第6話 隣

「なあ、桐原ってさ」

 体育の授業が終わり、更衣室で制服に着替えていたとき、隣で着替えていたクラスメイトがふいに話しかけてきた。

 振り向くと、どこか強ばった顔でこちらを見つめる目と目があった。

「粟生野とは、付き合ってるわけじゃないよな?」

 軽い調子で尋ねようと努めているらしいことはわかったが、その声には、恐る恐るといった色が隠しきれていなかった。

 彼がそう尋ねると同時に、一斉に周りにいた男子がこちらを向いたため、少したじろぎながらも「いや」と首を振る。すると、目の前の強ばった顔が一気に和らいだ。

「あ、なんだ、そうなのか」

 期待はずれだった、というような口調で言いながら、彼の表情はあからさまにほっとしている。なんともわかりやすかった。そんな彼の様子に気づいたのは俺だけではなかったらしく、周りにいた男子の一人が

「よかったなあ、中野」

 と、にやにや笑いながら彼の腕をこづいた。途端、彼の顔がぱっと赤く染まる。

「はあ?! な、何がだよ」

「こいつほどわかりやすいやつも珍しいよなー」

 中野の問いかけは無視して、俺に笑いながらそう言うクラスメイトに、俺も笑って頷く。と、横からまた別の男子が

「まあ粟生野はわかるけどな。たしかにいいよな」

「でもさ、めちゃくちゃ競争率高そうだよなあ。つーか、桐原とは付き合ってなかったとしても、粟生野さんって本当に彼氏いねえのかな。なんか、もういそうじゃね?」

「なあ、ていうかさ」

 ふと、以前にみなも同じようなことを言っていたのを思い出し、

「それ、誰から聞いたんだ? 俺と粟生野が付き合ってるとか」

 と尋ねてみる。たしかに粟生野とはよく喋ったりもしているが、べつにそれは俺だけではない。粟生野は大抵誰にでも親しげに接するし、仲の良い男子もたくさんいた。そういう誤解をされるような心当たりはなかった。

 中野は少し首を捻ってから

「や、誰っていうか……なんか、風の噂?」

「ふーん。どっから出てきたんだろ、そんな話」

「ま、でもただの噂でよかったな、中野。つーか、俺もちょっとほっとしたわ。なんか嫌じゃねえ? 粟生野さんに彼氏いたらさ」

「あー、わかるわかる。なんか嫌だよな。いや別に、好きとかそんなんじゃねえって、中野、そんな目で見なくても」


 男子たちが粟生野の話題で盛り上がっているのを見ながら、

「粟生野って、やっぱ人気あるんだな」

 感心して呟くと、隣にいた健太郎が「そりゃそうだろ」と返した。

「生徒の鑑みたいな優等生だしな。それにまあ、わりと可愛いし」

 健太郎が最後に付け加えた言葉がなんだかとても意外に感じてしまい、ぽかんと彼の顔を見つめてしまうと「なんだ」と健太郎が怪訝気に眉を寄せた。

「いや、健太郎って、桜さん以外の人を可愛いと思うこともあるんだなあ、と」

 言うと、「何言ってんだ」と遠慮なく呆れた顔をされた。

「そりゃ、なっちゃんにはもちろん及ばないが」

 心底真面目な顔で続けた健太郎の言葉は、いつものように「はいはい」と軽く受け流しておいた。

 健太郎の言葉は近くにいた他の男子の耳にも届いたらしく

「あーあ、いいよなあ、刈谷は。桜さんとかマジきれーじゃん」

 と、うらめしげに声を上げた。その声に反応して、周りの男子も次々に口を開く。

「あー、そういや刈谷、桜さんと付き合ってんだっけか」

「え、そうなん? 桜那津子さん? 一組の?」

「なに、お前知らなかったわけ? そうなんだよ。もう一年くらいなるぜ。ほんといいよなあ、刈谷はさ。マジうらやましいわ」

 男子たちの声に、「まあな」と健太郎はさらりと頷く。引き結ばれていたその口元が、だんだんと緩んでくるのがわかった。そろそろ、あのなんとなく腹が立つ笑みが浮かぶんだろうなとぼんやり考えた矢先、「美人だよな、あの人」という一人の言葉に、健太郎の口元がへら、と想像した通りに緩んだ。

 その後は、みんなが「なんで仲良くなったんだ?」とか「どっちから告った?」とか口々に健太郎へ質問を浴びせ始め、いつの間にやら話題の中心はすっかり健太郎へ移っていた。



 教室に戻り、次の授業の準備をしていたとき、ふいに「桐原」と名前を呼ばれ、顔を上げる。粟生野だった。

 ふと先ほどの更衣室での会話を思い出し、妙な気まずさを感じた。しかしそれはもちろん俺だけで、粟生野はいつもと同じように朗らかに笑って

「ねえ、突然なんだけどさ」

 と前置きしてから

「今日の放課後、なんか予定ある?」

 周りを気にするように声を潜めて、そう尋ねた。少し迷ったが

「五時までは図書室にいる予定」

 答えると、「あー」と考えるように視線を漂わせながら、粟生野は呟いた。

 しばらく間があって、彼女は「ま、いいや」と何やら一人で頷くと、「じゃあさ」と続ける。

「そのあと、ちょっといい?」

 ますます声を落として、粟生野は言った。その様子にわずかに不安がこみ上げて「なんで?」と尋ねると、粟生野は「いや、ちょっと」とあわてたように手を顔の前で振る。

「あんまり時間はとらせないから。ただ、ちょっとだけ、時間もらえるかなって」

「俺はいいけど、五時以降でも大丈夫なのか?」

「うん、全然いいよ。ありがとう。じゃあ、放課後ね」

 早口にそれだけ言うと、粟生野は自分の席へ戻っていった。

 その後ろ姿を眺めながら、一人首を捻る。わざわざ放課後に時間をもらう必要があるような用事とは一体何なのか、さっぱり見当がつかなかった。

 けれど考えるのは、すぐにやめた。どうせ放課後になればわかるのだし、さっぱり見当がつかないことを考えても仕方ない。そう一人で頷いて、中断していた授業の準備を再開した。



 放課後、図書室へ行くと、いつものようにカウンターには白柳がいた。

 俺も、いつものように彼女の隣に座る。今日は、机の上にプリント類は何も広げられていなかった。残念だ。先日の名誉挽回をする機会はないかと、また白柳が数学の宿題に行き詰まるのを密かに待っているのだが、なかなかその機会はやってこない。

「先輩は、どうして図書委員になったんですか?」

 鞄から英語の教科書とノートを取り出していると、唐突に白柳がそんなことを聞いてきた。

 彼女のほうに顔を向けると、目があった瞬間に白柳は思い切り俯いてしまった。髪の間から覗く耳が赤い。そこまで恥ずかしがるような質問じゃないだろうに、と思いながら

「クラスのやつに、やれって言われてさ。俺、部活もやってなかったし、どうせ暇だろ、と」

「え……じゃあ先輩、本が好きっていうわけじゃないんですね」

 返ってきた、落胆したような白柳の声に、思わず「いや」と答えていた。

「まあ、好きだよ。そんな、たくさん読むわけじゃないけど」

 嘘なのかそうでもないのか、曖昧なところだった。たくさん読むわけじゃないどころかほとんど読まないけれど、まあ全然読まないわけではないし嘘ではないだろう、と強引に結論づけていると

「そうなんですか?」

 と白柳が嬉しそうに聞き返した。その笑顔に、まあ嘘でもいいや、と思って「うん」と頷いた。こんな些細なことでも、白柳は心底嬉しそうだった。


「先輩は、図書室、好きですか?」

 しばらく間があって、白柳はそんな質問を続けた。

 今度は何も迷うことなく、頷いていた。

 頷いたあとで、ああ、好きだな、と初めて感じる。ほんの数週間前まで、まったくと言っていいほど訪れることはなかったこの場所が、今では、何よりも心地の良い場所になりつつあった。

 図書室の、カウンターの中の、白柳の隣。ここが好きだと、ふいに強く思った。

「私も、大好きです」

 白柳はそう言って、満面の笑みを浮かべる。じわりと、体の奥に暖かなものが広がるのを感じた。


 そのとき、図書室のドアが開いて、粟生野が入ってきた。めずらしい人物だった。図書室で粟生野に会うのは、初めてのような気がする。

 彼女は俺を見つけると、にこっと笑って片手を挙げた。それからこちらへ歩いてきた。

「お、ちゃんとお仕事頑張ってるみたいね」

 粟生野はそう言って、「よろしいよろしい」と頷くと

「やっぱり、桐原に頼んでよかった。図書委員」

 さらりとそう言って明るく笑うので、少し照れてしまった。粟生野が男子生徒に人気がある理由が、なんとなくわかった気がする。

「めずらしいよな、粟生野が図書室来るの」

「うん、いつもは滅多に来ないな。今日、部活が休みなの。生徒会の仕事もないし」

 ああ、そうか、と思った。めずらしいのは当たり前だ。部活に生徒会にと、粟生野ほど放課後を忙しく過ごしている生徒はそうそういないだろう。図書室に来る暇などいつもはないに違いない。

「こんな日滅多にないから、今日はチャンスかなって思ってさ」

「チャンス?」聞き返すと、粟生野は「や、なんでも」とひらひらと顔の前で手を振った。それを見ながら、思い当たる。今日俺にちょっと時間をもらえるかと言っていた、例の用事のことか。

「私、向こうの机で勉強してるね。桐原は、五時までしっかりお仕事頑張るように」

 真面目な顔を作り、びしっと人差し指を立てたあとで、粟生野は向こうの机のほうへ歩いていった。


 ふと白柳へ視線を戻すと、ぽかんとした顔でこちらを見ている彼女と目が合った。「あ、同じクラスのやつ」と説明しようとしたとき、ふいに白柳が、あ、と声を上げた。彼女の視線は俺を通り抜けた、背後に向いている。

 白柳の視線を追うように後ろを振り返ると、今度は、一人の一年生が図書室の扉をくぐるところだった。見覚えのある子だ。「新井さん」と呟くように白柳が彼女の名前を口にしたため、思い出した。先日、俺がプリントを運んでくれるよう頼んだあの図書委員の子だった。

 新井さんは白柳を見つけると、笑みを浮かべた。白柳も、ぎこちないが嬉しそうに笑みを返す。二人は仲が良いらしいことがわかり、なんとなく嬉しくなる。

「友達?」

「は、はい……多分」

 自信なさげに付け加えられた語尾が引っかかったが、とりあえず気にしないことにした。


 新井さんはこちらへ歩いてこようとしていたが、その足は途中で止められた。司書の先生が「ああ、新井さん、丁度良かった!」と彼女を呼び止めたためだ。

 先生は軽く十冊はあろうかという本の山を新井さんへ差し出しながら

「これ、書庫に運んで、整理してきてくれる?」

 と頼んでいた。新井さんは頷くと、本を受け取り踵を返した。

「よし、白柳」

 何がよし、なのかわからないが、俺はそう言って立ち上がっていた。

「手伝いに行くぞ」

「え? あ、新井さんをですか?」

「そう」

「でも、カウンター……」ともごもごと返す白柳に、「大丈夫だろ。今、人いないし」と、粟生野が奥の机に座っているだけの図書室を見渡して言った。それから「さ、行くぞ」とやや強引に白柳を連れて、下の書庫へ向かった。


 書庫では、新井さんが本を手に、本棚を睨んでいた。

「手伝うよ」

 そう声を掛けると、新井さんは驚いたように振り向いたあと、「あ、ありがとうございます」と嬉しそうに笑った。

 新井さんから本を半分ほど受け取り、そのさらに半分を白柳に渡す。すると俺の手には三冊の本しか残らなかった。それを見て、あー、と声を漏らすと

「なんか、これくらいなら二人とも手伝いに来ることなかったかもな」

「私も、そう思います……」

 恐る恐るといった感じで、白柳が同意した。

「じゃあ、白柳、任せていいか? 俺、やっぱりカウンターに戻るよ」

「はい」

 白柳に三冊の本も渡して、書庫を出ようとしたとき、「ありがとう、柚ちゃん」という新井さんの声が聞こえた。柚ちゃん、というその親しげな響きと、白柳の「ううんっ」という高い声が続いて聞こえたことに、また、嬉しくなった。


 図書室に戻ると、カウンターの前に二人の生徒がいるのを見つけた。

 やべ、と呟き、急いでカウンターへ向かう。が、足音に気づいて振り向いたその生徒の顔を見て、力が抜けた。

「あ、直紀ー。どこ行ってたのー?」

 みなと駿だった。二人の手に本はない。また、暇だったためふらりと遊びに来ただけのようだ。

「ちょっと下の書庫に」

「今日、直紀いないのかと思っちゃったよー」

 みなの向こうに、粟生野が見えた。粟生野も、こちらを見ていた。

「あれ? 今日は、あの一年生いないのか?」

「いや、書庫にいるよ。本の整理してる」

 駿の質問にそう答えたとき、粟生野が握っていたシャーペンを机に置くのが見えた。そして立ち上がると、こちらへ歩いてくる。早くも遅くもない足取りは、しかしひどく重たく感じた。当然ながら、こちらを向いているみなと駿は気づいていない。

「え、じゃあ手伝わなくて」

 いいのか、という駿の言葉の後半部分は、「ね、桐原」という粟生野の声とかぶっていた。いやに強い口調だった。その声には、はっきりと、駿の言葉を遮ろうとする意思を感じた。

 俺の右側に立った粟生野は、不自然なほどに俺の顔だけを見ている。明らかに、みなと駿からは目を逸らしているのがわかった。

「ちょっと、いい?」

 何気ない調子で粟生野は言った。しかしその口調には、どこか凄みを感じた。不自然さを粟生野は隠そうともしていない。白柳が隣にいたときとは違う。あからさまに、粟生野の、二人に対する敵意を感じてどきりとした。

 え、と困惑してみなと駿のほうへ目をやると、駿がなんでもないように

「じゃ、俺らはもう帰るか」

 と、みなへ言った。みなもあっさりと頷く。「じゃあな」「ばいばーい」とそれぞれ声を残して、二人は図書室を出て行った。

 二人を見送ったあと、

「で、なんだ?」

 と粟生野へ尋ねる。こちらを向いた粟生野の表情は、いつもと同じ明るいものに戻っていた。

「今やってた宿題で、ちょっと聞きたいことがあったの。でも、まあ、いいや。もうすぐ五時だし。そろそろ終わりでしょ? 図書委員の仕事」

 宿題でちょっと聞きたいこと、って、俺より粟生野のほうが遥かに頭良いと思うんだが、と思ったが、口にするのはやめた。

 時計に目をやれば、たしかにあと五分もしないうちに五時になるところだった。すると、粟生野の言葉が聞こえたらしい司書の先生が、

「桐原くん、ちょっと早いけど、もう終わっていいわよ。お疲れさま」

 と気を回してくれた。俺は「すみません」と短く言ってから、カウンターの中に置いていた鞄を取りに行った。粟生野も、机に広げっぱなしだった教科書やノートを片づけ始める。それから二人で図書室を出た。


 図書室を出たところでいったん粟生野は立ち止まり、何か考えるように視線を彷徨わせる。やがて、

「ねえ、中庭まで行ってもいい?」

 と尋ねてきた。頷いて、二人で中庭へ向かう。

 その間、粟生野は一言も喋らなかった。

 木に囲まれた中庭には、吹奏楽部がたまにコンサートをするときのための小さなステージと、あとはいくつかのテーブルやベンチが並んでいる。

 その中の一つのベンチの脇まで粟生野は歩いていったが、ベンチに座ることはなく、足を止めるとこちらに向き直った。彼女にしてはめずらしく、視線は足下に落ちたままだ。粟生野の緊張にあてられて、俺まで少し緊張してきてしまった。

 しばらくの沈黙のあとで、

「多分、もう、だいたい察しはついてると思うんだけど」

 普段の粟生野より数段小さな声で、そう口火が切られた。正直、まったく察しがついていなかった俺は、彼女の言葉に困惑して、え、と声を漏らしたが、粟生野は気にしたふうもなく続ける。

「もう、単刀直入に言うよ」

 ようやく上がった粟生野の視線が、素早く辺りを確認するのがわかった。すう、と彼女が一つ息を吸い込む音が、やたらと大きく聞こえた。


「私、桐原が好きです。付き合ってください」



 一瞬、辺りから音が消えた気がした。 

 その言葉は、まったく予想の範囲外のもので、脳が理解するのに数秒かかった。

 理解したあとも、こういった場合に浮かべるべき表情さえわからず、ただぽかんと目の前の粟生野の真っ直ぐな目を見つめる。え、という声が喉から零れるまでにも、たっぷり三秒はかかった。

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