第4話 グラタン
さっきから、みなは手鏡をじっと睨んだまま歩いているため、段差につまづきそうになったり電柱にぶつかりそうになったりと危なっかしくて仕方がない。
見かねて「ちゃんと前見て歩けよ」と注意しても、また五分もたたないうちに鞄から手鏡を取り出して、髪を忙しなく撫でつけ始めた。
やがて「あー」と本日何回目かもわからない呻き声を上げ
「やっぱりこのピン派手すぎるかなあ。こっちのほうがいいかなあ」
と前髪を留めていた赤いヘアピンを外し、代わりに、制服の胸ポケットに差していたヘアピンを一本取って今度はそれを留めた。それからふたたび手鏡を覗き込み、「あー、でもなあ……」とぶつぶつ呟いている。
そうしているうちに後ろから車が走ってきたため、軽くみなの腕を引いてこちらへ引き寄せながら
「それでいいじゃん。おかしくないって」
と、鏡から目を離そうとしないみなへ言う。「ほんとー?」と聞き返す彼女に頷こうとしたとき、反対隣から
「つーか、誰もピンなんていちいち見ねえよ」
素っ気ない駿の言葉が飛んできた。みなは駿の言葉は綺麗に無視して、「ね、じゃあ直紀」と弾んだ声を上げ、こちらを向く。
「これとー……これ! この二つなら、どっちがいいと思うー?」
この質問も、今日で何度目になるかわからない。そう尋ねる彼女の手にあるのは、似たような形の飾りのついた二つのヘアピンで、正直俺にはいまいち違いがわからなかった。
「え? どっちも変わんなくね?」
「違うよー! ほら、色が全然違うでしょ。それにこっちの飾りのほうが微妙に大きいんだよね」
説明されても、やはりよくわからなかった。
「じゃ、こっち」
選んでも、そう時間が経たないうちにみなはまた悩み出すのだろうということはわかったが、とりあえず答えた。「うん、わかった」と言って、みなはそのヘアピンで前髪を留めたが、やはりまた手鏡を睨んで首を捻っていた。
「べつに、どのピンでもそんなに変わらないと思うけど」
思わずそう言ってしまうと、横で「そうそう」と駿がうんざりしたように頷いた。
「そんなことないよ。全然違うよ。第一印象って大事だもん。ちょっとでも印象良くしときたいし」
そう話しながら、ふたたび前髪に手を伸ばしたみなに、
「どのピンでも、ちゃんと可愛いから大丈夫だって」
みなは「へっ?」と間の抜けた声を上げ、前髪に触れようとした手を止めた。
直後、彼女の頬がぱっと赤らむ。ぽかんと俺の顔を見ていたみなが、らしくもなくしおしおと俯いて、ぼそっと言った。
「直紀って、意外にさらっとそういうこと言える人だよね」
「そうみたいだな。自分でも驚いた」
みなは、楽しそうに声を上げて笑ったあと、「じゃあ、もうこれでいいや」と弾んだ声で呟いて、ようやく手鏡をしまった。
「でもさあ、マジでいいのか?」
そろそろ家に着くという頃、駿の口から出たその質問も、今日で何度目になるかわからなかった。どうにも気になるらしく、「やっぱ迷惑じゃねえ?」と続けて尋ねる駿に、
「迷惑じゃないって。てか、父さんが駿に会いたがってたよ」
そう答えると、駿が怪訝気に「なんで」と返した。
「なんかさ、駿のお母さんと知り合いらしい。去年まで同じ高校に勤めてたらしくて」
「え、直紀のお父さんも先生なのか?」
「そう。しかも英語の。駿のお母さんもなんだろ? だからお世話になってたって」
隣で、みなが「へー!」と感心したように声を上げた。
「すごい偶然。やー、世界は狭いねえ」
みなの言葉に「そうだな」と頷く横で、駿は曖昧に小さく相槌をうっただけだった。
家に着くと、車庫には二台車が停まっていた。
「あ、もう父さんも帰ってきてる」
そういえば今日は出張だから帰りは早いって言ってたな、と思い出しながら呟いたとき、なぜかみなが「えっ」とあわてたような声を上げた。それから、あたふたとふたたび手鏡を取り出して
「嘘だあ。お母さんだけでも緊張するのに、お父さんまで? みな、心の準備ができてないよ」
「べつに緊張するような人たちじゃないから。心の準備とかいらないって」
「でもお父さん、高校の先生なんでしょ?」
「そうだけど、全然そんな感じじゃないし。どこにでもいる普通のおじさんだから」
言いながら玄関のドアノブに手を掛けると、「わああ、待って!」とみなが急いで止めた。
「なんだよ」
「や、もうちょっと心の準備を……ていうか、やっぱりこのヘアピン、」
「それでいい。充分可愛い」
また前髪に手を伸ばしかけたみなにきっぱり言い切って、ドアノブを引いた。ああ、とみなが引きつった声を出した。
開けたドアの向こう、ちょうどリビングから出てきた父がいた。
父は俺の後ろに立つ二人に目を留めると、お、と声を上げこちらへ歩いてきた。後ろでみなが体を固くするのが伝わる。
ただいま、と言うより早く
「やあ、いらっしゃい」
と、父はにこやかに二人へ声を掛ける。対して、「こんにちは」と挨拶をする二人の声は、とても固かった。父は駿へ目をやると、やたらと嬉しそうに
「いやあ、いつも先生から話を聞いてたんだよ。昇くん、だったかな」
と聞き慣れぬ名前を口にした。
「違うよ。駿だって。昨日教えただろ」
訂正すると、父は「え?」と不思議そうに聞き返した。だいたい昇って誰だよ、と続けようとしたとき
「昇は、兄です」
と、駿がひどく静かな声で言った。父はようやく思い出したらしく、あ、と声を上げ、それから罰が悪そうな顔になった。
「いや、ごめん。ああ、そうか、そういえば昇くんは福浦高校だって聞いてたな……」
と呟いたあとで、父は「まあ、あがってあがって」と二人へ促した。それからリビングへ戻り、「直紀のお友達来たぞー」と母へ声を掛けていた。
すぐに、今度は母が玄関へ出てきた。「いらっしゃい、いらっしゃい」と、母のほうもいつもの数倍にこやかに二人へ声を掛ける。二人は、また緊張気味の声で挨拶をした。
「えーと、みなちゃんと駿くんだったわね」
母は、ちゃんと正しい名前を口にしたため、なんとなくほっとする。
「ご飯出来るまであと少しかかるから、直紀の部屋ででも待っててね」
という母の言葉に、なぜかみなが「直紀の部屋?」と目を輝かせた。
やけに弾んだ足取りで、案内する俺に着いて歩いてきたみなに、
「べつにそんな期待するような部屋じゃないぞ」
と前置きしてからドアを開ける。
みなはとくに変わったところもない部屋に「わあ」と歓声を上げ、楽しそうにきょろきょろと部屋を見回していた。遠慮なくクローゼットに伸ばしかけたみなの手を制してから、雑然とした狭い部屋を見渡し、そういえば、と思う。みなと駿にはどこで寝てもらえばいいのだろう。とてもじゃないが、この部屋に二つ布団を敷くのは無理だ。
「なあ、そういや、寝るとこどうしよう。ここに布団二つは入らないし」
「え、じゃあみな、直紀と一緒にベッドで寝てもいいよ!」
キラキラと目を輝かせてみなの言った言葉は、間髪入れず飛んできた駿の「何言ってんだお前」という言葉に打ち消された。
「んなことしたら直紀が迷惑だろうが。ここは俺とみなが一緒に布団で寝とくべきだろ」
「えー、駿とー? やだー、つまんない。直紀とがいいなー」
「お前、あけすけもいいとこだな」
二人のそんな言い合いを聞きながら、ふと、以前従兄弟が泊まりに来たときは、一階の和室に布団を敷いて寝てもらったことを思い出した。
今日もそうしてもらうかと思い、二人にそれを伝えると、みなは残念そうに「えー」と声を上げた。しかしすぐに何やら思いついたらしく、また目を輝かせて
「そしたら、直紀ももちろん和室で寝るんだよね?」
「あー、そうだな、そうしよ」
「じゃあね、布団三つも敷くの大変だし、二つでいいよ! みなは、直紀と一緒の、」
今度は、みなが全部言い終わらないうちに、「いい加減にしろ」と容赦のない言葉がまた駿から飛んできた。
しばらくして、下から母の呼ぶ声が聞こえてきた。
それに応えて部屋を出ようとして、ふいに駿の顔に目が留まる。そのまましばらく見つめてしまって、駿が眉を寄せ「なんだよ」と聞いてきた。
「あー、いや」とあわてて首を振ってから
「あのさ、ちょっと待っててくれるか」
と言い置いて、二人を残して俺だけリビングへ向かった。
ソファに座り新聞を眺めていた父に、「なあ」と声を落として話しかける。
「お願いなんだけど、駿に、駿のお兄さんの話あんまりしないでほしいんだよ。ああ、あとできれば駿のお母さんの話も」
ただの勘だった。頭にあったのは、昨日の、駿がお母さんたちとあまり仲良くないというみなの言葉と、先ほど聞いた駿の静かな声だった。昇は兄だと訂正する、ただそれだけの声が、いやに耳に残っていた。
早口にそれだけ言うと父はぽかんとしながらも、頷いた。
それを見て二人を呼びに部屋へ戻ろうとして、ふとテーブルに並んだやたら豪華な夕飯に目を留める。人数分のグラタンにサラダにスープ。初めて見るような洒落た食卓だった。滅多に家で嗅ぐことはないチーズとバターの匂いが漂っている。テーブルの脇では、母が誇らしげに笑っていた。
「すごいでしょう? つい張り切っちゃって。こんなの作ったの初めてよ。さ、早くみなちゃんと駿くん呼んできてよ。冷えたら美味しくないし」
いつもの食卓とのあまりの差に、張り切りすぎだろ、と思ったが口には出さなかった。
しかし、テーブルの上の夕飯を目にした二人の反応は芳しくなかった。
楽しげな笑みを浮かべていたみなの顔が、テーブルに目を留めた途端さっと翳るのをはっきりと見た。駿もどこか戸惑うような表情になり、気遣わしげにみなへ目をやる。二人の表情の変化は母も気づいたのか、「あら」と困ったような声を出し
「もしかして、嫌いだったかしら? グラタン」
と苦笑いを浮かべて尋ねた。みなは弾かれたように顔を上げると、大きく首を左右に振る。
「いえ、違います、嫌いじゃないです」
「いいのよ、無理しなくて。嫌いならちゃんと言ってね。あ、それともアレルギーとか……」
「いえ、あの」
困ったような表情を浮かべていたみなの顔が、どこか悲しげに歪む。「好き、なんです」と奇妙に静かな声でみなは続けた。
「みな、大好きなんです、グラタン」
たったそれだけの、なんてことない言葉が、なぜかひどく重たく聞こえた。
みなが、いつもの騒々しさはすっかり成りを潜め、やけに静かに箸を進めるため、つられて俺まで黙々と食事をしていた。
父は俺の頼んだ通り、駿の兄や母の話題は避けてくれているようだが、そのせいで他の話題が見つからないらしく、まだ何も喋らない。そうすると囲んでいるテーブル全体がどこかしんとしてしまい、妙な気まずさが漂っていた。
つい気になってみなへ目をやると、まだグラタンには手をつけようとしない。ゆっくりとしたペースでサラダやスープを口に運ぶ様子を見ていれば、明らかにグラタンに手を伸ばすのを避けているのがわかった。
見かねて、やっぱり嫌いなんだろ、と声を掛けようとしたとき
「みなちゃんたちは、直紀と同じクラスなの?」
ようやく話題を思いついたらしい母が尋ねた。だが、みなの耳には入らなかったようだ。観念したようにグラタンに手をつけたところだった彼女は、固い表情でグラタンを凝視している。
そんなみなの様子をちらと見た駿が、
「いえ、違います。俺は一組で、みなは四組です」
と代わりに答えた。
「まあ、一組? 一組って、優秀な子を集めたクラスなんでしょう。さすがねえ」
のんびりと話す母に、駿も笑って首を振る。その横で、みながようやくグラタンを口に入れた。
「直紀ももっと頑張りなさいよ。駿くんを見習って」
母の言葉に、わかってるよ、と返そうとしたときだった。
ぱたりと、みなの手元に雫が落ちるのが見えた。直後、フォークを握るみなの手が震え出す。同じように、彼女の肩も震えた。
ぎょっとして「みな?」と名前を呼べば、父と母も気づいておろおろと声を掛ける。
「え? あら、みなちゃん、どうしたの?」
「みなちゃん?」
まったく思いも寄らない出来事だった。グラタンの入った口をもごもごと動かしながら、彼女は一度大きく肩を揺らした。同時に、喉から嗚咽が溢れる。頬を新たな涙が伝った。
「嫌いなら、本当に無理しなくていいのよ? ね?」
あわてる母に、みなは俯いたまま、ただ何度もかぶりを振る。そのとき駿が、ひどく自然な動作で手を伸ばした。優しく肩に触れた駿の手に呼応するように、なんとか口の中のものをすべて飲み込んだみなが口を開く。
「ちが……違う、んです」
絶えずこみ上げる嗚咽に邪魔されながらも、みなはそう紡いだ。「おいしい、です」と震える声が続ける。
鼻を一つ啜ったあと、みなは顔を上げた。そうして、頬を濡らしたまま、笑った。赤い目をしたその笑顔はとても幼く、無邪気だった。
「すっごく、おいしいです」
それは、何も嘘のない言葉だった。それだけは、わかった。
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