第2話 噂

 とんとんと肩を叩かれて振り返ると、待ち構えていた指に頬がぶつかった。

「わ、引っかかった人久しぶり!」

 後ろに立っていたみなが、人差し指を立てた手を俺の肩に置いたまま、楽しげな笑い声をたてる。

 ひとしきり笑ったあとでようやく「おはよう」と言ったみなに、俺も「おはよう」と返したとき、彼女の少し後ろに立っていた駿が、唐突にみなの肩を叩いた。

「へ?」と振り返ったみなの頬に、さっきの俺と同じように、肩に置かれたままの駿の指が軽く食い込む。みなはしばらくぽかんと駿の顔を見つめたあと、ようやく何が起こったのか理解したように「げっ」と顔をしかめた。それを見ながら、駿が呆れたように笑う。

「お前、ついさっき自分でやっといてなんで引っかかるんだよ」

「ふ、不意打ちだったから! ついうっかり!」

「予告してやったら意味ねえだろ」

 そんなやり取りのあとで、駿はこちらを向いて「おはよ」と言った。俺もまた、同じ言葉を返す。


 三人で並んで校舎へ伸びる坂を歩き始めると、「あ、そういやさあ」と思い出したように駿が声を上げた。

「あれ、結局どうなったわけ?」

「あれ?」

「直紀がコンタクト踏んだから、千円がどーのこーのっていう」

 思い当たって、ああ、と頷く。

 数日前、俺はクラスメイトである粟生野のコンタクトを踏んで壊してしまっていた。その弁償として千円を渡していたのだが、そのことについて駿とみなはやたら不満を示した。俺が弁償する必要はないだとか千円を渡すのはおかしいだとか、二人はしきりに言ってくれた。

 それだけならいいのだが、しまいには自分たちが千円を取り返してくるとまで言い出し、なんとかそれは思いとどまらせたのだが、未だに納得できてはいないらしい。

 結局、コンタクトは無料で作り直してもらえたということで粟生野から千円は返してもらった。このことは早く二人に報告しておかないとと思っていたのだが、駿に言われるまですっかり忘れていた。


「そうだった、そのことなんだけどさ、千円返してもらったんだよ」

「マジか。よかったじゃねえか」

「じゃあ、結局あっちも自分が悪かったってことに気づいたんだねー」

 にこにこと笑ってみなが言った言葉は、相変わらずどこかずれていた。「いや、そうじゃなくて」と口を挟む。

「保障期間だったとかなんとかで、コンタクトがタダで作り直してもらえたらしい。だいたい、前から言ってるけど、粟生野のほうから千円払えって言われたわけじゃないって」

「あっ、そうだ」

 いきなりみなの意識がひょいと飛んだ。少し真面目な顔になってこちらを向くと、

「粟生野さんって聞いて思い出したんだけど、なんかね、四組の子たちが、直紀と粟生野さんが付き合ってるとかなんとか言ってたんだよね」

「は? なんだそれ。どっから出たんだそんな話」

「わけわかんないでしょー。でもみなね、ちゃーんと言っといたよ。そんなわけないって。直紀が迷惑するから変なこと言わないでね! 次言ったら怒るよ! って」

 いやべつにそこまで言わなくても、とは思ったが、とりあえず「どうも」とだけ返しておいた。

 そこでまた、みなの意識は別の方向へ飛んだらしく、「あっ」と声を上げて今度は駿のほうを向いた。

「ていうかね、駿、知ってた? 粟生野さんって広原中だったらしいよ」

「そりゃ知ってたけど。俺、三年のとき同じクラスだったし。つーか、みなも一年のときは同じクラスだっただろ」

「え、そうだっけ?」

 きょとんとした声を上げるみなを、駿は思い切り呆れた顔で眺めていた。


「粟生野って、中学のときはあんまり目立ってなかったのか?」

 今の粟生野は、生徒会にも入っている優等生で、学年の間ではかなり有名な人物だと思う。その粟生野を、同じ中学だったのに覚えていないというのはいまいち信じられなかった。

 駿は少し考えたあとで、

「いや、学級委員とかやってたし、結構目立ってたほうだぞ」 

「なのに、みなは覚えてなかったのか?」

「あー、まあ、こいつはちょっとおかしいから」

 そんな遠慮の欠片もない駿の言葉にも、みなはとくに気にした様子もなく

「みな、中学のときのクラスメイトってあんまり記憶にないんだよねー」

 あっけらかんと笑いながら、さらっと酷いことを言った。


「桐原、おはよ」

 昇降口でそう声を掛けられ振り返ると、今まさに話題にしていた粟生野が立っていたため少し心臓が跳ねた。

 片手を上げて朗らかに笑った粟生野の顔が、俺の隣に立つみなと駿に視線を移した途端、さっと強ばるのがわかった。しかしそれはほんの些細な変化で、俺が「おはよう」と返すと、すぐに彼女の顔には明るい笑みが戻る。みなと駿に向けても軽く会釈をしてから、粟生野は連れ立っていた友人と共に靴箱のほうへ歩いていった。

 噂をすれば何とやらだな、と彼女の後ろ姿を眺めながらぼんやり思ったとき

「噂をすれば何とやらだね」

 と、みなが同じことを言った。



 席に着き、鞄から教科書やノートを出しているとき、ふいに影ができたかと思うと前の席の椅子が引かれた。顔を上げると、その席の主である健太郎ではなく、粟生野がこちらに体を向けて座っていた。

「ねえ、桐原ってさ」

 彼女は妙に真剣な表情を浮かべて、いきなり口火を切った。

「園山さんと高須賀くんとは、友達なの?」

 質問の意図を量りかねて、困惑しながら「まあ、そうだけど」と返す。

 粟生野の目に、一瞬暗い色が落ちたような気がした。「なんで?」と尋ねると、粟生野は慌てたように笑みを作って、「ううん、ちょっとね」と手を顔の前で振る。それから、少し考えるように視線を落としたあとで

「二人とは、いつから仲良いの?」

 と質問を重ねた。ますます困惑しながらも、「かなり最近から」と答える。

 粟生野は、ふうんと相槌をうって

「めずらしいんだよね。あの二人、あんまり友達とか作ろうとしないし」

 と、机の上で組んだ自分の手に目を落としたまま、呟くように言った。

「そうなのか? 最初に会ったときから、二人とも普通に明るかったし、人懐っこい感じだったけど」

「うん、まあ明るいのは明るいけどさ、なんか排他的なんだよね、あの二人。まあ中学の頃しかよく知らないから、今は変わったのかもしれないけど」

 粟生野の顔は、いやに平淡だった。嫌悪というほどのものは見えないが、とりあえず粟生野は、みなと駿へあまり良い感情は持っていないらしいことはわかった。

「なに、あの二人、中学の頃は無愛想だったのか?」

「ううん、無愛想っていうか……とにかく排他的だったな。とくに園山さんなんか、徹底的に周りとは壁作ってる感じでさ、高須賀くん以外とはまともに口聞かなかったくらいだし」

「マジで? なんか想像つかねえなあ」

 俺の中での二人は、いつでも笑っているような、明るく人懐っこいイメージしかない。俺が首を捻っていると、粟生野も首を捻った。俺が粟生野の語る中学時代の二人が信じられないのと同じぐらい、粟生野のほうは今の二人が信じられないようだった。


「……桐原さ、なんであの二人と仲良くなったの?」

 しばし迷うような素振りを見せたあとで、いつもより少し低い声で粟生野は尋ねた。その顔は相変わらず表情に乏しい。

「なんで、って……二人とも気さくだったし、何回か話してるうちにいつの間にか」

 ふうんと相槌をうった彼女の声に、少し冷たいものが混じるのを感じた。

「じゃあ本当に変わったのね、あの二人」

 抑揚のない声で粟生野が呟く。その変化をあまり快いものとは思っていないらしい粟生野を怪訝に思いながら、

「でもさ、よかったじゃん。昔は壁作ってたとしても、今はあんな感じなんだし。排他的より人懐っこいほうがいいだろ」

 なんとはなしにそう口にしたとき、机に落ちていた粟生野の視線が、ふいに俺の顔へ上がった。

 彼女は無表情に俺の顔を見つめたあとで、また視線を落とす。それから無理矢理に口角を持ち上げたようなぎこちない笑顔を浮かべ、そうね、と頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る