第10話 変化

 空気とは、肌で感じられるほどはっきりと変化するのだと、今日初めて知った。


 教室の戸をくぐったあとに待っていたのは、昨日までとは一変した、冷たく余所余所しい空間だった。

 一瞬、教室中の半数以上の視線がこちらを向く。それらはすぐに逸らされたが、その一瞬だけで充分だった。それらが冷たい侮蔑の色を帯びていたことは、しっかりと捉えることができた。

 クラスメイトたちは、非難を言葉にして投げつけることはしなかった。ただ無言で、それを示していた。

 見ない振りをすることなど、出来そうにもなかった。気温まで下がってしまったかと思うほど、そこに満ちる空気は冷たかった。


 無意識のうちに、粟生野の姿を探していた。見つけるのには、少し時間がかかった。大抵粟生野の側には数人の友人の姿があるが、今日はいつにも増して多くの生徒が彼女の席を囲んでいた。

 そのうちの一人が、俺を見ているのに気づく。彼女は目を逸らさなかった。こんなにもはっきりと、人に睨まれたのは初めてだった。彼女は、嫌悪も怒りも侮蔑も、一つとして隠さなかった。ただまっすぐに、針のように鋭い視線を俺に向けた。


 自分の席へ向かおうと踏み出した足が、ひどく重たかった。肩に掛けた鞄も、重さを増している気がした。かすかに息苦しさがこみ上げる。空気が、うまく喉を通ってくれない。クラスメイトたちが何事もなかったかのように雑談を再開したあとも、冷たさも余所余所しさも、変わらずそこに存在していた。

 途中、健太郎の横を通り過ぎた。当然のように、彼は何も言わなかった。視線すら動くことはなかった。

 ずしりと、また少し鞄が重さを増す。指先がほとんど熱をなくしていたことに、席についたあとで気づいた。



 噂はあっという間に校内を駆けめぐったようだった。

 粟生野の目的はこれなのだと知った。俺を停学に追い込むだとか、そういった形として現れる仕打ちに興味はなかったのだ。どのくらい経てば学年すべての人間がこの噂を耳にするのだろう、と考えようとして、すぐにやめた。それは、恐ろしい未来だった。目を背けたかった。

 

 自分がするべきことが、まったくわからなかった。面と向かって糾弾されることはないため、クラスに浸透しているらしい噂を否定する機会すらない。もっとも否定したところで、信じてもらえはしないことは、もう嫌になるほど理解していた。

 どうすればこの状況が改善されるのかと考えれば考えるほどに、どうしようもないのだ、というただ一つの答えだけが色濃く目の前に現れてくる。それは怒りすら削ぎ落とすほどの恐怖を呼んで、恐怖はいっそう、どうしようもないのだという思いを強くする。途方に暮れるしかなかった。

 考えなければならないことは山ほどあった。でも、何も考えたくなかった。考えたところで行き着く結論は、真っ暗なものばかりだった。

 ただ、粟生野の人望の厚さと噂の広まる早さについて、他人事のように感心していた。


 授業はまったく頭に入らなかった。にわかに教室が騒がしくなって、それでようやく昼休みに入ったことに気づいた。

 いつの間に四時間も授業を受けていたのだろうと少し驚く。気づいたときには、健太郎はもう席にいなかった。空腹などみじんも感じられなくて、とりあえず立ち上がると教室を出た。

「ね、ほら……聞いた? 二組の」

「ああ、粟生野さんの……」

 廊下を歩く途中、二度ほどそんな潜めた声を聞いた。全身を巡る血液が、しだいに温度を下げていっているような感覚があった。声も、遠慮なく集う視線も振り払うように、あてもなく歩き続ける。


 気づけば、俺は三階にある被服室の前で足を止めていた。呆けたように、その扉を眺める。二日前、桜さんと閉じ込められたその場所。それが誰の仕業だったのかなんて、今となっては考えるまでもなかった。

 健太郎と桜さんの関係がこじれようが、そこはどうでもよかったのだろう。要は、俺と健太郎の間に決定的な亀裂を作りたかっただけなのだ。たしかに、健太郎の一番の弱点は桜さんだろう。だから、それを利用したのだ。何の躊躇もなく、健太郎と桜さんを惨い方法で巻き込んだ。全部、今日のために。


 健太郎と桜さんの仲の良さは、クラス内ではもちろん、学年の中でもわりと有名だった。その二人が別れたとなれば、ちょっとしたニュースになる。そして彼らの破局にどうやら俺が関わっているらしいという話も、誰が言い出すでもなく、自然と広まっているようだった。

 桜さんと別れると同時に、健太郎がぱったり俺と口を利かなくなったのだから、そういった推論に達するのはごく自然なことだと思った。粟生野との噂ほどのスピードや衝撃は持たないが、それでも静かに、健太郎と桜さんに関する噂も浸透していっている。


 誰も通らない静かな廊下の窓から、ぼうっと外を眺めた。教室へ戻ろうという気力が、なかなか湧いてこなかった。

 視線を右へずらせば、図書室の窓が見える。白柳は今もカウンターにいるのだろうか、とぼんやり考えた。さすがにこの距離からは確認できなかった。

 そのまま図書室を眺めていると、ふいに白柳に会いたくなった。こんなにも強烈に、誰かに会いたいと感じたのは初めてだった。

 けれど、会いに行こうという考えには至らなかった。白柳に、いつも通りの笑顔を向けられる自信がなかった。きっと、あからさまに落ち込んでしまう。そうしたら、絶対に白柳はあわてる。そしてそのあと、自分が何かしたのかと気に病むのだ。驚くほどはっきり、そんな彼女の様子が想像できて、心の中で苦笑した。



 声なき声だった非難が目に見える形で現れたのは、昼休みが終わり、二組の教室へ戻ったときだった。

 それは机の片隅に、姿こそ小さいくせに不思議なほどの存在感を持って佇んでいた。シャーペンで書かれた、薄く小さなその文字を、数秒という時間も要せずに見つけてしまった自分の目が忌々しかった。


『さっさと退学』


 ひどく簡潔な、一言だった。そんなたった一言で、身体の奥から真っ暗な寒気がこみ上げるのだということも、今日、初めて知ることだった。

 自分に向けられる悪意を、否定することすらできなくなった。

 誰が書いたのかなんて、もちろん特定できるはずもない。そもそも、特定などする必要もないのだ。これを書いた誰かはたまたま悪意を表に現しただけで、違いは、ただそれだけなのだ。

 その文字は少し丸っこくて、とりあえず女子のものなのだろうと、ぼんやりとそれだけ思った。

 机の上に落書きにおくれて、引き出しから数冊の教科書が消えていることにも気づいた。すぐには信じたくなくて、まず、忘れたのだろうかと考えた。しかし四限目に使った古典の教科書も見あたらないことがわかれば、もう認めるしかなかった。これから始まる日本史の教科書もなくなっていて、しばらく引き出しと鞄を探っていると

「なんだ、桐原、教科書忘れたのか」

 と教壇から声が飛んできた。頷くしか、なかった。思わず教室を見渡していた。皆、俺など存在していないかのように、机の上に広げた教科書やノートに目を落としていた。

 前を向けば、健太郎の見慣れた背中がある。ほんの数十センチ先のその背中は、途方もなく遠く見えた。


 教科書はわりとすぐに見つけることができたが、安堵する余裕はなかった。

 見つけたのは、教室の隅に置かれたゴミ箱の中だった。丸めて押し込められたそれを目にした途端、また少し、全身から熱が逃げる。

 外のゴミ置き場まで持って行かれなくてよかったと、頭の隅で思った。俺がゴミ箱からそれらを拾う間も、皆、何事もないように談笑していた。誰一人、こちらを見ようともしなかった。

 ふと、粟生野の机の脇に立っている中野の姿が見えた。粟生野と言葉を交わす彼の表情は、これまで見たことがないほど活き活きとしていた。ちらりと、中野の目が俺を捉える。その目には、わずかな優越が滲んでいた。


 教科書を手に席へ戻るとき、唐突に目が眩むほどの既視感に襲われた。

 知っている。見たことのある、光景だった。

 もう記憶の中から消えかけていたその光景が、急に鮮やかさを取り戻して目の前に広がる。

 小学校の頃。やはりこんなふうに、教科書を隠されて困っていた生徒がいた。彼の青い顔が、まるで目の前で見ているかのような鮮明さで、思い出された。

 ――俺は、そのとき、何をしていたっけ。



 ホームルームは、いつも通りの短いものだった。粟生野の、公にしたくないという意思を汲んでのことだろう。俺と粟生野に関する話は、一切なかった。先生の目がしばしばこちらを向くのがわかったが、気づかぬ振りをした。

 教室の居心地は最悪なのに、ホームルームが終わっても、なぜか早くこの教室を出たいとは思わなかった。先生が去ると同時に鞄を抱えて教室を出て行くクラスメイトの姿が目に入ったとき、得も言われぬ焦燥を覚えた。

 今日この状況が変わらなければ、この先もずっと、変わることはない気がした。しかし変える方法など、何一つ見あたらなかった。結局、途方に暮れて重たいため息をつくだけだった。


 引き出しに入れていた教科書類を鞄に移していたときだった。ふいに手元に影ができた。気づいて顔を上げるよりも先に、

「直紀」

 今日初めて、その名前を呼ばれた。

 懐かしいとすら感じる響きだった。

 顔を上げる。そこには、駿が立っていた。隣には、みなの姿もあった。目が合うと、二人とも、笑った。みなが少し腰を屈める。そして、続けた。


「直紀、一緒に帰ろ?」


 その声と笑顔が、今日初めて出会う、これまでとまったく変わらないものだった。

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