第7話 違和感

 一緒に喋って、笑い合っているその人について、知っていることなんてきっとほんの一握りなのだろう。

 見えているのは表面の薄い部分だけで、その奥にあるものなんて何も知らなくて、でもいつも、そんなことには気づかないのだ。




 思考がまとまってきたあとに、まず感じたのは違和感だった。

 初めて出くわす場面のはずなのに、それでもその違和感ははっきりとしていた。

 目の前の、彼女の表情は真剣だった。けれど、妙に静かだった。恥じらいだとか緊張だとかとはどこか遠くて、むしろ落ち着いているように見える。それがおかしいというわけではないはずだが、それでもなぜか、奇妙だった。


 違和感を抜きにしても、浮かんだのは戸惑いと困惑で、きっとこういったときに浮かぶだろうと思っていた喜びは、それ以上の戸惑いにすぐに打ち消されてしまった。

 そして、きっとそれが答えなのだろうと思った。告白されたなら、もっと喜びにのぼせあがるとか、迷ってしまうものかと思っていたが、俺の中の答えは驚くほどはっきりしていた。

 一つ、息を吸い込む。粟生野の目をまっすぐに見据え、慎重に口を開いた。

「……ごめん」

 自分の声は、思いのほか重たく耳に響いた。

「粟生野のことは好きだけど、でも、そういう、付き合うとかは――」


 俺の言葉は、思わず途切れてしまった。

 少し目を見開いた粟生野の表情が、直後、ひどく歪む。

 それは悲しみのためではなかった。その目に怒りと失望が宿るのを、はっきりと見た。思いも寄らない反応だった。最初に感じた違和感が、また強く突き上げる。

 見限るように視線を足下に落とした粟生野の唇が、小さく動く。口の中で呟いた彼女の言葉は、静まりかえったこの場所ではしっかり耳に届いた。

「また、園山さん……」

 忌々しげなその呟きは、ぞっとするほどの低さで響く。

 唐突に出たみなの名前に、「え?」と素っ頓狂な声が漏れた。

 粟生野が顔を上げると同時に、これまで押しとどめていた憎しみが一気に溢れ出すかのように、彼女の唇から言葉が飛び出す。

「あの子のどこがいいの。綺麗でもないし、頭も悪いし、協調性も全然なくて。中学の頃なんか、本当に酷かったのよ。あの子って、どっかおかしいじゃない。普通じゃないのよ」

 捲し立てる彼女に、俺は呆気にとられた。

 いつだって、誰も傷つけないような綺麗な言葉だけを紡いでいた粟生野の声で響くその冷たく醜い言葉は、にわかには信じられなかった。それでもそれは、紛れもない粟生野の言葉だった。


 彼女がまた言葉を続けようとするのがわかって、思わず俺はそれを遮るように口を開いていた。

「みなは、関係ないだろ」

 粟生野の目から冷たい色が消えることはなかった。ふっと視線を逸らし、一度重たいため息をついたあとで、「わかった」と粟生野は小さく呟いた。少し間を置いて、「もういい」と続く。

 俺に対する興味すら失せたように、粟生野はそれきりこちらを見ることはなく、足早に俺の横をすり抜けていった。振り返ることもなく、あっという間に彼女の背中は視界から消える。


 粟生野が去ったあとも、俺はしばらくその場から動くことができなかった。

 彼女の冷たい声が、耳に貼り付いて剥がれない。粟生野の中に横たわる、屈折した感情をはっきりと見てしまった。これまで漠然と感じていたそれが、急に形を成して目の前に現れたことに、ぞっとした。

 粟生野の歪んだ表情が頭をめぐる。まったく知らない、粟生野の顔だった。まるでさっきの出来事は夢か幻だったのではないかと思いたくなるほど、それは俺の知っていた粟生野とはかけ離れた姿だった。これまでに見たことがないほど強い憎しみを目の当たりにして、俺はただ、少し混乱していた。

 粟生野がみなに対して抱いている感情の正体は掴めない。ただ、その憎しみがこれからは俺にも向くのだろうかと考えたとき、かすかに恐怖を覚えた。



 翌日、これから粟生野とはどんなふうに接すればいいのだろうと考えながら、学校へ向かっていた。まったく初めての経験のためけっきょく答えは出なくて、学校が近づくにつれ足が重くなっていった。

 しかし、そんな心配はどうやら杞憂で終わるようだった。

 粟生野のほうが、徹底的にこちらを避けているらしい。同じクラスにいるというのに、近くで顔を合わせるという機会すら巡ってこなくなった。

 それもそうか、とすぐに納得する。想像するのは簡単なことだった。告白をして断られた相手になど、なるべく関わりたくないのは当たり前だ。

 これまで粟生野はよく話しかけてくれていただけに、少し寂しく感じたが、もちろん俺から彼女に話しかけることはしなかった。仕方ない、と思った。


 教室での粟生野は、朗らかな笑顔を崩すことなく、誰にでも分け隔てない優しさを振りまいている。いつもと同じ、誰からも好かれるような、粟生野だった。やはりそれは、昨日の冷たい表情とは重ならなくて、また昨日の出来事が嘘のように思えた。

 ふと視線を上げた先に、こちらを見ている一人のクラスメイトがいた。いつも粟生野と一緒に行動している、粟生野の友人の一人だった。彼女の目は、かすかに冷ややかな色を帯びている。俺と目があっても、彼女はしばらく目を逸らさず、非難するようなその目でじっと俺を見ていた。

 やがて、ふいと視線が外れる。すぐに察した。おそらく粟生野が、昨日のことを彼女に話したのだろう。友達を振った相手など、快く思わないに決まっている。そういえば、粟生野は友達多いんだよな、とぼんやり考えたとき、思わずため息がこぼれた。


「直紀」

 ふいに名前を呼ばれ顔を上げると、健太郎が体ごとこちらを向いていた。

「うん?」と軽く聞き返そうとして、目の前の健太郎の表情がひどく固いことに気づいて驚いた。

「え……なに?」

 困惑して尋ねると、健太郎は迷うようにしばらく黙っていた。しばし俺の顔を眺めたあと、やがて健太郎は、いや、と首を振る。

「なんでもない」

 短くそう言って、こちらに背を向けようとした彼に、

「なんだよ、気になるから言えよ」

「いや、別にたいしたことじゃない」

 そう言いながら、健太郎の表情はあいかわらず固い。ふと思い当たって、「あ、まさか」と呟いたとき、え、と健太郎が驚いたように声を上げた。俺はその健太郎の反応のほうに驚いて、「え?」と続けて声を上げていた。

「何なんだよ、お前、なんかおかしいぞ」

 ますます困惑してそう言えば、健太郎はまた「いや」と首を振った。

「たいしたことじゃない。それより、まさかの続きは何だ」

「あー……いや、まさか粟生野から何か聞いたのかなあ、と」

 健太郎がわずかに目を見開く。今度こそ彼の表情がはっきりと強ばるのを見て、ぎょっとした。図星らしいのはわかったが、なぜ健太郎がそこまで反応するのかわからない。俺と粟生野の間のことなんて、健太郎にはまったくと言っていいほど関わりのない出来事のはずだ。


 健太郎はしばらく、なにか恐ろしいものでも見るかのような目で俺の顔を見つめていた。わけがわからず、困り果てて、俺も目の前の友人の顔をただ眺める。

 やがて健太郎は、ゆっくりと口を開いた。

「……何かって」

「え?」

「何かって、なんだ」

 健太郎の声がやけに低く聞こえて、一瞬言葉につまった。

「いや、昨日のこと」と言いかけたとき、教室の前方の戸が開いて先生が入ってきたため、言葉はそこで途切れた。健太郎は少し躊躇うような素振りを見せたあと、渋々といった様子で体を前へ向けた。

 呆けたように、その背中を眺める。さっき見た、健太郎の強ばった表情が頭をめぐる。そのとき、なぜか唐突に昨日の粟生野の冷たい目を思い出した。なんとはなしに粟生野のほうへ目をやれば、いつものように真剣な表情で黒板を見つめる横顔があった。



 その後も、健太郎の様子はおかしかった。元々口数は多くない彼だが、今日はいつにも増してだんまりで、口元もいつも以上にしっかりと引き結ばれている。話しかけても、どこか上の空な相槌しか返ってこなかった。

 結局、健太郎は放課後までそんな調子で、ホームルームが終わると「じゃ」と短く言って、足早に教室を出て行ってしまった。何もわからないまま、俺はぽかんと健太郎の背中を見送るしかなかった。

 何やら相当気に掛かることがあって、しかも粟生野と俺に関連することらしい。昨日までは様子は普通だったし、昨日何かあったのだろうとは思うが、昨日俺と粟生野の間であった出来事といえば、あの告白くらいしか思いつかない。でも、それを健太郎が気にする理由はないはずだ。

 考えてもさっぱり思い当たる節はなく、明日また聞いてみよう、と一つため息をついた。

 立ち上がり、鞄を手にとろうとしたとき


「桐原」

 ふいに声を掛けられた。振り返ると、粟生野が立っていた。

 思いかげない人物に面食らう。今日は一日中あれほど避けられていたのに突然何事かと思わず身構えてしまったが

「ごめん、ちょっと頼みたいことがあるの」

 と、至極あっさりとした調子で、粟生野は言った。彼女の表情や口調があまりに普通で、少し拍子抜けしてしまったほどだった。

「なに?」

「あのね、これなんだけど」

 そう言って粟生野が差し出したのは、小さな段ボール箱だった。中には、色とりどりの布が詰まっている。

「被服室まで運んでほしいのよ。先生に頼まれてたんだけど、もうすぐ部のミーティングが始まる時間で」

「ああ、いいよ、運んどく」

 答えると、「ありがとう」と粟生野はにっこり笑った。昨日までと何ら変わりない笑顔だった。まるで何事もなかったかのような粟生野の様子に、逆に少し戸惑ってしまう。

「じゃあ、よろしくね。ばいばい」

 俺に段ボール箱を渡すと、明るくそう言って、粟生野は教室を出て行った。俺はまた、ぽかんとその背中を見送った。


 その後、段ボールを持って被服室へ行った。どこに置いておくように、という指示は受けなかったので、適当に一つの机の上に置くと、

「あっ、その段ボールこっち!」

 と、思いがけなく声が飛んできて驚いた。見ると、奥にある準備室の入り口のところから、桜さんが顔を出していた。

「あれ、桜さん。何やってんの?」

「ちょっと整理をね。散らかってたから」

 当たり前のようにそう答えるので、感心してしまった。

 段ボールを持って準備室のほうへ歩いていく。「そこに置いといてね」と桜さんに言われた場所に段ボールを置くと、桜さんは礼を言ったあとで、

「そういえば、粟生野さん遅いなあ。粟生野さんが備品持ってきてくれるって聞いたから、待ってるんだけど……」

「あ、それ、多分これのことだよ。俺、粟生野に代わりに持って行くように頼まれてたから」

「あ、なんだ、そうなんだ。ありがとう。じゃあ、もう大分片づいたし、帰ろっかな」

 桜さんはそう言うと、戸棚の戸を閉めた。


 準備室を出たところで、開けてきたはずの入り口の戸が閉まっているのに気づいて、あれ、と思った。しかしそこまで気にすることはなく、ドアノブに手を掛ける。すると、回そうとしたそれが、少し動いたところで、がちゃん、という鈍い音を立てて止まった。

「え?」

 わけがわからず、間の抜けた声が漏れる。今度は力も込めてもう一度ドアノブを捻ってみたが、やはりそれは動かなかった。

 気づいた桜さんが、ぎょっとしたように俺の手元を覗き込む。

「え、なに? 開かないの?」

 かすかに引きつる声で尋ねながら、代わって今度は桜さんがドアノブを掴む。がちゃがちゃ、という金属音が冷たく響いただけだった。

「え? 嘘、なんで?」

 諦めてドアノブから手を離すと、混乱したように桜さんが呟く。

 俺はもう一度ドアノブを捻ってみたが、何度やっても同じだった。はっとして、急いで手元を見下ろしたみたが、鍵は開いていた。しかしドアは開かない。

「外から、何か細工してある……?」

 桜さんが、ぽつりと呟いた。それは、俺が考えたことと同じだった。

 呆然と、二人顔を見合わせる。

 縋るように再びドアノブへ手を掛けたが、あいかわらず突き放すような金属音が返ってくるだけだった。

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