第10話 目眩
空には厚く真っ黒な雲が浮かんでおり、それらが陽の光を完全に遮っていて、辺りは薄暗い。
そう時間が経たずとも雨が降り出すことはわかっていたが、やはり合宿中傘を持ち歩くのを面倒だと思い、折りたたみ傘を鞄に突っ込んでから家を出た。
篠野高校は街中にあり、高校の近くに何台ものバスを停車しておく場所がないため、集合場所は広原駅前ということだった。
集合時間は九時なのだが、俺が家を出たのは八時前だった。それは、昨夜送られてきたみなのメールのためだ。
Gが出た、というひどく簡潔なメールだった。ボストンバックに着替えを詰め込む手を止めて、『Gって?』と返すと、一分も間を置くことなく『ゴキブリ! もうやだやだ、どうしよう』と混乱している様子のメールが返ってきた。
どうしようと言われても、と思いつつ、『殺虫剤ないのか?』と送ってみた。
『あるけど、無理。Gって飛ぶんだよ。恐いもん。ねえ直紀、明日広原駅に集合でしょ。駅行く前にみなの家寄ってくれないかなあ? お願いお願い』
一人暮らしってのはこういうときも大変なんだな、と思いながら『いいよ』と返した。また一分もかかることなく、『よかったー! ありがとう! 直紀大好き!』というたくさんのハートマークで飾られたメールが送られてきた。
どんよりとした灰色の空と合わせて、湿気のある風は腕や顔にまとわりつくようで、いつもより体が重たく感じるほどだった。
たしかにこんな中で勉強するなんて余計に憂鬱だな、と前に聞いた駿の言葉を思い出しながら歩いた。広原駅に着いた頃から、今にも泣き出しそうだった空は、それでも、みなのアパートに着くまではなんとか踏みとどまっていた。
そのピンク色のアパートの階段を上るのは三度目だった。
階段の向こう、並んだ二つ目のドアの前に思いがけなく人の姿が目に入って驚いた。みなが、玄関の扉の前に座り込んでいた。彼女は俺を見つけても、しばらく動かなかった。ひどく静かな目で、ただ、こちらを見ていた。
数秒の後、鮮やかなほどの切り替えの早さで、ぱっと顔を輝かせると
「直紀!」
と大声で名前を呼んだ。
「待ってたよー」言いながら、早足でこちらへやってくる。
「何やってんだ? こんなとこで」
「だって、Gがいるんだよー。こわくて、中には居られないよ」
「べつにゴキブリは何もしないだろ」
言うと、みなはいきなり「わああ、やめてー!」と声を上げて両耳を塞いだ。
「その名前聞くだけで気持ち悪いの!」
なんだか、ゴキブリが気の毒に思えるほどの嫌われようだった。
「とりあえず入ってー」とみなに促されて玄関の扉を開ける。俺のあとに着いてみなも中に入った。
「昨日の夜はどうしてたんだ? まさかずっと外にいたわけじゃないよな?」
「さすがにそれはないよ。電気点けっぱなしでびくびくしながら寝てたよ。ほとんど寝られなかったけど」
とりあえず部屋を一通り見渡してみたが、それらしき影は見あたらない。まあゴキブリがそんなにいつまでも人目に付く場所をうろうろしているはずはないか、と思い、ベッドや冷蔵庫の下やら棚と棚の隙間などを覗き込んでみる。
「んー……いないなあ」
「えっ、でも、絶対どこかにいるはずなんだよ。昨日はいたんだもん」
「もう出てったんじゃねえの? そんな、いつまでも同じ場所にはいないだろ」
「えー、そうなのかなあ……」
まだ落ち着きなく辺りをきょろきょろと見回しているみなに、「絶対そうだって」と根拠のないことを力強く言い切ってみる。
「本当にー?」
「本当本当。てか、どうせ今日から合宿なんだし、いいじゃん」
そう言ったあとで、ふと、部屋の中に合宿用の大きなバッグなどが見あたらないことに気づいて「あれ」と声を上げる。
「みな、合宿の準備、ちゃんとしたか?」
みなは一瞬、何を言われたのかわからない、というような妙な顔つきになった。一拍置いてから、彼女は思い出したようにへらっと笑う。
「あー、まだしてない。昨日はGのせいでそれどころじゃなくて」
「今からで間に合うのか? 急がないとやばくね? 集合、九時だぞ」
「大丈夫大丈夫。みな、準備は早いから」
そう言うと、みなはキッチンへ向かった。何やらカチャカチャという音が聞こえてきたあと、すぐに彼女はマグカップを手に戻ってきた。すでに用意してあったかのような早さだった。それは「はい、どうぞー」と言って俺の前に置かれた。とりあえず「さんきゅ」と返したあとで
「いいから、早く準備しろって」
「うん。直紀が紅茶飲んでる間に終わらせるからー」
みなの言葉に、「紅茶?」と聞き返しながら、訝しげにほとんど真っ白な液体が注がれている目の前のマグカップを覗き込む。
「これ、紅茶なのか?」
「うん、特製ミルクティー! おいしいよ、飲んで飲んで」
言いながら、みなはクローゼットを開けて中を漁り始めた。目の前に置かれたマグカップに取っ手がないのに気づいて少し寂しくなりながら、一口啜ってみたあとで、口の中に広がった驚くほどの甘ったるさにすぐに口を離す。
「あっま! なんだこれ、どうやって作ったんだよ」
「砂糖大さじ一杯に、牛乳四割。ついでにシロップも入れてみた! おいしいでしょー?」
聞くんじゃなかった、と思った。みなの言葉を聞いた途端、余計に口の中に残る甘みが増したような気がする。さっきの俺の反応のどこからそう考えたのかわからないが、彼女はにっこりと満面の笑みでそんなことを聞いてくる。とりあえず
「砂糖だけで充分だったと思う」
と抗議しておいた。
せっかく作ってくれたものに手をつけないのも悪いため、飲めるだけ飲んでみようと、その紅茶の味など微塵も残っていないミルクティーをちびちび啜っていると
「ねえ直紀、合宿って何泊だったっけ?」
という間の抜けた質問が飛んできた。出発日の朝にする質問じゃないだろ、と思いつつ「三泊」と答える。
「じゃあ、三日分の着替え持って行けばいいんだよね」
などと呟きながら小さめのボストンバックをようやくクローゼットから引っ張り出したみなを見ていると、ふいに心配になって
「着替えだけじゃなくて、勉強道具も忘れんなよ」
「え? あ、そっか、勉強合宿なんだったね。そういえば」
頭の痛くなる言葉が返ってきた。
ミルクティーを半分ほど飲み終えたときだった。舌の上に、かすかに妙な味が残った。他のどんな味もかき消してしまうほどの強烈な甘みの中、紅茶の苦みとは違う、辛いような酸っぱいような、不思議な味が混じっていた。
え、と思ってカップの中を覗き込む。だが、訝しむより先に鞄の中から電子音が聞こえてきて、あわててカップを置いて鞄に手を伸ばした。
携帯を開くと、ディスプレイには駿の名前があった。
通話ボタンを押すと、俺が何か言うより早く、
『なあ、マジありえねえって。なんかいきなり電車止まってさあ』
といきなり苛ついた声が聞こえてきた。
「は? 止まった?」
『なんかさあ、四十分くらい動けねえとか言ってんの。集合、九時じゃん。絶対間に合わねえって、これ』
電話越しに、ざわざわと騒々しい様子が伝わってくる。
「なに、人身事故?」
『いや、なんか車が線路に置いてあったらしい。それにちょっとぶつかったらしくて。うぜえよなあ』
どうやら駿は、突然に電車が止まった苛々を愚痴るために電話してきたようだった。駿の話を聞きながら、壁に掛かっている時計に目をやる。そろそろ八時四十分を指すところだった。
「でもさ、そういうことなら学校も集合時間遅らせるんじゃね? 大丈夫だって」
『それがさあ、俺以外に篠野のやつら見あたらねえんだよ。みんな一本前の電車で行ったっぽくてさあ』
あー、と時計を眺めたまま呟く。たしかにそうだろうと思った。駿の乗っている電車は、定刻通りに着いたとしても着くのは八時五十分を過ぎる。おそらく、余裕を持って一本早い電車で行った生徒は多いだろう。
『みんなすげえよな。こういう事態も予測してたんだなー』
「そうだなあ。じゃあ、一応学校に電話しといたほうがいいかもな。あ、それか、俺が言っとこうか。俺もう広原だし」
『いいや、俺もうここで降りてバスで行くわ。つーか、なんだよ、直紀もちゃんと一本早い電車で行ったのか』
「ああ。みなが駅行く前に家に寄ってくれって言うから」
『は? なんで』
「なんか、昨日の夜ゴキブリが出たから、怖いって」
言うと、『ゴキブリー?』と電話の向こうで駿が笑うのがわかった。
その声が耳に届いた瞬間だった。突然、視界がぐにゃりと歪んだ。意思とは関係なしに、視線が床へ落ちる。駿が言葉を続ける。だが耳に当てた携帯から聞こえるその声は、ひどく遠くから響いてくるようだった。
『みな、ゴキブリが怖いとかいうタマかよ。今までも何回かゴキブリ出たけどさあ、あいつ、平気で新聞紙でぶったたいてたけど』
聞こえたのは、そこまでだった。
暴力的なまでの睡魔が、携帯を握る手から力を奪う。かつんと音を立てて携帯が床にぶつかった。唐突に体が安定を失い、咄嗟に俺は左手を床についた。ぐらぐらと激しく揺れる視界に、白い手が入り込んできたかと思うと、床に落ちた携帯電話を拾い上げる。わけがわからないまま、その手を追って顔を上げた先には、みなの、ぞっとするほど無邪気な笑顔があった。
つーかまえた。
歪む視界で、彼女の唇がそう動くのだけがはっきりと見えた。
すべてが遠くなっていく中、最後に、雫が窓を叩く音を聞いたのを覚えている。
いつの間にか、雨が降り出していた。
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