第11話 鎖
『だって、使ってたらいつか汚れちゃうでしょ。
本当に気に入ってるものは、汚したくないもん』
――大事に、しまっとくの。
まず感じたのは、頬に触れる無機質な冷たさだった。
まだ重たい瞼を無理矢理に持ち上げれば、飛び込んできた蛍光灯の光が眩しくて、思わずまた目を閉じる。
目をこすろうと右手を動かしかけたときだった。不気味なほど冷たい感触が、そこにあった。がしゃ、と鈍い金属音が耳に届く。同時に、持ち上げようとした右腕がその位置に引き止められる。
途端、まどろんでいた意識が急速に覚醒した。
ぼやける視界に映ったのは、小さな白いテーブルとその脇に置かれたテレビだった。少し視線をずらせば、オレンジやピンクのカラフルな水玉模様のカーテンが掛けられている。
見知った部屋だった。もちろん、この部屋の主も。
「あ、やっと起きたー」
聞き慣れたその声が耳に届いた瞬間、どのくらい前のことなのかわからないが、途切れる直前の記憶が頭に流れ込んできた。
呆然としたまま、後ろで組んだ状態から動かせない自分の両腕へ目をやる。
そこには、ニュースやドラマの中で目にしたことしかない無骨な金属製の手錠が、頑なに手首に巻き付いていた。手錠は固定されたベッドの足と繋がっている。
その光景を理解するのには少し時間がかかって、俺はしばらくぼうっと自らの手首を眺めていた。ベッドの足に繋がれている金属は一つではなかった。もう一つ、細い鎖が伸びる手錠のようなものが巻かれている。その鎖を目で追うと、すぐに見つかった。さっきまでは気づきもしなかった左の足首に触れる金属が、急に体の芯まで染み入るほどの冷たさを生む。足枷だった。
愕然としたあとに訪れたのは、激しい混乱だった。
「みな――」
意図せず喉から溢れた声は、掠れていた。ぶつけたい言葉がありすぎて、何を選べばいいのかわからない。
ベッドに腰掛けていた彼女が立ち上がり、こちらへ歩み寄る。俺の前に屈むと、視線の位置を合わせた。みなは、にこりと笑った。それは見慣れた彼女の笑顔で、余計に俺を混乱させた。
「直紀、ぜんぜん目覚まさないんだもん。ちょっと心配になっちゃったよ。睡眠薬って思ったより効き目すごいんだねえ」
睡眠薬、と呆けたようにその言葉を繰り返す。
部屋を照らすのは蛍光灯だけで、きっちりとカーテンが引かれた窓から差し込む光はまったくない。今が夜なのだと理解したとき、すうっと全身から熱がひいた。
「なん、だよ、これ。みな、お前、何やって――」
「あっ、大丈夫だよ」
俺の言葉を遮って、みなはひどく軽い口調で言った。
「学校にはちゃーんと連絡入れといたから。直紀は具合悪いので合宿行けません、って」
場違いに明るい声で、彼女は的はずれなことを話す。違う、と言おうとしたが、喉が引きつりうまく声が出せない。
「みなね、声真似うまいんだよ。直紀のお母さんっぽい声で電話したら、先生あっさり信じちゃった。すごいでしょー?」
「なん……なんで、だよ」
なんとかそれだけ口にすると、目の前のみなの笑顔が微かに冷ややかな色を帯びる。
「直紀、粟生野さんと一緒の班なんでしょ? やだよ、そんなの。そんな合宿、行かせたくない」
そこには、僅かな、しかしはっきりとした憎しみが滲んでいた。
その言葉に、おぼろげだが彼女の行動の理由が見えたことで、混乱していた頭が少し落ち着く。
「……それで、みなが紅茶に薬入れて、俺が眠ってる間にこれやったのか」
少しずつまとまってきた思考をさらに整理しようと呟けば、みなは「そうだよ」とひどくあっさりとした調子で肯いた。
「ゴキブリが出たって話も、嘘だったのか」
「うん」
何でもないことのようにどこまでも軽く答えるみなに、思わず言葉につまる。
みなは、ふふっと楽しそうに笑うと
「みなね、もし今日直紀が来てくれなかったら、この先もこんなことしなかったかも。決めてたんだ。今日、ゴキブリが出たって言ってみて、それで直紀が来てくれたら、もう捕まえちゃおうって。だけどね、多分みなわかってたんだよ。直紀は来てくれるってことくらい。――直紀は、本当に、優しいね」
最後の言葉を紡ぐときだけ、楽しそうな子どもっぽい笑みが、すっと大人びたものに変わった。
今いるのは見慣れた部屋で、側にいるのも見慣れた人物なのに、強固に両手首と左の足首に巻き付く鉄の感触が、すべてを俺にとって余所余所しいものに変えている。
足下に伸びている鎖を見下ろして、こんなものどこで手に入れたんだろう、などとぼんやり考えていると、
「それ、すごいんだよ。鍵付きなの。手錠も、足枷も」
と、出来れば知りたくなかったことをみなは教えてくれた。これが悪戯などではないことを、その言葉は突きつける。もっとも、勝手に合宿を休まされた時点で、悪戯の域はとうに越えている。
手錠も足枷も、いったいどこ売っているのかもいくらするのかも見当なんてつかない。それでも、少なくとも安い買い物ではなかったはずだ。触れるのは、紛れもない頑丈な鉄だ。おふざけだと言ってくれるような、安っぽさや軽さは微塵もない、何をしても揺らぎそうもない重たさだけを持った鉄の感触だった。
「……とりあえず、これ、とれよ」
みなが頷くはずもないことはわかっていたが、喉からは言葉が溢れていた。
みなは少し首を傾げて、笑う。「やーだよ」と当たり前のように、ぞっとするほどの軽さで答えた。
「だってとったら、直紀、逃げちゃうもん」
「……逃げない、から」
「なんで? なんで逃げないって言えるの? 直紀、みなのことなんて好きじゃないでしょう」
その語尾は、疑問ではなくはっきりと断定の形をとっていた。
「そんなわけないだろ。好きに決まって――」
「愛してる?」
これまでの口調とまったく同じ軽さで、彼女は質問を重ねた。
俺が言葉につまった一瞬だけで、すべてわかっているとでも言うように、みなは、ふ、と口元に笑みを刻んで目を伏せる。「直紀は」独り言のような調子で、続けた。
「けっこう嘘はつくけど、こういうときはつけないんだよね」
俺のことなのに、まるで俺よりもよくわかっているように彼女は言う。
何も言えなくなってしまい、俺も彼女に倣って視線を下へ落とす。そこには相変わらず、無骨な鉄があった。
テレビも点いていない部屋は、当然俺もみなも黙れば完全に静まりかえる。窓を叩く雨の音だけが、やたらと大きく部屋の中に響いていた。
規則的な雨音の間に、唐突に連続した電子音が割って入った。俺の携帯電話の着信音だった。それは三秒ほど続いたあと、すぐに途切れた。
音の源を目で辿ると、部屋の隅に俺のボストンバッグが置かれていた。みなも電子音に反応して、バッグへ目をやった。それからすっと立ち上がると、バッグの脇にしゃがみ、無遠慮にそのファスナーを引く。
「おい、みな」
咎めるように名前を呼んでも、彼女は聞こえない振りをして、中を少し漁ったあとで携帯を取り出した。「みな」ともう一度呼んでみたが、彼女は気にする素振りも見せず、その携帯を開き中を確認する。無表情にディスプレイを見つめながら、
「刈谷健太郎……ああ、あの人か」
と小さく呟いた。
そのメールを俺に見せてくれる気はないらしく、その場から動こうとしないみなに
「なんて?」
と尋ねてみる。みなは、完璧なまでに表情を剥ぎ落とした顔で、こちらを見た。
「気になるの?」
いやに起伏のない声だった。いささか憮然として「そりゃ、俺へのメールだろ」と返せば
「たいしたことないよ」
と至極あっさりとした調子で彼女は切り捨てた。それ以上の反論は許さないほどの淡泊さだった。
彼女の言葉に俺が言葉を失った直後、みなの手にある携帯のランプが点灯し、少し遅れてまた電子音が響く。それに反応して、我が物顔で携帯を操作するみなの顔が、さっと強ばるのがわかった。
「……粟生野さんからだ」
ぽつんと呟き、しばらくディスプレイを眺めたあと、いきなり彼女は乱暴に携帯を閉じた。
立ち上がり、携帯を掴んだままキッチンのほうへ歩いていく。ごとん、とステンレスの上に何かを落とした音が響いたあと、続いて蛇口から勢いよく流れ出る水音が聞こえてきた。
ぎょっとして、「みな?」とキッチンのほうへ声を投げる。答えは返ってこなかった。たっぷり三十秒ほどたってから、ようやく蛇口を捻る音が聞こえて水音が止まる。それから少しして、みなが部屋に戻ってきた。
俺と目が合うと、一切の表情が消えていた彼女の顔に、にこりと笑みが刻まれる。ひどく歪んだ笑顔だった。
「もう、いらないよね?」
何を言われたのかわからずぽかんとする俺に、「携帯」と彼女は付け加えた。
「だって直紀は、もう、みな以外の人と話す必要なんてないんだもん」
見ると、みなの手にすでに俺の携帯はない。
ぞっとするほどの冷たさが背中を這い上がるのを感じた。
本気なのだと、嫌になるほど彼女は告げていた。芯から濁った、しかし恐ろしいほどに無邪気なその笑顔は崩すことなく、彼女はゆっくりとこちらへ歩み寄る。「うん、そうだよ」と自分の言葉を確認するように、彼女は呟く。
「直紀はみな以外とはもう何も話さない。みな以外は見ない。みな以外には、触れない」
まるで呪文のように、奇妙なほど平坦な声でみなは囁いた。
彼女は再び俺の前にしゃがむと、俺の足首に巻かれた足枷を愛おしげな仕草で撫でる。反対の手はすっと上がって、俺の頬を包み込むように触れた。
ここへ来て、初めて触れた彼女の体温は、場違いなほど温かかった。しかしその温もりは、少しも体の奥へ染み入ることはなく、その場で行き場を無くしたように立ちつくす。
「直紀は、ずうっとここにいる。みなの傍にいる。もう、どこにも行かないんだよ」
自分へ言い聞かせるように呟くみなの肩越しに、棚に並べられた小さな箱が見える。先日、みなに見せてもらった、箱の中で丁寧に保管されたままのマグカップの姿が瞼の裏に浮かんだ。
本当に気に入っているものは汚したくないのだと、彼女は言った。
「もう、誰にも触らせない。誰にも見せない」
足枷に触れていた彼女の右手が、ふいに床に置かれている俺の左手に重なる。頬に触れていた左手は、彼女が体をこちらへ寄せるのに合わせて、僅かに後方へ移動して耳にかかる髪をそっと撫でた。その動作はとても愛おしげで、しかしどこか無機質だった。目を逸らすこともできないまま、息がかかるほど近くにあるみなの見知らぬ笑顔をただ見つめていた。
やがて、唐突に彼女は目を閉じた。重ねられていた彼女の右手に、ふいに力がこもったかと思うと、その手は俺の左手を握りしめる。それと同時に、唇に冷たい柔らかさが触れた。
――大事にしまっとくの。
数日前に聞いた彼女の声だけが、頭の中に響いていた。
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