ口を付けていないクレープに目を留め「あれ」と声を上げた。
「直紀、食べないの? おいしいよ、それね、抹茶味の生チョコが入ってるんだよー」
隣で、駿が「俺の金だからって遠慮なく高いの買ったな」とぼやいた。
促されて、一口かじる。生クリームの甘さに遅れて、生チョコの甘さも口の中に広がった。さらに遅れて、ほのかに抹茶の香りも漂う。
「おいしいでしょ?」
にこにこと俺の顔を覗き込んでくるみなに、「おいしい」と返しつつ、クレープも彼女に差し出した。
「え、もういいの? もっと食べなよー」
「いいよ、あんまり腹減ってなくて」
みなが渋々ながらクレープを受け取ったとき、いきなり駿が「ところでさあ」と話し出した。
「直紀、粟生野と何があったわけ?」
切り出し方も口調もあまりにあっさりしていたため、俺のほうもするりと答えていた。
「……この前、付き合ってほしいって言われて」
「で?」
「ごめん、って」
「そんだけ?」
「思い当たるのは」
「なんだそりゃ。逆恨みかよ」
駿が大きくため息をつく。その日に聞いた、みなを冷たく罵る粟生野の声も思い出したが、言うのはやめた。みな以上に、駿にそれを教えるのは、とてもまずい気がした。
「んー、でも」
口の中に入っていたクレープを飲み込んだあとで、みなが口を開いた。
「粟生野さんが直紀のこと好きだってのは、みな、なんとなーくわかってたよ。四組の子がね、直紀と粟生野さんが付き合ってるって噂してたのも、聞いてみたら、なんか粟生野さんがそれっぽい言い方してたかららしいもん」
「それっぽい言い方?」
「ほら、思わせぶりな言い方っていうか、満更でもなさそうだったっていうか。とにかくきっぱり否定しなかったらしいんだよね、粟生野さんが。たぶん、だから噂になったんじゃないかなあ」
駿は、ふーん、と呟いたあとで
「なんかさあ、あいつ、噂広めるの上手いよな」
「あー、それ思う。今回のだって、上手い具合に広めていってるよね」
時折、下校する小学生や犬の散歩をしているおばさんが公園を横切るのをぼんやり眺めながら、二人の話を聞いていたとき、ふいに駿が「ん」とクレープを差し出してきた。ぽかんとして、差し出されたクレープと駿の顔を交互に見つめていると
「これも食っていいぞ」
さらりと駿が言った。見れば、そのクレープは、みなが三分の一ほど食べた状態からほとんど減っていない。
「いいよ、俺もう食べたし」
「一口じゃん。いいから食えって」
「駿も全然食べてないだろ。てか、駿がお金払ったのに、駿が一番食べてないじゃん」
「いいんだよ。正直、俺あんま腹減ってなかったし」
それは俺も、と言おうとしたのは「なーおき」というみなの咎めるような、けれど優しい声に遮られた。
「食べなよ。あのね、おいしいもの食べるとね、嫌なことも忘れちゃうんだよ」
「そんな単純な頭してんのはお前ぐらいだよ」
みなの言葉に、間髪入れず駿が返す。クレープでなくても、隣から聞こえるそんな軽口だけで、気持ちが楽になるような気がした。それに比例して、だんだんと空腹も感じてきて、駿から受け取ったクレープを口に入れた。まるであの日のキャラメルのような、暖かい甘さが広がる。
クレープってこんなにおいしかったのか、と少し驚いた。
昨日のことは冗談で、今日になればまた元通りの教室に戻っていないかと、そんな淡い期待がどこかにあった。
けれどもちろん、そこに待っていたのは変わらぬ冷たい教室だった。改めて突きつけられる事実に、また少し、体の芯が冷たくなる。
引き出しから、置いて帰っていた辞書や資料集が消えていることには、自分の席に着いたあと、すぐに気づいた。
今度は考える必要もなかった。昨日とは違い、数冊が消えたのではなく、引き出しは空っぽになっていたからだ。
さすがに今度はあわてなかった。ただ、二回目だとしてもやはり、血の気が引いた。立ち上がり、教室の隅に置かれたゴミ箱のほうへ歩いていく。皆、いつもと同じように談笑しているが、それでも視線を感じた。
ゴミ箱を覗き込んだとき、初めてあわてた。当然そこにあるだろうと思っていた辞書たちが見あたらなかった。中は、紙切れやらティッシュやらが転がっているだけのいつもと変わらぬ景色だった。
それもそうか、とすぐに納得する。昨日と同じことを今日もやるなんて、さすがにそこまでワンパターンなわけがない。あと五分ほどで課外が始まる時間だったが、辞書がなくては困るため、探しに行くことにした。
外のゴミ置き場だろうか、と考えながら早足に教室を出ようとしたところで、思いがけなく人の影が目の前に現れて、あわてて足を止めた。
「おー、直紀」
ちょうど教室に入ってこようとしていたのは、駿だった。
「はよ」と軽く挨拶をする彼に、同じ言葉を返すことはできなかった。駿の手にある数冊の厚い本にすぐに気づいて、驚いてそれらを見つめる。
「駿、それ……」
「外で拾った」
ひどくあっさりした調子で駿はそれだけ言った。そのとき、後ろから
「あ、これもだよー」
と高い声が聞こえた。振り返ると、みなが英和辞典を手に立っていた。
呆気にとられているうちに、二人は俺の横をすり抜けて教室に入っていく。
我に返ると、俺も彼らのあとに続いて教室に戻った。クラスメイトたちは、相変わらず何も気にしていないかのように雑談を続けている。けれど、しばしば視線がこちらを向くのはわかった。
「ていうかさあ」
辞書を俺の机の上に置いたあと、ふいにみなが声を上げた。大声というわけではないが、充分、教室全体に届く声量だった。
「程度低いよねえ。高校生にもなって、こんなことやってるんだね」
にわかに教室が静まる。視線がみなへ集まることはない。しかし、クラスメイトたちがみなの言葉を耳に入れ、そしてそれに反応したのははっきりとわかった。
また、急いで何事もなかったかのような空気を作ろうと、教室は騒がしさを取り戻そうとしたが、それより先に駿が続けた。
「だよな。どんだけ暇人なんだろ」
「なんかかわいそうだね」
二人の間で交わされる言葉は、しかしお互いではなく教室全体へ向けられたものだった。普段より少し大きめの彼らの声から、それはわかった。面食らって、呆然とそんな二人を見つめているうちに、課外の始まりを告げるチャイムが鳴った。
教室を出て行く前に、みなが
「ね、直紀、お昼一緒に食べようね。昼休み、迎えに来るからちゃんと待っててね。昨日も来たんだけど、直紀、いなかったでしょ」
そう言って、明るく笑った。
教室は未だ騒がしさを完全に取り戻せてはおらず、どこか戸惑うような空気が満ちていた。
ふと、粟生野がこちらを見ているのに気づいた。しかしその視線は、わずかに俺からは外れている。視線の先にあるのは、ついさっき二人が出て行った教室の後方の入り口だ。ひどく無表情に、粟生野はただ、それを見ていた。
みなたちの言葉が効いたのかはわからない。しかし昼休みに席を空けていても、今度は引き出しから何も消えることはなかった。引き出しの中を確認したときはほっとしたが、すぐにその安堵は打ち消されることになった。
放課後、また二組まで迎えに来た駿とみなと共に下駄箱へ向かう。
スリッパから靴に履き替えていたとき、いきなりみなが戻ってきて「ねえ」と呼んだ。
「やっぱり、先、帰ってていいよ」
そのときなぜか、自分でも驚くほどの嫌な予感がこみ上げた。
「みな、ちょっと用事思い出して」
「嘘だろ」
その掠れた声が自分のものだと気づくのに、少し時間がかかった。
取り出しかけていた靴を戻して、みなへ歩み寄る。みなは少し困ったように笑った。
「嘘じゃないよ。あのね、みな、そういえば職員室に呼ばれてて、」
「靴、ないのか?」
驚くほどはっきり思い当たったその考えは、気づけば口から飛び出していた。
みなは少し目を見開いたあと、やがて観念したように「鋭いね」と苦笑する。
心臓を、思い切り握りしめられたかのようだった。おくれて、ぞっとするほどの冷たさが全身を巡る。それは、これまで自分に向けられた姿の見えない悪意よりも、段違いに恐ろしかった。
俺が言葉を失っているうちに、駿も側に来ていた。
「じゃ、探そうぜ」
駿の口調は相変わらずあっさりしていて、それに返した「そうだね」というみなの声も軽く、そのことに少し救われた。
二人は心当たりがあるかのように、まっすぐに廊下を進んでいく。職員玄関から外に出たあと、向かったのは駐輪場の奥にあるゴミ置き場だった。
靴は、大量のゴミ袋が無造作に並ぶ中に、場違いに転がっていた。
「ほんっとに低レベルだな」
駿がみなの靴を拾って、ぱんぱんと軽くはたきながら呟いた。「だね」と駿の言葉に同意して、みなが靴を受け取る。それから俺のほうを向いて、にこりと笑った。その笑顔に、また喉を締めつけられたかのように息が苦しくなった。
「じゃ、帰ろっか」
どこまでも明るく、みなは笑っていた。
「ごめん」
その声も、無意識のうちに喉から溢れたものだった。それはひどく掠れて、不格好に響く。それでもかまわず、繰り返した。
「ごめん、本当に」
一瞬みなは真顔になって、そのあと、ふたたび笑みを浮かべた。先ほどの笑みとは変わって、柔らかく、優しい笑顔だった。「直紀」静かに、みなが呼ぶ。
「直紀が謝ることじゃないよ」
「でも、俺のせいだろ」
「ね、直紀」
ふいに、みなが手を伸ばした。俺の手を握る。人の手ってこんなに暖かかったのか、と、また驚いた。
「大丈夫だから」
少し、手に力がこもる。「大丈夫だよ」ともう一度繰り返したあとで
「みなね、人に嫌われるのなんて慣れっこだもん」
こんなにも優しい声を聞いたのは、生まれて初めてのような気すらした。
言いたいことはたくさんあった。何より、ありがとうと言いたかった。何度でも言いたかった。しかしけっきょく、何も言葉が出てこなかった。
「帰ろう」とみながもう一度言う。隣で、駿も笑っていた。
たとえ九十八人に信じてもらえなくても、いいと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます