第12話 焦燥

 目が覚めると、手錠は外され、肩には薄い毛布が掛けられていた。

 うっすらと赤く跡の残る手首をまじまじと眺めたあとで、意味もなく腕を回してみて、自由に腕が動かせることを確認する。それから、あらためて自分が今いる部屋を見渡してみた。

 カーテンを透かして、柔らかな陽の光が部屋を照らしている。壁に掛かった時計に目をやると、七時を少し過ぎたところだった。


 昨夜はとても眠る気になんてなれなかったし、睡魔もやって来ることはなかった。しかし、電気も消え、一切の音も消えたあとの部屋の中にじっとしていると、嫌でも手足に巻き付く鉄の感触に意識が集中してしまう。それが、今自分がいる状況の異常さを深く感じさせ、それらを閉め出すように目を閉じた。

 そうしたら、結局いつの間にか眠っていたらしい。昼間に十分すぎるほど寝ていたはずだが、それ以上に疲労もあったのかもしれない。


 ゆっくりと立ち上がると、がしゃ、と足下で金属の擦れる音がした。見下ろすと、相変わらず足枷がしっかりと俺の足首を掴んでいる。今の異常さを象徴するかのようなそれからはすぐに目を逸らして、彼女の姿を探しながらキッチンのほうへ歩いていく。

「みな?」

 呼んでみたが、返事はなかった。キッチンにも誰もいない。トイレと風呂場も電気は点いていなかった。

 もう一度彼女の名前を呼ぼうとしたとき、流しに転がる携帯電話を見つけて、その名前は喉を通りすぎることなく消えた。明らかにこの場には不釣り合いなその小さな機械を拾い上げる。画面には未だたくさんの水滴が付着していた。開いてみたが、真っ暗なディスプレイはどのボタンを押しても何の変化もおこらなかった。


 一つ、ため息をついたときだった。唐突に玄関のドアが開いた。

 立っていたのは、みなだった。Tシャツにハーフパンツ、サンダルといった出で立ちで、ちょっとそこまで出かけてきたという風な格好だ。

 彼女は俺の手元に目を留めると、無言でこちらへ歩いてきた。驚くほどの強い力で、当然のように俺の手から携帯を奪うと、そのまま携帯を掴んだ手を思い切り振り上げた。

 ぎょっとして目を見開いたときには携帯は床に叩きつけられ、外れたバッテリーのカバーがキッチンのシンクにぶつかった。がしゃん、という携帯の壊れる音はやたらと大きく、冷たく響き渡った。

「ゴミ出し、行ってたんだ」

 足下に転がる携帯には目もくれず、みなはいつもと何ら変わらない軽い口調で言った。それは今の状況にはあまりに釣り合わず、なんてことないその言葉を理解するのに少し時間がかかった。

 呆然とする俺に、彼女は明るく笑いかける。

「じゃあ、朝ご飯、食べよっか」

 どこまでも軽い声に、また頭が混乱しそうになる。

 目の前にあるのは邪気などみじんもないように見える見慣れた笑顔で、それでも彼女の足下の携帯は無惨に形を変えていた。


 テーブルに、トーストの載った白い皿が二つ置かれる。みなはすぐにまた立ち上がると、今度は冷蔵庫からジャムと牛乳を出して持ってきた。

 とくに空腹は感じていなかったのだが、香ばしい匂いが鼻腔を満たしたとき、急激に腹が減ってきた。そういえば昨日は昼飯も夕飯も食べていないということを思い出すと、さらに空腹感は増した。

 はい、と言って苺ジャムとスプーンを渡してくれるみなに、さんきゅ、と短く返してそれらを受け取る。

「ごめんね、ジャムしかなくて。直紀、ジャム平気?」

 頷くと、みなは「よかった」と笑ったあとで

「直紀はいつも何塗るの?」

「あー……なんだろ。あんまパンは食べないからなあ」

「ふーん。じゃあ朝は、だいたいいつもご飯?」

「そうだな。だいたいいつも、ご飯とみそ汁」

 言うと、みなは何やら難しい顔になって、「みそ汁かあ」と呟いた。

「じゃあさ、やっぱりみそ汁がいいよね? 朝は」

「いや、べつにパンでもいいけど」

「いいよー、遠慮しないで。みな、頑張るから。明日はみそ汁作ってみるね!」

 その言葉はとても自然に彼女の口から零れて、何も考えないうちに「そっか」と相槌をうちそうになった。

 むしろ、そう出来ればよかったのだ。足首に触れる冷たさを無視して、こうしてテーブルを囲んでみなと向き合っていれば、ここは何もおかしなところなどない、気心の知れた友人の部屋になる。ほんの数日前、みなと駿と、三人で鍋をつついたあの部屋なのだ。

 深刻なものにしたくなかった。俺が冗談だと思ってしまえば、本当にこれはただの冗談になってしまうのではないかと、そんなことを願うように、出来る限り軽い口調で口を開く。

「みな、あのさ」

「んー?」

「合宿終わるまでは、俺、ここにいるから」

 牛乳に伸ばしかけた手を止め、みなが俺の顔を見る。彼女が口を開きかけるのがわかったが、遮って続けた。

「でも、それまでだぞ。合宿終わったら、帰るからな」

 いつも「そろそろ帰る」と告げるときのような何気なさを精一杯その声には込めた。

 みなはまっすぐに俺の目を見据えたまま、「帰る?」と一切の温度を伴わない声で繰り返した。

「帰るって?」

「だから、家に」

「家はここだよ」

 さらりと言い切った彼女の言葉に、感情を押し殺すという努力は、あっという間に崩れ去った。

「……みな、わかってんだろ」

「何が?」

 どんな言葉をぶつけようと決してそれが響くことはない、そんな静かさだけを湛えた表情で、みなが聞き返す。ざわりと、焦燥と恐怖が這い上がるのを感じた。

「いつまでもこうしていられるわけないだろ。落ち着いて考えろよ。お前、捕まるかもしれねえぞ」

 本当に俺の声が聞こえているのかもわからないほど、みなは何の反応も返さなかった。それでも構わず続けた。

「合宿終わったら、駿だって帰ってくるだろ。そしたら、ここにも来るんじゃないのか。なあ、こんなの続けられるわけねえんだよ」

「ああ、そうだ。あのね、駿ね」

 みなは、駿の名前にだけ反応して、思い出したように声を上げた。

「駿からなーんにも連絡ないんだよ。みなの携帯にも直紀の携帯にも。まあ、直紀の携帯はもう繋がらないんだけど。でも直紀、昨日眠る前に電話してたのって駿でしょ? ってことは、駿は知ってるんだよね? 直紀がみなの家にいること。なのに、何も言ってこないの」

 指先が冷たくなる。みなはからかうように笑って、俺の目を見つめてきた。

「ねえ直紀、駿がここに来たとしても、駿は本当に直紀を助けるって、そう思う?」

 頷きたかったが、咄嗟に言葉が出てこなかった。胃がずしりと重さを増し、全身を巡る血液が途端に温度を下げる。

 みなはまるで、聞き分けのない子どもに言い聞かせるかのような、そんな優しさすら含んだ笑顔を浮かべて、「駿はね」と続けた。

「直紀のこと好きだけど、でも、みなのことも好きなんだよ」

 彼女の言わんとすることは、よくわかった。一度引っ込めた手を再び牛乳に伸ばしながら、

「駿のことは、直紀よりみなのほうがよくわかってるよ」

 穏やかな声で、俺の中の頼みの綱をかき消した。


 陽が差し込んでいたのは朝の短い時間だけだった。九時を回ると、みるみるうちに厚い雲が現れ、太陽をすっかり覆ってしまった。

 きっともうすぐ再び雨が降り出すであろう薄暗い空を眺めながら、ぼんやりとテレビから流れる昨日のプロ野球の試合結果を聞いていた。今頃健太郎たちは山の中で黙々と勉強しているのだろうか、と何とはなしに考えたとき、それまでぼうっとテレビを眺めていたみなが、まるで俺の意識が外へ向いたことを読み取ったかのようなタイミングで「直紀」と呼んだ。

「ね、お昼は何食べたい?」

 楽しそうなその声に「何でもいいよ」と返すと、みなはうーん、と呟いたあとで

「あっ、じゃあカルボナーラ作ろっかな」

「みな、そんなの作れんのか?」

「うん、インスタントだけど」

 なんだ、と呟いてまた視線を窓の外へ戻そうとすると、「あ、そうだ直紀」とみなが続けたため、動かしかけた頭を止める。

「みなね、午後からちょっと出かけるね」

「どこに?」

「んー、いろいろと。夕ご飯の買い物とか……あ、そういえば夕ご飯は何がいい?」

 そうみなが尋ねたとき、ちょうどテレビでは麻婆豆腐のCMをやっているところだった。タレントが美味しそうに口に運ぶそれを見ながら、とくに考えることもなく「麻婆豆腐」と言ってみた。みなは困ったように、え、と声を出して

「そんな難しいやつは無理だよ」

「そこまで難しくないだろ。作ったことないからわかんねえけど」

「なにそれー」

 可笑しそうに声を上げて笑う彼女に、つられて笑みがこぼれた。こうすればいいのだと思った。俺が深刻に捉えさえしなければ、きっと深刻なものにはならない。俺がおふざけだと思えば、これはおふざけになるのだ。俺は、そうしたかった。

「とりあえず、麻婆豆腐以外でお願いしまーす」

「てか、だいたい何が作れるんだよ」

「んー、凝ったものじゃなかったら大丈夫だと思う!」

「あー……じゃ、カレーとかなら出来るんじゃね?」

「カレー? あ、でもカレーはちょっとなあ。なんか似てるし……」

「は?」

 彼女はそんなわけのわからないことを呟いたあとで、結局「やっぱりお惣菜買ってくるよ。うん、そうする」と一人で決めてしまった。


 先ほどまでやっていた番組が終わり再放送の連ドラが始まると、みなはそれには興味がないらしく、さっさと立ち上がった。それから靴箱から小さめの脚立を持ってくると、クローゼットを開いて、脚立に上り何やら大きな布団のようなものを引っ張り出した。ぐらりと脚立が不安定に揺らぐのを見て、慌てて俺も立ち上がると、みなの手からその布団を受け取る。

「なんだこれ」

「こたつ布団。直紀、昨日寝づらかったでしょ?」

 脚立から降りながら、みなは言った。

「でも来客用の布団とかないから、これ床に敷こうかと思って。あ、ていうか、みなが床に寝るから直紀ベッド使っていいよ」

「いや、いいよ。俺が床で」

「いいっていいって。ベッド使いなよー」

 みながこういうときに頑として譲らないということはわかっていたが、俺もこの提案にはどうしても頷くことはできなかった。

 結局、お互いに引かず埒が明かなかったため、じゃんけんをして勝ったほうがベッドに寝るということにして、じゃんけんをした。結果、ベッドはそのままみなが使うことになった。


 カルボナーラを食べ終わると、みなは言っていた通り、Tシャツの上にパーカを羽織り下はジーンズに穿き替えてから出かけていった。

「じゃ、いってきまーす」

 部屋を漁るなだとか大人しくしていろだとか、そういった類のことは何も言わず、ごく自然にそれだけ言うと、みなは玄関から出て行った。

 みながいなくなった途端、足裏に触れるフローリングがひやりと冷たさを増したような気がした。

 おかしな感覚だった。自分をこの部屋に拘束した張本人がいなくなった今のほうが、俺には恐ろしいもののように思えた。強固な足枷だけが残された部屋に、今はこの狂気じみた状況から目を背けるためのものが何一つない。

 繋げられた鎖は部屋の中を歩き回るには十分に足るほど長い。しかしそれは、玄関の土間に足を着くには僅かに足りない、絶妙な長さだった。

 しゃがんで、足首を眺めてみる。みなの言っていたことは本当らしい。足枷には鍵穴があり、どれだけ引っ張ってみても硬い鉄はびくともしなかった。


 では鍵はどこにあるのだろう、とふと考えた。探してみようかとも思ったが、手錠が外れた今、足枷は俺をこの場に繋いでおく唯一のものだ。それを外すための鍵を、みなが果たしてこの部屋に無防備に置いて出かけるだろうかという考えに至り、すぐに気持ちが萎えた。

 それに、みなの部屋を勝手に引っかき回すのに気が引けたのも本当だった。こんな状況で、未だにそんなことを気にしている自分を笑いたくなったが、昨夜は身動きすら封じていた手錠を今朝みなが外したということが、みなの俺への信用を語っているように思え、それを裏切ることを躊躇わせた。


 結局、俺はじっと窓際に座り、降り出した糸のような雨をただ眺めていた。窓を開けると、吹き込んだ涼しい風が頬を撫でる。風と一緒に、細かな水滴も顔に触れた。

 ふいに下へ目をやると、自転車に乗った年配の女性がアパートの前の道路を横切ったところだった。

 そこまで込み入った場所にあるわけではないこのアパートの周辺は、わりと人通りは多い。もし俺が大声で助けを求めたなら、誰かが聞きつけてくれるかもしれない。しかし俺は、自分がそんなことをする気などないことにも気づいていた。

 もしも、自分を拘束しているのが見知らぬ赤の他人だったなら。それか、大嫌いな憎むべき人間だったなら。きっと俺は、すぐにでも声の限りに叫んで助けを求めただろう。だけど、みなは、違う。友達だった。一緒に笑っていた時間は、まだ思い出とも呼べないほど鮮やかなものなのだ。

 俺が助けを求めれば、その瞬間にみなの異常さを肯定してしまう。俺が、みなを犯罪者にしてしまう。馬鹿だと思う。それでも俺は、今ですら、みなの保身を考えていた。

 今は、家族は俺は合宿に行っていると思っている。学校は、俺は家にいると思っている。とりあえず合宿が終わるまでは、俺がみなの家にいることが問題になることはないだろう。

 しかし、そのあとはどうなるのか。俺が合宿に行っていなかったと知ったら、両親はどうするのだろう。警察に連絡したりするのだろうか。

 嫌な想像は、すぐに頭から追い出した。とにかく、俺が自分でどうにかしなければならないと思った。誰にも知られることなく、合宿が終わるまでにここから逃げ出す。みなを、説得する。

 そう決心はしたものの、果たしてそんなことが出来るのか、情けないほど自信は持てなかった。


 

 静かに地面を濡らしていた雨が本降りになった頃、みなは帰ってきた。

「ひゃー、濡れちゃった」

 という声が玄関から聞こえてきたため、立ち上がり玄関のほうへ歩いていくと、みながビニール袋を二つ提げて立っていた。

 何気なく「おかえり」と言ったときだった。彼女はどこかきょとんとした顔で俺を見つめた。一拍置いて、その顔はひどく嬉しそうにぱっと輝く。

「ただいま!」

 弾んだ声でそう返したみなの髪の先から、雫が滴った。

「傘、持っていってなかったのか?」

「んー、折りたたみ傘持っていってたんだけど、小さかったから結構濡れちゃったー」

 へらっと笑って、みなは靴を脱ぐと部屋に上がった。テーブルにビニール袋を置きながら、彼女は「あ、そういえば」と出し抜けに声を上げた。

「直紀、クローゼットの中とか机の引き出しとか見てないよね?」

 そう尋ねる声に冷徹な響きなどはなく、ただ恥じらうような色があった。

「何も見てないって」

「そっか。よかったー」

 みなはほっと息をつくと、はにかむように笑った。


 夕飯は、みなが買ってきた出来合いの麻婆豆腐を食べた。その後、半分駄目もとで風呂に入りたいと言ってみると、彼女は思いの外快く了承した。とは言え、足枷を外してくれることはなかったが。そのせいで湯船につかることは叶わなかったが、体を流せただけでも随分とさっぱりした。

 風呂からあがったあとは、合宿に持って行く予定だった学校指定のジャージに着替えた。みなも風呂に入ったあとは、二人で他愛のない話をしながらテレビを観ていた。それは本当に、これまで過ごしてきたみなとの時間と、何も変わらないものだった。


 やがて、じわじわと睡魔がやって来た。こくりと何度も首が揺れ始め、その度みなに肩を叩いて起こされた。十一時半を回った頃、ついに睡魔は本格的なものになって、

「なあ、そろそろ寝よう」

 と提案してみた。みなはなぜか焦ったように「えっ」と声を上げて、

「待って。もうちょっと。あと三十分は待って」

 今やっている番組が終わるまでは待ってということだろうか、と思って、「わかった」と欠伸をかみ殺しながら答えた。

 目の前のテーブルに突っ伏そうとすると、みなにすぐに肩を掴まれて、やや乱暴に揺すられる。仕方なく再び顔を上げて「なんだよ」と尋ねると、

「寝ないでよー。あと三十分は起きてて」

「なんで。いいよ、俺テレビ点いてても眠れるし。みなはまだ起きてていいよ。俺、先に――」

「駄目だよ。直紀もちゃんと起きてて」

 存外に強い口調で言い切られ、仕方なく体を起こす。幾度となく意識を夢の中に飛ばしながら、ぼんやりと画面を眺めていた。

 やがて、番組は終わった。変わって、画面には代わる代わるCMが流れる。それでも、みなはまだ動こうとしない。何やら身を乗り出して、なにか待ち望むかのように画面をじっと見つめていた。


 CMが途切れ、画面にキャスターの姿が映し出される。零時になりました、とキャスターが機械的に告げたとき、みながいきなり体ごとこちらを向いた。

 驚いて、俺も思わず居住まいを直す。みなはふわりと微笑んだ。ひどく幸せそうな、満ち足りた笑顔だった。

「誕生日おめでとう。直紀」

 

――そういえば、今日は十一日だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る