第8話 疑念

 その後もしばらくドアと格闘してみたが、結局そのドアは開く気配すら見せなかった。あきらめて、今度はドアの向こうへ「すみませーん」と声を投げてみても、特別教室ばかりが並ぶ三階の、しかも一番奥にあるこの被服室の側を通りかかる人などおらず、誰もその声を拾ってはくれなかった。


 途方に暮れて、どうしようか、と桜さんと顔を見合わせていたとき

「あっ、携帯!」

 ふいに桜さんが思い出したように声を上げた。顔を輝かせ、桜さんは急いで制服のポケットに手を突っ込んだが、その表情はすぐにまた曇る。

「あ……そういえば、鞄の中だった」

 ぽつんと呟いたあと、「桐原くんのは?」と縋るように彼女は尋ねたが

「俺のも、鞄の中だ」

 と力なく首を振った。


 何も解決策がないことがわかったあとは、ドアの一番近くにある机の一つに座り、大人しく誰かが通りかかるまで待つことにした。

「学校を閉める前に、先生が見回りに来るはずだよ」と桜さんが元気づけるように明るく言った。

「もし来なくても、明日になれば授業もあるだろうしね」

「そうだな。遅くても明日には絶対出られるし、心配ないよな」

 冗談のつもりだったが、しかしあながち冗談にもならないことにすぐに気づいて、二人で無理に笑い合った。


 窓から差し込む夕陽が、被服室を紅く照らしている。

 桜さんは先ほどから何度も腕時計に目を落としては、「あ、五時になった」とか「五時十分」とか意味もなく呟いていた。そしてそのあとは、ちらちらとドアのほうへ目をやる。あいかわらず、足音すら聞こえてこない。

「ねえ、桐原くん」

 やがて桜さんは、時計とドアを交互に見つめるのにも飽きたのか、ふいに話しかけてきた。

「ん?」

「健太郎とはいつもどんな話してるの?」

 そう尋ねる桜さんの目は、やけに楽しそうだった。んー、と少し考えてから

「どんなって、べつに普通の……ああ、あいつ、桜さんの話もよくしてるよ」

 答えると、えっ、と桜さんが身を乗り出す。

「どんな? どんな?」

 顔を輝かせてそう尋ねる桜さんに、「どんなって」と答えかけると、「あっ、やっぱりいい!」と彼女はすぐに俺の言葉を遮って声を上げた。

「やっぱり、聞くのちょっと怖いな。うん、やめとこ。聞かないほうがいいと思う」

「べつに、怖がるようなことは言ってないよ。あいつ、桜さんについてはいいところしか言わないし」

「え、本当に?」

 また桜さんの顔がぱっと輝く。うん、と頷いてから、「褒めてばっかだよ」と付け加えると、桜さんは意味もなく髪に触れながら、照れたように笑った。

「そっか。それなら、よかった」

 そう呟く桜さんの笑顔はとても屈託なくて、今更ながら、本当に健太郎が好きなんだなあ、としみじみ感じる。


「桜さんさ、健太郎のどこが好きなんだ?」

 ふと思いついたことを尋ねてみると、「へっ?」と素っ頓狂な声が上がった。彼女の頬がかすかに赤くなる。しばし考えるように視線を宙に漂わせたあとで、

「なんていうか、その、一緒にいると落ち着くところかな。安心するんだよね」

 そう話す桜さんの口元の緩み具合が、健太郎が桜さんの話をするときの笑みと驚くほど似ていた。

 いいな、とぼんやり思った。健太郎と桜さんが並んでいる絵は、本当にしっくりくるのだ。お似合いだと、心から思えた。それはきっと、二人が本当に想い合っているからだろうということに、ようやく気づいた。

「いいよなあ」

 思わずそう呟いてしまうと、「え?」と桜さんが聞き返した。

「あ、いや、健太郎と桜さん。すごい似合ってるし、幸せそうだし、なんかいいなあ、と」

「本当? 嬉しいな、そう言ってもらえると」

 桜さんは目を伏せてはにかむと、「うん、でも」と噛みしめるように続ける。

「たしかに、幸せだな。うん」

 桜さんは健太郎にも負けないくらいに惚気てみせた。

 しかし心底幸せそうなその桜さんの笑顔は、これまでに見たどんな桜さんの表情よりも可愛らしくて、ずっとこの二人が幸せでいられればいいな、と素直に思えた。そしてそのあとに、願うまでもなく、きっとこの二人はずっと幸せなのだろう、とも思った。


 六時を回り、窓の外が薄暗くなってきた頃だった。

 教室内も随分暗くなってきたため電気を点けようかと立ち上がったとき、廊下を歩く足音が耳に届いた。

 あわててドアへ駆け寄り、「すみませーん」と呼びかける。桜さんもすぐに隣に立って、同じように声を張り上げた。

 俺たちの声はしっかり届いたらしい。足音は一度止まると、今度は早足にこちらへ向かってきた。それから、がちゃがちゃ、と何やらドアを弄くる音が聞こえてきて、しばらくしてドアが開いた。

 立っていたのは、一人の女子生徒だった。スリッパの色から二年生だとわかったが、顔は知らなかった。

「どうしたの。ドアノブに紐が引っかけてあったよ」

 彼女が驚いたようにそう声を上げたが、そのときはとりあえず外に出られたことにほっとしていて、あまり深く考える余裕はなかった。下手すると、明日まで出られないかもしれなかったのだ。桜さんと、よかったよかった、と心から言い合った。


 その後、助けてくれた彼女に簡単に事情を説明し、礼を言った。悪質な悪戯かな、とその子は言った。桜さんは彼女の言葉に、多分ね、と頷いて苦笑した。

 美術室に用があって三階まで上ってきたという彼女とはそこで別れ、俺と桜さんは鞄を取りに教室へ戻る。

「悪戯……なんだよね」

 廊下を歩きながら、ぽつんと桜さんが言った。

 なぜドアが開かないように細工がしてあったのか、というその行動の理由については、今までなんとなく目を逸らしていたが、堪えきれなくなったように桜さんは口にした。その声がどこか怯えを含んでいて、「いや、もしかしたら」と俺は思わず彼女の言葉を否定していた。

「俺らが中にいるの気づかないで閉めたのかも」

 言いながら、それはない、ということにも気づいていた。ドアは開けっ放しにしていたのだ。普通は中に誰かいることくらいわかるだろう。それに、鍵が閉められていたのではなく、紐を引っかけて開かないよう細工がしてあったのだ。中にいる人物を閉じ込めようとする意図があったとしか思えない。

 桜さんも、俺の言葉が単なる気休めであることはわかったらしく、力無い笑みを返した。

「でも、なんで――」


 言いかけた桜さんの言葉は途中で途切れて、代わりに彼女は「健太郎」と唐突に恋人の名を呼んだ。

「え?」と桜さんのほうを向くと、驚いたように前方を見つめる横顔があった。

 彼女の視線を追えば、薄暗い廊下の向こう、一つのシルエットが見えた。健太郎だった。俺も驚いて、彼の名前を呼ぶ。

「健太郎?」

 健太郎はまっすぐにこちらを見据えたまま、ゆっくりと歩いてくる。「先帰っとくって言ってたのに」と、横で桜さんが不思議そうに呟いた。

 近づくにつれ、暗さに塗りつぶされていた彼の表情が見えてくる。健太郎は驚いたような、そしてどこか怯えたような顔をしていた。こちらを見つめる目は、今日教室で見た、あの、何か恐ろしいものを見るかのような目だった。


「……なっちゃん」

 ひどくぎくしゃくする声で、健太郎が呟く。

「健太郎、どうしたの? 先に帰るんじゃ」

 なかったの、という桜さんの声に被せて、「なんで」と健太郎は続けた。低い声だった。

「なんで直紀と一緒にいるんだ?」

 そのとき健太郎が抱いている猜疑に気づいて、「ああ、あのさ」とあわてて割ってはいる。

「さっきまで被服室にいたんだよ。ちょっと悪戯されたっぽくて、なんかいきなり被服室のドアが開かなくなって」

「開かなくなった?」

 俺の言葉を繰り返した健太郎の平淡な声は、どことなく寒々しく聞こえた。俺の顔を見つめる健太郎の目に、隠すこともない疑念が見える。

「そうなの。もう、びっくりしちゃったよね。明日まで出られないかもって心配してたんだよ」

 横から桜さんも言う。健太郎の様子がおかしいことは桜さんも気づいたのだろう、彼女の顔は少し強ばっていた。

 健太郎は少しも表情を緩めることはなく、

「なんで被服室に行ったんだ?」

 と、俺に続けて尋ねる。その声がだんだんと冷たさを帯びてくるのに気づいたとき、ふいに昨日聞いた粟生野の声が頭に響いた。そうして気づいた。声質はまったく違うはずなのに、その二つの声は驚くほど似ている。

「段ボールを持っていくように頼まれたんだよ」

 ふうん、と健太郎が鼻先で相槌を打ったとき、あはは、と桜さんがいきなり声を上げて笑った。しかし彼女の笑顔はどこかぎこちなく、笑い声もかすかに引きつっていた。

「なに? 健太郎ってば、もしかして何か疑ってるの?」

 健太郎は笑わなかった。精一杯明るく努めていたような桜さんの笑顔は、目の前の健太郎の固い表情を目にして脆く崩れる。今度こそはっきりと、彼女の顔が引きつる。「健太郎」と俺が言いかけたとき、

「俺は、なっちゃんを送っていくから」

 ひどくきっぱりした口調で、健太郎が言った。「じゃあな」と短く言って、さっさと踵を返す。

 桜さんは戸惑うようにしばし俺の顔を見つめたあと、「じゃあね」と小さく会釈をして、同じように踵を返した。少し走って健太郎の横に並ぶ。二人の背中はすぐに廊下を右に折れて、見えなくなった。

 指先に触れる空気が、いやに冷たかった。やがてわずかな混乱と恐怖が訪れたが、何に対するものなのかはっきりしなかった。



 翌朝、教室へ入ると、桜さんが健太郎の机の脇に立っていた。俺が入ってきたことには気づきもせず、お互いに真剣な表情で何やら話し込んでいる。小声のため会話の内容までは耳に入ってこないが、二人の様子が穏やかではないことはわかった。

 これまで、二人が喧嘩をしているところなど見たことはないし、そういった話も聞いたことはない。口論している健太郎と桜さんなんて、かなりの違和感があった。昨日のことが原因なのだろうということは、考えるまでもなくわかった。

 俺がむやみに口を挟むべきではないと思うし、側で黙って聞いているのも居心地が悪いため、鞄を机に置いてすぐに教室を出ようとした。しかし

「何なの? 健太郎、昨日からなんかおかしいよ」

 と桜さんが急に声量を上げたため、思わず足を止めてしまった。ひどく高ぶった声だった。

 桜さんの声は教室中に響き、途端に教室全体が驚いたようにしんとしてしまったが、当の二人は気にする余裕もないようだった。

「べつに、もう気にしてないって言ってるだろう」

「気にしてるでしょ。わけわかんない。なんで急に……」

 健太郎がうんざりしたように視線を下に落とすのを見て、桜さんが押し黙る。桜さんがひどく傷付いた顔をしていても、健太郎の表情に変化は現れなかった。それは普段の健太郎からは考えられない姿で、俺までショックだった。

 見かねて口を挟もうとしたとき、桜さんがしばし唇を噛みしめたあとで、耐えかねたように踵を返し、小走りに教室を出て行った。それでも健太郎の表情は変わらず、彼女を追う気配すら見せない。


「健太郎」

 足早に、健太郎のもとへ歩み寄った。

 戸惑うように静まりかえっていた教室は、桜さんがいなくなると、すぐにまた騒がしさが戻ってきた。

「どうしたんだよ。お前、マジでなんかおかしいぞ。昨日のことならべつに――」

「直紀には」

 俺の顔を見ることもなく、健太郎が低い声で俺の言葉を遮る。

「直紀には関係ない」

 有無を言わせぬ、はっきりとした拒絶だった。

 みなを罵倒したあのときの、冷たい憎しみのこもった粟生野の声と、それはやはり怖いほど似ていた。

 


 先輩、と隣から遠慮がちに掛けられた声に、ぼうっと考え事をしていた意識が引き戻された。

「あ、ごめん。なに?」

「いえ、あの……」

 次の言葉を用意せずに声を掛けたのか、白柳はしばらく困ったように口ごもっていた。

 やがて「えっと、その」と口の中で呟きながら、足下に置いていた鞄を膝に載せる。それから白柳は鞄の中をごそごそと何やら探し始めたので、待っていると

「あの、今日は、いちご味とパイナップル味と、あとキャラメルもありますよ」

 鞄を覗き込んだまま、白柳は出し抜けにそんなことを言った。

「え?」と聞き返しそうになったが、ふと思い当たって、呑み込んだ。「だから、あの」と白柳が焦ったように次の言葉を探している。


 俺は笑うと、彼女のほうに手を差し出した。

「じゃ、キャラメル」

 白柳はぱっと顔を上げると、弾けるような笑みを見せた。

「はい!」と大きく頷いて、鞄から握りしめた拳を取りだす。掌に、五つのキャラメルが載せられた。「こんなにいいのか?」と尋ねようとすると、それより先に白柳はまた鞄に手を突っ込んで、「あの、やっぱり飴もどうぞ」とさらに飴玉も三つ追加した。

 片手では溢れそうになったため、もう一方の手も沿えて両手でそれらを持ちながら

「さんきゅ。なんか今日は多いなあ」

 白柳は、ふいに俺の目を見つめた。そして柔らかく微笑むと

「元気、出してください」

 唐突に、そんなことを言った。

 驚いて白柳の顔を見つめてしまうと、彼女はすぐに恥ずかしそうに目を伏せる。ようやく、掌に載せられた大量の飴とキャラメルの意味に気づいた。気づくと同時にふっとかすかに鼻の奥が熱くなって、あわてた。自分が相当落ち込んでいるらしいことが、そのときわかった。

「……ありがとう」

 白柳は暖かな笑顔のまま、首を振った。

 掌にある小さな包みを一つつまみあげる。白柳は、飴やキャラメルで俺は元気が戻ると思っているのか、と少し苦笑する。けれど口の中に広がったその甘い味に、本当に、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る