第9話 優等生

 おはよう、と後ろから掛けられた声に、驚きを隠しもせず勢いよく振り向いてしまった。

 しかし粟生野は気にした様子もなく、笑みを浮かべた。おはよう、と俺も返そうとしたが、それより先に粟生野が言葉を続ける。

「ねえ、聞いた?」

 軽い口調で、粟生野が尋ねた。

「何を?」と聞き返せば、粟生野は楽しそうに

「刈谷くんと桜さん、別れたんだって」

 さらりと、言った。

 一瞬、頭を思い切り殴られたように視界が揺れた。

 直後、二日前に聞いた、健太郎と一緒にいると落ち着くのだと言う桜さんの声が、屈託のない笑顔と共に頭の中に弾けた。


 俺が何も返せないでいるうちに

「別れたっていうか、ちょっと距離置こう、みたいな話らしいけど」

 まるで明日の天気でも語るかのようなあっさりとした口調で、粟生野は言う。彼女の顔に浮かぶ笑みは少しも崩れることはなく、その口調も表情も、明らかに今の話題には釣り合っていなかった。

「なんで」とほとんど無意識のうちに喉から溢れた声は、掠れていた。

「なんで?」

 粟生野はいっそう唇の端を上げて、俺の言葉を繰り返す。

「なんでって、桐原は知ってるんじゃないの?」

 すうっと、指の先から熱が逃げる。

「かわいそうね、桜さん。何も悪いことしてないのに」


 粟生野にぶつけたい言葉はたくさんあった。けれど気づいたときには、俺は彼女に背を向け、駆け出していた。

 二階まで階段を駆け上がるだけで、息が苦しくなった。教室を覗く。素早く視線を隅から隅へ走らせる。健太郎の姿はなかった。

 鞄を置く時間すら惜しくて、肩に掛けたまま、また廊下を走った。一組の教室も覗いてみたが、健太郎はいなかった。桜さんも見あたらなかった。

 すれ違う人にぶつかりそうになるたび怪訝気な視線を向けられたが、気にする余裕はなかった。

 六組の教室の横には大きなドアがあって、その向こうは渡り廊下になっている。健太郎を見つけたのは、そのドアを開けたときだった。


 手すりにもたれかかり、ぼうっとどこを見ているのかわからない視線を前方へ向けていた健太郎は、俺に気づくとこちらを向いた。

 しかしその視線はすぐにまた俺から外れる。何の表情も浮かんでいない横顔は、それきりこちらを向くことはなかった。

「健太郎」

 歩み寄れば、健太郎がこの場を去ろうとわずかに足を動かしかけたのに気づいて、

「桜さんと別れたって」早口に続けた。「本当なのか?」

 健太郎は相変わらずこちらを向こうとしないため、俺のほうから健太郎の前に立つ。けれど視線を合わせることはできなかった。彼の視線はすぐに足下に落ちる。

「直紀には関係ない」

 昨日と同じ言葉を、健太郎は短く繰り返した。間髪入れず「あるだろ」と返せば、一瞬だけ健太郎の視線が上がって、目が合った。

「お前、この前から様子おかしかったし。桜さんに対してもだけど、俺に対しての態度も変だったろ。何があったか知らないけど、まさか俺と桜さんのことで誤解とかしてるんなら、」

「もういいよ」

 低い声で、健太郎が遮った。「もういい」と繰り返したあとで

「俺となっちゃんのことだろ。直紀は口挟むな」

 瞬間、頭に血が上った。ここ最近の、おかしな出来事に対するわけのわからなさに、いつの間にか苛々が溜まっていたことに、今気づいた。頑なに俺の顔を見ようとしない健太郎の伏せられた目を見ているうちに、それが弾けるのを感じた。

「なんかあるならはっきり言えよ。絶対おかしいだろ。お前、この前まで全然普通だったじゃねえか。なんかあったんだろ」

「――直紀、お前」

 観念したように、というより、一刻も早くこの話を切り上げようとするように、健太郎は口を開いた。

「なっちゃんのこと好きだったんだろ」

 続いた言葉のあまりの唐突さに、怒りすら抜け落ちた。「は?」と間の抜けた声が漏れる。

 健太郎は足下のコンクリートを睨んだままだった。それ以上何か続ける気配を見せないため、とりあえず「いや、違う」と返す。しかし、健太郎の表情に変化はなかった。まるで、俺の言葉など一つとして健太郎の耳には届いていないかのようで、ぞっとした。

「俺がいつそんなこと言ったんだよ。そりゃ、健太郎が桜さんのことすげえ好きなのはわかってるけど、でも、みんながみんなお前と同じこと考えてるわけじゃねえぞ。てか、さっぱりわかんねえんだけど、とりあえずそれ、誰から聞いた――」

 尋ねようとした言葉は、途切れた。二日前見た、健太郎の強ばった表情を思い出した。粟生野から何か聞いたのか、と、そう尋ねたあとだった。

 そもそも、どうして俺はあの日、被服室へ行かなければならなかったのか。

 ――刈谷くんと桜さん、別れたんだって。

 ――なんでって、桐原は知ってるんじゃないの?

 急に、すべてのピントが合った。

 健太郎は何も言わずに、踵を返す。そのまま彼は渡り廊下から校舎へ戻っていったが、俺は呼び止めることも追うこともしなかった。ただ、唐突に引きずり出された事実を、呆然と眺めていた。



「粟生野」

 俺のほうから彼女に話しかけるのは、随分と久しぶりのような気がした。

 粟生野は顔を上げると、薄く笑みを浮かべた。朝に見た笑みと、同じものだった。

「なに?」

「ちょっと聞きたいことあるんだけど」

 粟生野はすべてわかっているかのように、「うん」と頷くと

「じゃあ、放課後にしない? 長くなるでしょ、話」

 彼女の言葉に頷いたとき、向こうから「明李―っ」と高い声が粟生野を呼んだ。

「じゃ、放課後ね」

 そう言い置いてから、粟生野は立ち上がった。

「なあにー」と自分を呼んだ友人へ声を返した彼女の表情は、いつもと同じ、明るい笑顔に変わっていた。

 ほんの数日前まで、俺は粟生野のあの笑顔しか知らなかった。それが粟生野なのだと思っていた。明るくて、頭が良くて、統率力もあって、誰にでも分け隔て無く優しい、生徒の鑑という言葉が彼女ほど似合う人はいないだろうと思うほどの、そんな優等生で。それが俺の知っている、粟生野明李のすべてだった。

 一緒のクラスにいて、一緒に授業を受けて、喋って、笑い合って、それだけで一体なにを知っていたというのだろう。目を合わせることすらなくなった健太郎の無表情な横顔を眺めながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。



 ホームルームが終わっても、しばらく粟生野は席から動かなかった。教室から人がいなくなるのを待っているのだろうということは、すぐにわかった。俺もそのほうがよかったため、クラスメイトが鞄を抱えて教室から出て行くのを、自分の席で見送っていた。

 十分もたたないうちに、教室に残るのは俺と粟生野の二人だけになった。

 最後の一人を見送ったあと、粟生野はゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてきた。そうして俺の前の、健太郎の席に椅子ごとこちらを向いて座ると

「で、なあに?」

 にこりと笑って尋ねる粟生野の声も笑顔も、白々しく感じた。

「粟生野、健太郎に何か変なこと言っただろ」

 前置きも何もなしに、いきなり本題に入る。ゆっくりと会話をしている余裕はなかった。粟生野は少しも表情も崩すことなく、「変なことって?」と聞き返す。

「俺が、桜さんのこと好きだったとか」

「ああ、うん、言ったような気がする」

 笑顔のまま、彼女はさらりと言い切った。予想はできていたことだが、彼女に悪びれる様子はなかった。

「なんでそんなこと言ったんだよ。健太郎と桜さん、別れさせたかったのか?」

「ううん、別に」

 この答えも、だいたい予想できていた気がする。粟生野が悪意を抱いているとしたら、それはきっとあの二人ではない。きっと、それは。

「じゃあ、なんで」

 尋ねるのに重ねて、粟生野がふふ、と笑った。

「刈谷くん、信じたんだ?」

「え?」

「そうよね、信じたのよね。だから桜さんとは別れたんだろうし」

 粟生野の顔に浮かぶのは、悪戯が成功した子どものような笑みだった。苛立ちに混じって、かすかに恐怖もこみ上げるのを感じた。

「なあ、とりあえず、健太郎にちゃんと言えよ。嘘だったって。何がしたいのかわかんねえけど、もう充分だろ」

「桐原から言えばいいじゃない」

「そりゃ言ったけど、あいつ、信じないんだよ」

 粟生野はますます笑みを深めて、ふうん、と相槌をうった。膨らんでいく苛立ちを抑えるのが、だんだんと難しくなってきた。

「てか、マジで何がしたいの、お前」

 知らず知らずのうちに鋭い声が出た。それでも粟生野の表情は変わらなかった。

「そのうちわかるわよ」

 楽しそうに告げると、彼女はおもむろに立ち上がる。「うん、多分、もうすぐに」粟生野は付け加えた。

「え?」と聞き返しても、彼女は取り合わず「ねえ、桐原」と思い出したように続ける。

「私と桐原が違うこと言ったらさ、みんなはどっちを信じると思う?」

 唐突な質問の意図が掴めず、「は?」とまた聞き返してしまっていた。

 かまわず、「私はね」と粟生野が続ける。

「百人中百人が、私を信じてくれると思うの。ね、桐原もそう思うでしょう?」

 何も返せなかった。粟生野の言葉を自信過剰だと思えないことに、ぞっとした。すぐ目の前に、朝の健太郎の姿があった。否定しようとすれば、それがどうしようもないほど邪魔をした。



 粟生野の言葉の意味も、彼女の目的も、翌朝、すべてわかった。

 下駄箱を抜けた先にある廊下に、二年二組の担任である先生が立っているのが見えた。また抜き打ちの服装検査でもしているのだろう、と思った。しかし、下駄箱でスリッパに履き替えているときに、いきなり先生がこちらに歩いてきたため面食らう。

 俺なんか違反してるっけ、とあわてて自分の体を確認していたとき「桐原、ちょっと来てくれ」と早口に言われた。え、と顔を上げたときには彼はすでに踵を返していて、急いでスリッパを履いて後を追った。

 導かれた先は、職員室だった。戸を開けたところで、一度先生はこちらを振り返り、俺が着いてきていることを確認すると中に入った。後について俺も中に入ったとき、職員室にいる数人の先生の目がこちらを向いた。


「ちょっと座れ」

 先生はそう言って椅子を一つ引いたあと、自分の机の椅子に腰掛けた。勧められたまま、彼と向かい合う形で椅子に座る。

「あのな、桐原」

 重い口調で、先生は口を開いた。こんなに近くで先生と顔を合わせるのは初めてのような気がした。

「昨日、ある生徒から連絡があった」

 低く、そう告げられる。先生の表情はこれまで見たことがないほど深刻で、漠然と不安がこみ上げた。しかし先生から叱責されるようなことをした覚えはない。じっと続きを待っていると、先生は一つため息をついたあとで

「友人が桐原に乱暴されかけた、と言っていた」

 一瞬、すべての音が消えた気がした。

 おくれて、頭を殴られたような強い衝撃が襲う。「は……?」という細い声が喉から溢れるまでにも、数秒かかった。

 聞き間違いかと思った。しかし先生の低い声は、いやにはっきりと耳の奥に残っていた。

「本人から連絡があったわけじゃなくて、その友人が」

「いや、あの」

 先生の言葉をさえぎり、思わず声を上げていた。

「誰、ですか?」

 食い入るように厚いレンズの向こうの先生の目を見つめたままそう尋ねれば、先生は「連絡してきた生徒の名前は言えないが」と淡々と話し出す。

「その友人は、うちのクラスの粟生野だと」

 その名前を耳にした瞬間、激しい眩暈に襲われた。

 ぐらぐらと揺れる視界を止めようと、片手を持ち上げ額を押さえる。それでも床に落とした視界は絶えず歪んでいた。


「その生徒によると、前から粟生野が桐原につきまとわれ困っていた、と。だが粟生野からは先生たちには言わないよう口止めされていたらしい。ただ、さすがに昨日のことは黙っているわけにはいかないと判断して、僕に訴えた、と」

 抑揚のない先生の声は、どこか遠くから聞こえてくるような、不思議な感覚だった。混乱する頭をなんとか落ち着けようと一つ息を吸い込む。だが、あまり効果はなかった。口を開けば、出た声はひどく引きつり、掠れていた。

「ちょ……っと、待って、ください」

 片手で額を強く押さえたまま、なんとか言葉を紡ぐ。

「わけが、わからないんですけど……俺は、粟生野にそんなことをした覚え、ありません」

 目の前の表情がみじんも変化を見せないことに、より強い眩暈がした。

「粟生野からは」相変わらず淡々とした調子で、彼は続ける。

「そういった訴えは聞いていない。彼女の友人がそう訴えてきただけだ。粟生野にも昨日連絡をとって確認したが、粟生野のほうはあまりおおごとにしたくないと言っていた」

 確認。その確認とは、俺につきまとわれ乱暴されかけたという話が本当かどうかという確認ではない。このことに関して、粟生野はどういった対応をとりたいのかという確認だ。つまり、粟生野の友人の訴えはすでに事実であるとの前提の元、話は進んでいる。


 声が出せなかった。喉を強く締め付けられているかのようで、息すらうまく吸えない。

「本来なら、自宅謹慎という措置もとらなければならないところだが、粟生野自身はこのことはなるべく口外したくないらしい。また、特に桐原への処分も望まないと。とにかく公にしないでくれ、ということだった。だから今回、桐原に対する処分は特にないわけだが、」

「待って、ください。いや本当に、わけが、わからないです」

 やっとのことでそう口を挟む。

「俺は、何もしてないです」

 握りしめた拳がひどく冷たかった。自分の言葉を信じてもらえることはないのだと、頭のどこかで、嫌になるほど理解していた。

 すうっと体の芯が冷える。健太郎の冷たい声が耳元で響いた気がした。きっと俺のことを信じてくれると、そう自信を持って言えた彼ですら、頭から粟生野の言葉だけを信じていた。それが、すべての答えのように思えた。

 どうしようもないのだと、そう感じたときにこみ上げるのは、理不尽さに対する怒りよりも、恐怖だった。


――百人中百人が、私を信じてくれると思うの。


 何もかも、理解した。粟生野は決して、俺を許さなかった。

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