第1話 図書室

 足音が耳に届いたのか、手元の文庫本に目を落としていた白柳が、ふいに顔を上げた。

 目が合うと、彼女はふわりと顔をほころばせる。それは不思議なほど、こちらの表情まで柔らかくしてしまう笑みだった。

「先輩」と白柳がうれしそうに呟く。それから、ぱたりと読んでいた本を閉じた。彼女は、いつもそうだった。


 いつもはせいぜい五人ほどが勉強をしていたり本を読んでいたりしているだけの図書室に、今日は軽く二十人ほどの生徒がいる。図書委員の当番のため、毎週火曜と金曜は図書室へ来ているが、こんなに多くの生徒で賑わう図書室を見たのは初めてだった。

「なんか今日、人多いな」

 鞄を下ろして、白柳の隣に腰掛けながら言うと、

「今、総合の時間にグループ研究をやってるからだと思います」

 と白柳が説明した。なるほど、と頷いたあとで

「じゃあ今日は忙しいだろうな」

 と呟くと、白柳はやけに楽しそうに「そうですね」と返した。

「なんか楽しそうだな、白柳」

「え? あ、そ、そうですか?」

 何とはなしに口にすると、彼女は少し赤くなって、落ち着きなく視線を漂わせた。

「あの、私、好きだから」

「何が?」

「貸し出しのお世話とか、本棚の整理とか、図書委員の仕事するの」

「へえ」

 えらいな、と続けると、白柳は照れたように笑い首を振った。

「楽しいか? 本棚の整理とか」

「楽しいですよ。本に触ってるだけで楽しいです」

「じゃあ図書委員は天職だなあ」

 白柳は幼い笑みを浮かべて、「はい」と大きく頷いた。


 最近では、白柳が毎日カウンターに座っているのがわかったのか、図書委員は当番の日だろうとほとんど誰も顔を出さない。俺はいちおう自分の当番の日はしっかり来るようにしているが、図書室の利用者はいつもかなり少ないため、貸し出しの世話は一人で充分事が足りる。いつも白柳がてきぱきと仕事をこなしてくれるため、俺はほとんど何もすることがなかった。

 それでも、図書室へ行くと白柳がうれしそうな顔をしてくれるため、いつの間にか当番の日はかかさず図書室へ足が向かうようになっていた。


 しかし今日は違った。一人の生徒が本を手にカウンターへやって来たので白柳がいつものように貸し出しの手続きをしているときに、もう一人生徒がこちらへ歩いてきた。「書庫の鍵を開けてほしい」と言われたため、カウンターの奥から鍵を取ってきて、書庫へ向かった。

 めずらしく図書委員の仕事をして図書室へ戻ると、先ほど本を借りようとしていた女子生徒が、まだカウンターの前に立っていた。

「なんで? これ、貸し出し禁止の棚から持ってきたわけじゃないわよ」

「でも、あの、バーコードがないから……」

「バーコード?」

 何やら二人の間の空気が穏やかではないらしいことに気づいて、あわててカウンターへ駆け寄る。女子生徒が白柳に何か尋ねているだけのようだが、彼女の口調がきつめなためか、白柳がまるで大目玉でも食らったかのように怯えているためか、女子生徒のほうが白柳を一方的に責め立てているように見えた。

「なに、どうした?」

 尋ねると、白柳はぱっと顔を上げて、助けを求めるような目でこちらを見つめた。その顔は今にも泣き出しそうで、実際に目にはかすかに涙が滲んでいる。

 女子生徒のほうへ目をやると、

「これ借りたいんですけど、なんか借りられないとか言われて」

 と言いながら、彼女はカウンターに置いていた本を手に取り、今度は俺に差し出した。本を受け取って眺めていると、

「バーコードが貼ってない、から……多分、貸し出し禁止の本だと、思うんです」

 と消え入りそうな声で、おどおどと白柳が口を挟んだ。たしかに、あちこち調べてみてもバーコードが見あたらない。

「でも貸し出し禁止の本って、あっちの本棚にある本だけでしょ?」

 質問が飛んできて、白柳がびくりと体を竦めるのがわかり、「あー、あのさ」とあわてて割って入る。

「多分、元々は貸し出し禁止の棚にあったのを誰かが動かしたんだと思う。とりあえず、これバーコード貼ってないから貸し出せない本だし、どうしても借りたいなら先生に頼めば一日くらい貸してくれると思うよ。とりあえず、俺らにはわかんないから、あとは先生に聞いてくれるか?」

 本を彼女に返しながら言うと、渋々ながら彼女は頷いて、本を受け取ると再びテーブルのほうへ歩いていった。


 ふう、と息をついて椅子に座る。なあ白柳、と何とはなしに話しかけようと彼女のほうを向いて、驚いた。

 ぎゅっと握りしめた拳をテーブルの上に置いたまま、固まったようにそこに座っている白柳の顔はひどく強ばっており、かすかにその肩が震えているのがわかった。

「白柳? どうした?」

 尋ねても、彼女は俯いた顔を上げることはなく、ただ小さく首を振った。

「なんでも、ないです」か細い声が答える。

「いや、でも気分悪そうだけど」

 そう続けると、白柳はもう一度首を振った。震えと見分けをつけるのが難しいほど僅かな動きだった。握りしめた自らの拳にぼうっと視線を落としたまま、ぽつりと呟く。

「……ちょっと、似てたから」

「え?」

「さっきの人の、声とか、喋り方とか……中学のときの」

 そこで白柳ははっとしたように口を噤み、急いで首を振った。

「いえ、なんでもないです」

 きっぱり話を切り上げるように白柳が言ったため、結局それ以上は何も尋ねられなかった。とりあえず、少し考えて

「さっきのなら、別に白柳が悪いわけじゃないし、気にすんなよ」

 と言っておいた。白柳はようやく顔を上げて、「はい」と小さく笑った。



 翌日の放課後も、俺はなんとなく図書室へ向かっていた。

 当番の曜日ではないのだが、今日も昨日のように利用者が多いなら白柳一人では大変だろうし、いつもは図書室を利用しない人たちが大勢本を借りに来るため、また昨日のようなことが起こるかもしれない。白柳にとっては、些細な揉め事でもかなり辛いものであるらしいことが昨日わかった。


 図書室へまっすぐに続く廊下を歩いていると、向こうから一人の女子生徒が歩いてきた。女子生徒のほうが「あ」と声を上げたため目をやると、それは白柳だった。「え?」と俺も声を上げる。彼女は肩に鞄を掛けている。明らかに帰り支度を済ませた格好だった。

「白柳、どうしたんだ?」

 彼女は罰が悪そうに、その場で足を止めた。それから困り果てたような目でこちらを見つめたあとで、思い切り俯いてしまった。

「もう帰るのか?」

「い、いえ……あの……」

 顔を上げないまま口ごもるその様子は、昨日見たものとよく似ていた。彼女の怯えた表情と震える肩を思い出して、唐突に察しがついた。

「――俺、今日も図書室行こうかと思ってんだけど」

 言うと、「へ」と間の抜けた声を出して白柳は顔を上げた。

「白柳は帰るのか?」

 先ほどの質問を繰り返すと、今度はあわてたように首を横に振る。それから、ふ、と頬を緩めた。俺も笑みを返して、

「じゃ、行こう」

 そう言って白柳の横をすり抜けると、彼女も急いで踵を返し、隣に並んだ。


 図書室は今日も二十人ほどの生徒で溢れていた。昨日のことを思い出したのか、かすかに強ばる白柳の横顔を見ながら

「明日からも、毎日、図書室来るよ」

 と何気なく言う。彼女は弾かれたようにこちらを向いた。

「だからさ、白柳も来てくれよな。俺、図書委員の仕事よくわかってないから白柳いないと困るし」

 ぽかんとして俺を見つめていた白柳の顔に、やがて輝くような笑みが満ちる。肩の少し上まであるまっすぐな髪が揺れるほど、彼女は大きく頷いた。

「はい!」

 元気よく返事をして、もう一度首を縦に動かす。歯を見せて幼く笑う彼女の顔を見ながら、俺はこの笑顔が好きだと、ふいに強く思った。

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