第三章 哀歌

序章


  神様なんて生まれてこのかた信じたこともなかったけれど、もしいるのなら、初めて心の底から感謝したいと思った。


 あんたが、こんな傑作を作ってくれていたなんて知らなかった。








 机の脇に無造作に置かれていた鞄の口が、開いているのに気づいた。

 もう何度もあったことなのに、それでもかすかに指先が冷たくなった。中を覗いてみると、思ったとおり、昨日もらった全国模試の成績だけがなくなっている。

 胃が少し重たさを増したような気がして、それだけで空腹感も消えた。一つため息をつくと、乱暴に鞄を閉じる。それから壁に掛かっている制服に手を伸ばした。


 制服に着替えたあと、鞄を掴んでドアを開ける。階段を半分ほど下りたあたりで、無駄に大きな声で話す母の声が聞こえてきた。

「本当に、恥ずかしいったら。あんな偏差値の低い高校に通ってるってだけでも酷いのに、あの高校でトップもとれないなんてねえ。同じ親から生まれて同じように育ってきたのに、なんでこんなに違うんだか」

 何度聞いたかもわからない、いい加減聞き飽きた台詞だった。だが彼女のほうは飽きることはないらしく、今日も感情的に捲し立てている。そこで一度言葉は切れ、いかにも苦々しげなため息が聞こえた。それに応えるように、兄のため息混じりの相槌も聞こえた。

「先生たちと子どもの話題になるたびに、嫌になるのよ。とりあえず上の息子は福浦に行ってるって話だけをするんだけど、だいたいいつもじゃあ下の息子さんは? って続くのよね」

「まあ、そりゃそうだろうね」

「みんな、当然下の子も福浦行ってると思って聞いてくるから、篠野って言うとなんか拍子抜けみたいな感じになっちゃって」

 靴を履き終えたとき、兄の低い笑い声が聞こえてきた。それに被せて、母が言葉を続ける。

「どうせなら、息子は昇だけってことにしたいわよ」

 その言葉まで耳に届いたところで玄関のドアを閉めた。ふと車庫に目をやる。やはり車は一台しか停まっていなかった。昨日は結局、父は帰らなかったらしい。母がいつにも増して苛ついていたようだったのはそのせいだろう。

 どうせバスが来るまではまだ時間があるのだから急いだって仕方がないのだが、足が自然と早足になる。いつも、そうだった。


――高須賀くんは、いいところ、いっぱいあるよ。


 それはきっと、他愛ない会話の中の、何気ない一言だった。

 そう言ったのは誰だったのかも、いつ聞いたのかも覚えていないほどの、何気ないものだった。しかし不思議なほど、その響きだけは頭に残っている。たしか、中学の頃だった。ほとんどみなとの記憶しか残っていないその頃の、みなの声以外で覚えているたった一つの声だった。

 その声を、ふいにまた思い出した。



 バス停に向かって歩いている途中、数メートル先を歩いていた二人の女子中学生が、「きゃあっ」と小さく悲鳴を上げた。

 見ると、一人が道路の脇に転がる物体を指さして、怯えたように隣の女子生徒の腕を握っている。近づいていくうちに、彼女が指さしているのが動物の死体であることがわかった。「やだー」「かわいそう」などと言いながらも、二人は死体を避けるように道路から離れ、早足でその場を通り過ぎていった。

 さらに近づくと、それはイタチであることがわかった。車に轢かれたらしい。よく目にする光景だった。通り過ぎようとしたとき、ふいに思った。


 もしあいつがこれを見つけたなら、どうするのだろう。

 まさか死体を弔ったりするのだろうか。そこまではしないかもしれないけれど、でもきっと、ただ純粋に、かわいそうだと思うのだろう。イタチどころか、スズメとかトンボとかが死んでたって心を痛めたりするんだろうな、きっと。直紀なら。


 ぼんやりと思った。また少し、早足になった。

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