第3話 飴

 昼休み、健太郎と食堂で昼食を食べてから教室へ戻っていた途中、廊下の反対方向から桜さんが歩いてきた。

 彼女は健太郎の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせ、小走りにこちらへ駆け寄ってくる。健太郎のほうも唇の端を緩ませ、「なっちゃん」と駆け寄ってくる彼女の名前を呼んだ。

「よかった、健太郎、探してたんだよ」

 いつものことだが、健太郎と一緒にいるときは桜さんの視界に俺はほとんど入らない。体ごと健太郎のほうへ向けて、桜さんは弾んだ声で言った。

 健太郎にだけ向けられる桜さんのその柔らかな笑顔は、彼女の他のどんな表情よりも魅力的で、あらためて健太郎は幸せ者だなと思う。

「どうかしたのか?」

「リーディングの教科書忘れちゃったの。貸してくれる?」

 そう尋ねる桜さんの向こうに、廊下を歩く見慣れた少女の姿が目に入った。

 両腕に重たそうにプリントの山を抱えた白柳だった。

 あ、と思わず声を上げると、健太郎が不思議そうに「どうした?」と聞いてきた。「あ、いや」と首を振る。

 白柳のほうへ視線を戻すと、彼女もこちらに気づいたらしく、目があった。あ、とその口が同じように小さく動くのが見えた。


「あ、健太郎」

 桜さんの頼みに頷いて、彼女と一緒に教室へ歩き出した健太郎に

「先行ってて。俺、ちょっと、後で行くから」

 と声を掛けてから、彼らとは反対方向へ歩いていった。

 こちらへ向かってくる俺に気づいた白柳が、驚いたように目を丸くして足を止めた。プリントの山が不安定に揺れるのを見て、

「半分貸して」

 と返事も待たず、白柳の腕からプリントを半分ほど取る。

 白柳は戸惑ったように「え、あ」と途切れ途切れの声を上げながら、おどおどと俺の顔を見ていた。

 持ってみると、プリントは予想以上にずっしりと重たかった。

「何だ、これ」

「あ、えっと、あの、今日提出だった宿題です。先生が、誰か職員室まで持ってきてくれって言ってたから」

「誰か他のやつにも手伝わせればよかったのに。重かっただろ」

 言いながら、きっとそれは白柳には難しいことなのだろうということが想像できた。白柳は少し困ったように笑って、「いえ」と首を振る。

 白柳はいつも一人でこんなことをしているのだろうか、とぼんやり考え、思わずため息がこぼれた。

「職員室だっけ」

「あ、は、はい」

 確認して、職員室へ足を向けると、白柳が急いで隣に並んだ。

「あっ、あの、ありがとうございます」

 しばらく歩いたところで、ようやく白柳が思い出したように声を上げた。

 いや、と首を振ったあとで、「白柳さ」と続ける。

「は、はい?」

「もっと他の人たちにいろいろ頼ってもいいと思うぞ。図書委員の仕事もほとんど白柳が一人で全部やってるし。こういうのだってさ、白柳一人じゃ大変だろ。クラスのやつらに手伝ってもらえばいいんだよ」

 そう言うと、白柳は視線を腕の中のプリントに落として、あ、とか、え、と意味の繋がらない、困り切ったような声を出した。

 しばらく考えるように黙り込んだあとで、ようやく

「でも……私、恐いです」

 と、俯いたまま小さな声で答えた。

「何が?」

「人に、頼み事したり、するの。嫌だなって思われたらどうしよう、とか、いろいろ考えちゃうんです」

「嫌だなとか、そうそう思わねえよ。それにそう思ったら、断るだけだし。べつにそんな恐がるほどのことじゃないって」

 白柳は困ったように小さく笑って「でも……」といっそう細い声で続けた。

「人に嫌われるのが、すごく恐いんです」


 白柳がそう言ったところで、がらっと職員室の扉が開いた。中から顔を出した一年担任の先生が、白柳を見つけて「おお」と手を挙げた。

「ごくろうさん」

 と言って、白柳の手からプリントを受け取る。彼がプリントを職員室へ持ってくるよう頼んでいたらしい。

「あ、これもです」と言って先生に残りの半分のプリントも差し出すと、「お、ありがとな」と笑って受け取った。それからプリントを脇の机に置くと、

「ちょっと待っててくれ」

 と言い置いて、ふたたび職員室へ戻った。そして今度は、四十冊ほどのノートを手に出てきた。

「悪いんだけど、ついでにこれを教室まで持っていってくれるか?」

 白柳は快く頷いて、先生からノートを受け取る。

 少し時間が気になったが、さっきのプリントよりも重そうなノートの山を抱える白柳の細い腕を見ていると、なんだかいたたまれなくなって

「手伝うよ」

 という言葉が口をついて出ていた。彼女の腕からノートを半分ほど取ると、白柳は驚いたように、え、と声を上げた。

「でも、あの、時間大丈夫ですか?」

 おずおずと尋ねる白柳に、大丈夫、と答えようとしたときだった。

 後ろから「直紀」と声を掛けられた。振り返ると、先ほど別れたばかりの健太郎が立っていた。

「あれ、どうした?」

「どうしたじゃない。次、体育だろ。遅れるぞ」

 見ると、健太郎の手には二つの見慣れたビニール袋があった。

「あ、俺の体操服も持ってきてくれたのか。さんきゅ」

「いいから早く行くぞ」

 あー、と声を漏らして腕の中のノートの山に目をやる。白柳が何か言いたそうに口をぱくぱくさせているのがわかったが、とりあえずそれは無視して周りを見渡してみる。

 と、「失礼しましたー」と頭を下げて職員室から出てきた一人の女子生徒を見つけた。足下に目をやると、一年生であることを示す緑色のスリッパを履いていたため、よし、と心の中で声を上げる。


「なあ」

 そう声を掛けながら彼女の肩をぽんと叩くと、彼女は「へっ?」と驚いたような声を上げ、勢いよくこちらを振り返った。

「あ、ごめん」と、とりあえず驚かせたことを謝ってから

「あのさ、今、忙しい?」

 自分でも随分唐突だなと思いながら尋ねた。彼女はきょとんとしながらも

「いえ、べつに……」

 と首を振った。「じゃあさ」と言って、抱えていたノートを差し出す。

「よかったらこれ、教室まで運ぶの手伝ってくれね? あ、なあ白柳、白柳って何組?」

 そこで後ろに立つ白柳を振り返って尋ねると、呆けたように俺を見ていた白柳が、はっと我に返ったように「あっ、さ、三組、です」と上擦った声で答えた。それを聞くと、ふたたび女子生徒のほうへ向き直る。

「三組の教室に持っていってほしいんだけど、手伝ってくれるか?」

 女子生徒はようやくこちらの意図を理解したらしく、ああ、と声を上げて

「はい、いいですよ」

 と快く引き受けてくれた。それから俺の手からノートを受け取り、

「じゃあ、行こう、白柳さん」

 と白柳へ声を掛けた。

 あれ、知り合いだったのか、と思いながら、おどおどと俺の顔と女子生徒の顔を交互に見つめる白柳に、「ほらな」と声には出さずに唇を動かした。

 やがて、「白柳さん?」と女子生徒に呼ばれ、白柳は急いで彼女の隣に並んで歩き出した。あわてたように礼を言う白柳と、それに首を振る女子生徒の背中を、なんだかほくほくした気持ちで眺めていると、「直紀、何やってんだ、早く行くぞ」と苛ついた健太郎の声が飛んできて、あわてて踵を返した。



 放課後、いつものように図書室へ行くと、白柳がすでにカウンターに座っていた。

 白柳は俺を見つけると、「あっ、先輩」と声を上げ、意味もなくあたふたと立ち上がった。

「あの……大丈夫でしたか?」

 白柳は出し抜けにそう尋ねてきた。

「なにが?」

「た、体育、間に合いましたか?」

 心底心配そうに尋ねる白柳に、「大丈夫、間に合った」と笑って答える。白柳は大袈裟なほどほっと息をついて、「よかったです」と呟いた。

 それから彼女は、あ、と小さく声を上げて、傍らに置いていた鞄を手に取り膝の上に置いた。鞄の中を覗き込みながら、「あの、先輩……」と遠慮がちに声を掛けてくる。「なに?」と聞くと、いつも以上に小さな声で「あめ」と返ってきた。

「雨?」

 雲一つない青空が広がっている窓の外へ目をやりながら、怪訝気に聞き返すと、「いえ、あの」と白柳は首を振った。

「あ、飴……食べます、か?」

 唐突な言葉に一瞬ぽかんとしたあとで、「ああ、うん、食べる」と答えた。

 すると白柳はほっとしたように笑みを浮かべ、鞄から飴の詰まった袋を引っ張り出した。色とりどりの飴が白柳の掌に転がる。

「先輩、何味がいいですか?」

「何味があんの?」

「えーと……メロンといちごと、レモンとみかん……あ、あとグレープフルーツもあります」

「んー、じゃ、みかん」

 そう答えると、白柳はにっこりと満面の笑みを浮かべ、「はい、どうぞ」と飴を一つ俺の掌にのせた。

 礼を言って受け取ると、白柳は「いえ」と小さくかぶりを振って

「お礼、です」

 と、照れたように言った。「何の?」と尋ねると、

「あの、昼休みに、先輩、手伝ってくれたから……プリント」

 白柳は訥々と答えた。なんだかとても白柳らしいなと思って、笑みがこぼれた。

 包みを剥がして、飴玉を口の中に放り込むと、酸味の混じる甘さが広がる。なぜか、いつも以上に甘く感じるような、気がした。


「あーっ、いいなー。みなにもちょーだいっ」

 よく通る高い声が間近から聞こえた。

 振り向くと、みながにこにこと笑って、カウンターに肘をついていた。目を輝かせて、白柳の持つ飴の袋を見つめている。その隣に、駿も同じようにカウンターに肘をついていた。

 白柳は戸惑ったように、え、と声を上げてみなの顔を見ていたが、みなが「だめ?」と続けると、あわてたように「い、いえっ、どうぞ」と袋ごと差し出した。

「わーい、ありがと!」

 みなは明るく笑うと、遠慮なく袋に手を突っ込んだ。それから白柳は、どうすればいいのかと迷うようにみなと駿を順に見たあとで、やがて「あ、あの……どうぞ」と駿にも袋を差し出した。駿も「さんきゅー」と人懐こく笑って、飴玉を一つ受け取った。

「めずらしいな、二人が図書室来るとか」

「うん、直紀いるかなーって思って。今日バイトもないし、暇だったから」

 みなはそう答えたあとで、ふたたび白柳のほうを向いた。

「ね、直紀のお友達?」

 唐突に質問が飛んできて、白柳がびくりと肩を強ばらせるのがわかった。「え、えっと……」と白柳が困ったように声を漏らすのを聞いて、思わず代わりに俺が「うん」と頷いていた。驚いたように白柳が俺の顔を見る。

「そっか。お名前はー?」

 続いた質問に、白柳は俯いたまま「し、白柳、柚です」と小さく答えた。「そっかそっか」とみなが笑顔で頷く。白柳はどうすればいいのかわからないように、じっと体を強ばらせていた。

 白柳の名前は聞いておいて、みなは自分の名前を名乗ろうとはしないため、とりあえず俺が白柳にみなと駿の名前を教えて、友達だと紹介した。白柳はやはりどうすればいいのかわからないように、曖昧に頷いただけだった。


 そのとき、ふと机に広げられた数学のプリントに目を留め、お、と声を上げる。

「それ、宿題?」

「え? あ、は、はい」

 尋ねられてようやく思い出したように、白柳は目の前のプリントに目を落とした。

 見ると、一問目ですでに行き詰まっているらしかった。なんだか急にやる気が湧いて、

「手伝ってやろうか」

 と言ってみた。白柳は「へっ」と素っ頓狂な声を上げたあと、

「お、お願いします。全然わからなかったんです」

 と、かすかに必死な色が滲む声で、嬉しそうに言った。それだけで妙に誇らしい気分になり、

「よし、まかせろ」

 と力強く答えた。


 数分後、俺は自分の言葉を深く後悔していた。

 自分では、数学は得意なつもりだった。それでなくとも、目の前にあるのは一年生用のプリントだ。当然解けるはずだったそのプリントの、一問目で早くも俺はつまずいていた。

 自分から言い出しておいて一問も解けないなんて格好悪すぎるだろうとは思うものの、焦ると余計に頭は働かない。

 だんだんと途方に暮れてきて、カウンターに肘をついたままのみなと駿へなんとはなしに目をやった。みなのほうは、はなからプリントを眺める気もないらしく、カウンターに置かれたカレンダーを退屈そうに弄っている。駿は何やら楽しそうな笑みを浮かべて、一向にシャーペンが走ることのない白紙のプリントを眺めていた。げ、と思った。


 その後もしばらく粘ってみたが、結局どうしようもなかった。諦めて、助け船を求め「なあ駿」と声を掛ける。駿は、にやりとなんとも嫌な笑顔を浮かべた。

「ここは直紀に花持たせてやるべきだろうって、俺なりに空気読んだつもりだったんだけど」

「うん、ちゃんと読めてたぞ。いやほんと恥ずかしいんだけど、無理だった。助けて」

「しょうがねえなー」

 もったいぶって、駿は一つため息をつくと

「こんなの余事象使えば一発だろ。ほれ、貸せよ」

 そう言って駿はプリントとシャーペンを受け取り、俺があれだけ粘ってもさっぱり糸口の掴めなかった問題を、一分もかからないうちに解いてしまった。呆けたように、さらさらと式を書き込んでいく駿の手元を眺めながら

「駿って、マジで頭良かったんだな」

 思わずそんな失礼なことを呟いてしまうと、なぜかみなが自慢げに

「駿はすごいんだよー。本当はね、福浦にも行けるくらいだったんだから」

 と、カレンダーを弄っていた手を止めて言った。

「へえ、すげえなあ。……え、でもじゃあなんで篠野に来たんだ?」

 そう尋ねたとき、一瞬駿の手がぴたりと止まった。しかしそれはすぐにふたたび動き出し、それと同時に

「福浦遠いし、駅も近くにないから通いにくいだろ。篠野のほうが断然交通の便良かったし」

 と答えが返ってきた。


「あのう……」

 戸惑うような声が掛けられたため振り返ると、昼休みに俺がノートを運ぶのを手伝ってくれるよう頼んだ一年生が立っていた。

 ふいに思い出した。どこかで見たことがある子だと思ったのだが、そういえば図書委員だったのだ。滅多に図書室へは来ないため――というか白柳以外はほとんど誰も来ないため、あまり記憶に残っていなかった。

「私、今日当番なので、来たんですけど……」

 今日はめずらしく、彼女がやる気になったらしい。せっかくのやる気を無駄にするのは勿体ないため、俺は彼女に席を譲った。

 その子は、白柳ともそこそこ仲が良いらしかった。白柳が自然に「新井さん」とその子へ呼びかけるのを聞いて、なんとなく安堵した。


 カウンターの席がなくなったため、俺は四人がけの机の一つに座った。みなと駿も同じ机に座る。図書室に来ておいて、何をするでもなく他愛のない話を続ける二人に

「てか、二人とも、何も本は借りないのか?」

「うん。直紀いるかなーっと思って来てみただけだもん」

「あ、なあ、図書室って五時には閉まるんだよな?」

 思い出したようにそう尋ねる駿に頷くと、

「じゃあそのあとはどうすっかなあ」

「また、みなの家来ればいいじゃん」

 みなの言葉に、駿は「んー」と考えるように声を漏らす。そんな二人のやり取りに、「え?」と首を捻ると

「なに? 駿、今日、家帰れないのか?」

「あー、いやべつに、ただあんま早く帰りたくないってだけ」

 返ってきた言葉に、何も考えず流れで「なんで?」と尋ねてしまうと、駿の顔にかすかに困ったような色が滲んだ。「あー……」と迷うように口ごもった駿に代わって

「ちょっとね、駿、お母さんたちとあんまり仲良くないもんね」

 と、みなが軽い調子で言った。俺が、え、と声を漏らすと、空気が妙に静まりかえってしまい、あわてて「じゃあさ」と続ける。

「俺の家にも来れば?」

 ぱっと思いついたことをそのまま口にすると、「へ?」というみなと駿の声が重なった。

「あんま家に帰りたくないんならさ、うち来ればいいよ。うち、遅くまでいても大丈夫だし。母さんが人に夕飯ごちそうするのとか好きだからさ、夕飯食べてってもいいし」

 そう続けると、ぽかんと俺の顔を見ていた駿が

「え、いいのか? マジで行くぞ?」

 とめずらしく遠慮がちに尋ねた。「いいよ、来いよ」と軽く頷くと、みながいきなり手を挙げて

「みなも、みなも! みなも直紀の家行きたいな!」

 と興奮気味に声を上げた。彼女のテンションに若干気圧されながらも

「ああ、いいよ、もちろん」

「やったあ! ありがと! やったね、駿! ね、じゃ、いつにする? いつなら大丈夫なの?」

「べつにこっちはいつでもいいけど。明日とかでも大丈夫だし」

「本当? じゃあもう、明日にでも行きたいなー」

「わかった、いいよ」

 何気なくした提案だったのだが、まさかここまで喜ばれるとは思わなかった。心底嬉しそうな目の前の笑顔を見ていると、こちらまでじんわり胸が暖かくなる。ふと明日は金曜日だということを思い出し、

「何なら、泊まってってもいいぞ」

 と言うと、「ほんとに?」というみなの声と「マジで?」という駿の声がまた綺麗に重なった。

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