第5話 夜

 穏やかさを取り戻したあとのみなは、あっという間にグラタンもサラダも綺麗に平らげてしまった。見ているこっちが気持ちいいほど、彼女はおいしそうに食事をした。グラタンは大好きだというみなの言葉が本当らしいことは、その様子を見ていればわかった。

 まるで何事もなかったかのように「ごちそうさまでした」と明るく手を合わせるみなに、母も笑って「どういたしまして」と返す。誰も、何も、聞こうとはしなかった。


 押入れから布団を出して和室に敷いているときに、「お風呂沸いたわよー」と母の声が掛かったため、先にみなに入るよう勧めた。

「さっき、どうしたんだろうな」

 みなを風呂へ案内したあと、毛布をそれぞれの敷き布団の上に広げながら、ぽつりとそう呟くと

「あいつ、昔、グラタンすげえ好きだったらしいから」

 俺の聞きたいことはきちんと読み取れたらしい駿が、穏やかな声でそう返した。同じように毛布を広げながら、「懐かしくなったんじゃねえの」と続ける。

「……昔、お母さんが作ってくれてた、とか?」

 一つ浮かんだ想像を口にしてみると、少し間を置いて、「たぶん」と駿は頷いた。


 みなが一人暮らしをしていることは、以前彼女から聞いていた。なぜ一人暮らしをしているのかという理由までは話してくれなかったが、決して明るい理由ではないことくらい察しはついていた。

 どうやら両親は健在のようだし、妹がいるがその子は両親と一緒に暮らしているらしい。しかも彼らの住む家は、みなが一人で住むアパートとさほど離れていない場所にあることも知っていた。一体何があって家族がそんな奇妙な別居をしているのかは予想もつかないが、とりあえずみなと家族の関係が良好とは言えないのは確かだろう。

「みなが一人暮らししてる理由って」

 前触れもなくそう口にすると、駿がこちらを向いた。彼と目があった瞬間に少し後悔がこみ上げたが、ここまで言って止めるわけにもいかず

「やっぱり、聞いちゃ駄目か?」

 と、尻すぼみになりながらも尋ねてみる。

 駿はしばし俺の顔を見つめ、それからふっと目を伏せた。「あんまり、いい話じゃないし」と駿は答えた。

「みなは多分、直紀には知られたくないだろうから、みなが自分で話さないんなら俺からは言えない」

 静かな、それでもはっきりとした口調だった。その声を聞きながら、ふいに、駿はみなが一人暮らしをしている理由も知っているんだな、と今更ながら思う。


「駿って、福浦にも行けるくらい頭良かったんだろ」

「なんだ、いきなり」

 突然に変わった話題に駿は少し笑ったあとで、「まあな」とすまして頷いた。

「なのに、篠野に来た理由って」

 続けると、何か察したように、駿がふいに真顔になる。

「――みなの、ためなのか?」

 唐突に浮かんだ考えは、口に出した途端に確信の色をした。

 駿は、すぐには何も答えなかった。視線を下に落とした彼の口元に、かすかに笑みが浮かぶ。その笑みが自嘲のように映って、思わず彼が何か返す前に、言葉を続けていた。

「聞いたんだけど、みな、中学の頃は駿以外とまともに口聞かなかったんだろ。だからやっぱり、駿、みなのことが心配で、福浦蹴ってまで同じ高校選んだんじゃないのか」

 今度は、「違うよ」とすぐに答えが返された。静かな声だった。

「そんな立派な理由じゃねえよ。福浦行きたくなかったのは、ただ、兄貴と比べられるのが怖かっただけだし」

 駿は、力なく笑った。今度こそ、はっきりとした自嘲だった。

「昔から、一つも敵うものなかったし。まあ違う高校行ったからって、どうにかなるわけじゃないけど、でもやっぱ、一緒の高校はすげえ嫌で」

 そこで駿は言葉を切った。思い直したように一度口を閉じる。次に彼の口から出たのは、違う話になっていた。

「篠野選んだのは、みなのためとかみなが心配だったからとか、そりゃそれもなくはなかったけど、でもそれより、ただ俺がみなと一緒にいたかっただけだし」

 ひどくあっさりとした口調で、駿は言い切った。これ以上ないほど単純なその答えは、とても自然に、深く染み入る。それが一番違和感のない答えで、真実なのだと感じた。

「あいつは家族だから」

 その声は、まるで独りでに駿の口からこぼれ落ちたかのようだった。

 家族。

 駿の言葉を繰り返す。その響きは、驚くほど二人に馴染んだ。ひどく納得してしまった。親友だとか恋人だとか、そういった言葉とはどこか遠く感じていた二人に、ようやく見つかった、ぴったりとはまる言葉だと思った。


「……でもさ、よかったと思う」

 ふと思ったことをそのまま口にすれば、駿に「は?」と聞き返された。

「駿が篠野に来て。みなのためじゃなかったとしても、かなりみなのためになったと思う」

 駿は「いやべつに、あいつには何もしてやってねえよ」とにべもなく言った。

「でも、みな、今はあんな感じじゃん。よく笑ってるし、楽しそうだし。俺は知らないけど、前は違ったんだろ? じゃあみなが変わったのって、駿のおかげだろ」

「俺のおかげってわけじゃねえよ。単にあいつが、いろいろと吹っ切れたってだけで」

 またばっさりと切り捨てられたが、「いや、でもさ」とさらに続ける。

「絶対、みなには駿がいてよかったんだよ。俺、わかるんだって。うん、本当、よかったよ」

 一人で勝手にそう完結して何度も頷いていると、ふ、と駿が頬を緩めた。

「……ありがとな」

 突然に彼が言ったその礼が、何に向けられていたのかはわからなかった。けれど、聞くのはやめた。ただ、「うん」と頷いておいた。



 しばらくして、みなが風呂から戻ってきた。彼女は、ゆったりした紺色のワンピースを着ていた。見覚えのある服だった。

「それ、母さんのだろ」

 尋ねると、みなは嬉しそうに笑って頷いた。

「もらっちゃったー。もう着ないから、って」

 そういえば、以前母があのワンピースがきつくなったとショックを受けていたのを思い出す。従兄弟にでもあげようかななどと言っていたが、みなにあげることにしたらしい。

 みなはその場で一度くるりと回ってみせたあと、布団の上に座り、「ねえねえ」と弾む声で話し出した。風呂上がりのためか、喜びのためかはわからないが、その頬はかすかに紅潮している。

「直紀のお母さんがね、もう着なくなったカーディガンとね、あとアクセサリーもくれるって。あとね、みなが一人暮らししてるって言ったら、ちゃんと自炊できてるのって心配してくれて、これからも、またいつでも来ていいよって」

 興奮気味に捲し立てる彼女の顔は、これ以上ないほど幸せそうに輝いていた。思わず言葉に詰まるほどの、心底嬉しそうな笑顔だった。

 すぐには言葉を返せず、みなの顔を見つめてしまっていたとき、「よかったな」と駿が言った。初めて聞くような、優しい声だった。


 その後、今度は駿に風呂に入るよう勧めた。

 駿がいなくなったあと、「ね、直紀」と静かな声でみなが呼んだ。さっきまでとは変わって、どこか大人びて聞こえる声だった。

「ありがとう」

 出し抜けに、彼女は言った。その口調は、先ほど聞いた駿のものとよく似ていた。

「何が?」と聞き返しても、みなは柔らかく微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。

「さっきは恥ずかしかったなあ、泣いちゃったりして」

 次にみなが口を開いたときにはもう別の話になっていて、彼女の顔に浮かぶのもいつも通りの明るい笑顔だった。

「みんな、すごく困ってたよね。ごめんね」

 いや、と急いで首を振る。みなははにかむように笑うと、「なんかね」と続けた。

「直紀の家ってね、涙腺が緩んじゃうみたいなんだよね」

「は?」

「だって、なんかすごく、泣きそうになっちゃうもん。さっきもね、直紀のお母さんがこの服くれたときも、いつでも来ていいよって言ってくれたときも、うっかり泣きそうになっちゃったし」

 何と言えばいいのかわからなくて、ただ小さく相槌をうった。みなは、へへ、と笑ったあとで

「駿も、すごく喜んでるよ」

 声のトーンが、かすかに変わったのを感じた。「ありがと、直紀」とみなはもう一度言った。今度は、駿のための「ありがとう」だとわかった。それはとても自然に、みなの口から零れた。

 そのときはっきりと、みなと駿の間にある絆を、見た気がした。やはりそれは、家族という言葉が一番ぴたりとはまると思う。とても深くて綺麗なものだった。心から、そう思った。それなのに、なぜか少し、切なくなった。



「ねえねえ、直紀の初恋っていつですかー」

 三人並んで布団に寝転がっていると、みなが楽しそうにそんなことを聞いてきた。にこにことした顔がこちらを向く。ついでに体も少しこちらへ寄った。

「んー……中学のとき」

 少し考えたあとでそう答えると、「どんな子だった?」とすぐにみなが食いついてきた。

「どんな子って……あー、部活のキャプテンとかやってたな」

 布団の力なのか夜の力なのかよくわからないが、修学旅行と似たようなもので、こういう状況ではなぜか口が軽くなる気がする。「かなりしっかりしてて、なんていうか、はきはきしてた」と、自分でも驚くほどぺらぺらと話していた。

「直紀って、そういう子が好きなの? しっかりしてて、はきはきしてて、キャプテンとかやるような」

「どうなんだろ。いや多分、その子が好きだっただけで、別にそういう子が好きってわけじゃないと思う」

 そう言うと、途端「ふーん」と返したみなの声がトーンダウンした。

「自分から聞いといたくせになに沈んでんだよ」

 と、横から駿が呆れたように言う。みなは、ばっと駿のほうを向くと

「べ、べつに沈んでないですよー。だいたい、もう過去の話だしね! ね、直紀? 過去の話だよね?」 

 かすかに不安げな色が滲むその声に、笑って頷く。

「てか、その子がどこの高校行ったかも知らないし」

「告ったりしなかったのか?」

 今度は駿が尋ねた。

「しなかった。気づいたら、彼氏いたし」

「ありゃりゃ。悲しいねー」

 そう言いながらも、みなの声はやけに弾んでいた。

 もうとっくに忘れていたことなのに、久しぶりに思い出すとなんだか少し気持ちが落ち込んできて、「みなは?」と逆に聞いてみる。みなはなぜか、驚いたように「えっ?」と声を上げ、

「やだー、直紀ってば何聞くのー!」

 どこに照れるような要素があったのかわからないが、ばしばしと俺の腕を叩いて、大いに照れた。

 そのとき、ふいに駿が拗ねたように

「俺には聞かねえの?」

 と言ったため、「あ、じゃあ駿は?」と尋ねようとしたとき、

「駿はべつにいいよー。どうせないでしょー。あるわけないもん、駿には」

 みながきっぱりと切り捨てた。

「お前さあ、ちょっとは俺にも気遣えよ。あけすけにも程があるだろ」

「ねえ直紀、その言葉、駿にだけは言われたくないと思いませんか?」

「たしかに」

 みなの言葉に深く同意すれば、みなが声を上げて笑った。つられるように、駿も笑う。 

 目の前の笑顔は、本当に楽しそうだった。その笑顔を見ながらふいに思った。ずっとこの二人が、こんな風に笑っていられればいい。驚くほど素直に、そう思えた。

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