第9話 幸せ

「つまりー、あれだよね。鳥の雛が、一番最初に見たものを親だと思いこんで、ずうっと追いかけるってことでしょ?」

 バイトが特別忙しかっただとか数学の小テストがあっただとかで、結局みなが生物の勉強をしてきて俺がテストをしたのは、みなの提案を受けた一週間後のことだった。

「そうそう」と頷いてから次の問題に移ろうとすると、みなが興味深そうに

「でも面白いよね。これって、もし鳥の雛が一番最初に犬を見ちゃったとしたら、その犬を親だと思っちゃうんだよね?」

「そうだろうな」

「刷り込みって、鳥だけにおこることなのかな? 人間はそういうことないの?」

「さあ。人間はないんじゃねえの? てか、みなが俺に聞くのはおかしいだろ。生物習ってんのはみなだろ」


 食堂はだんだんと人が増え、騒がしくなってきた。

 今日は、前日に俺のほうから昼飯を一緒に食べようとみなを誘っておいた。理由は思い当たったらしく、みなは何も聞かずに、嬉しそうに了承した。

 ここ最近は忙しいということで一緒に昼飯を食べることが滅多になくなっていた駿も、今日は食堂で俺たちと一緒に食べるということだった。

 四限目の授業がやたらと早く終わったためまだ人がまばらだった食堂に行くと、同じく授業が早く終わったらしいみなが待っていた。だが一組の授業は長引いているようで、駿はまだ姿を見せないため、俺たちは、みながちゃんと生物を覚えてきたかどうかのテストをしながら彼を待っていた。

「ね、でもみな、刷り込みのことはちゃんと覚えてきたでしょ? 褒めて褒めて」

「え、まさかそれしか覚えてきてないのか?」

「まあ、ほら、昨日はバイトだったし。でも、刷り込みのことはバッチリだったでしょ? ね?」

「……まあいいか。えらいえらい」

 そんな素っ気ない言葉でも充分だったらしく、みなは「えへへ」と満足げに笑った。


「じゃあ、これもご褒美な」

「へっ?」

 財布と一緒に持ってきていた小さな紙袋をテーブルに置いてみなのほうへ差し出す。

 彼女はきょとんとして紙袋と俺の顔を交互に見ていたが、「誕生日おめでと」と言うと、はっとしたように目を見開いた。

 一拍置いて、その顔はみるみるうちに激しい歓喜に満ちる。呆けたように紙袋を見つめていたみながぱっと顔を上げたかと思うと、彼女はいきなりこちらへ手を伸ばした。

 その手は紙袋を通り過ぎ、俺の眼前に迫ったかと思うと、そのまま頭の後ろへ回る。みなが身を乗り出した拍子に、四人がけのそのテーブルががたんと揺れた。

「ちょっ、みな……」

「やだもう、どうしよう。直紀大好き」

 みなの感極まった声が、頬を彼女の髪が撫でるのと同じように耳をくすぐった。

 彼女はそれだけ言うと体を離し、今度は、大袈裟なほどそうっとテーブルの上の紙袋を持ち上げた。

「ありがとう、直紀。これ、なあに? 開けていいかな? あ、でもやっぱり、開けるの勿体ないなあ」

「なんで。開けないとどうしようもないだろ」

「うん、でも……やっぱり、家に帰ってからにする。静かなとこで落ち着いて開けたいもん」

 そう言うと、みなは紙袋をガラス細工でも扱うかのように繊細な動作で抱き締めて、へへ、と笑みをこぼした。

「嬉しいな。直紀、ほんとにありがとう」

 その笑顔は本当に幸せそうで、こちらまでじんわりと胸が暖かくなった。


 それからしばらくして、駿が姿を見せた。みなは駿を見つけるなり、待ちきれないように名前を呼んで、「じゃーん!」と言って自慢げに紙袋を掲げた。

「見て見て、プレゼントもらっちゃった! さっすが直紀でしょー」

「マジか。さっすが直紀だなー」

 駿は興味深そうにみなの手にある紙袋の中を覗き込んだ。

「何もらったんだよ」

「まだ見てない。家に帰ってから、ゆーっくり開けるの」

 駿は、ふーん、と言ってから

「まあ直紀のことだから、これくらいさらっとやるだろうとは思ってたけどさあ」

 などと呟きながら感心したように俺の顔を見ていた。妙に恥ずかしくなって

「駿は何もあげないのか? みなに」

 と尋ねてみた。

「あー、じゃあ俺、昼飯おごってやるよ」

「本当に? やった、やった。じゃあついでに、直紀の分もね!」

 みなの言葉に驚いて、「いや、それは悪いって」とあわてて言ったが、

「べつにいいけど。直紀の分もおごってやるよ」

 と、駿はさらりと言った。

「いやいや、それはおかしいだろ。俺、別に誕生日じゃないし」

「いいじゃねえか。どうせ直紀の誕生日、合宿中だろ」

「や、でもさ……」

「つーか、俺がいいって言ってんだから、大人しくおごってもらっとけよ」

 そうばさりと言い切られ、それ以上は何も言えなくなってしまった。

 それでも、どうしても自分が駿に昼飯をおごってもらう理由が納得できなかったため、最初食べようかと考えていた唐揚げ定食はやめて、ざっとメニューを眺めた限り一番安かったわかめうどんを頼んだ。

「ったく、直紀は本当に……」

 遠慮しなくていいのに、と言う駿に、今日はうどんが食べたい気分だったから、と首を振ると、駿が小さくそう呟くのが聞こえた。


「ね、明日どうしよっか?」

 久しぶりのお肉だ、と嬉しそうに言ってから唐揚げを美味しそうに頬張りながら、みなが唐突に言った。

 何を言われたのかわからず「明日?」と聞き返しそうになったとき、思い出した。みなの誕生日の翌日、パーティをしようと予定していたのだった。

 俺が一瞬妙な表情をしたのに気づいたのか、みなが眉を寄せた。

「直紀、まさか忘れてた? なんか予定入れちゃったりしてないよね?」

「いや、大丈夫。忘れてないって」

「あれ? でもみな、お前、明日バイトじゃねえの?」

「そうだけど、でも一時までだから大丈夫だよ」

 その後、みなの「しゃぶしゃぶが食べたい」というリクエストに特に反対意見が出なかったため、明日のメニューは決まった。

 場所もとくに迷うこともなくみなの家ということになり、二時に広原駅に集合して、それから買い物をしてからみなの家へ向かうという手筈になった。



 その日はすがすがしいほどの青空だった。梅雨入り前の貴重な晴れ間だと、朝の天気予報は言っていた。

 ちょうど二時に着く電車があったため、それに乗って広原駅に向かうと、すでにみなと駿が待っていた。

 どこか違和感があると思えば、二人とも当然ながら私服姿のためだった。かなり長い時間を一緒に過ごしているが、二人と休日にこうして会うのはそういえば初めてだということに気づいた。

 最近では、健太郎よりもむしろこの二人と一緒に居る時間のほうが長くなってきたように思う。そのおかげで、健太郎は桜さんとより長い時間一緒に過ごせるようになったようだし、これはとくに問題はないというか、むしろ良いことのような気もした。


 駅からみなのアパートへ向かう途中、スーパーに立ち寄った。

 白菜やら豆腐やらをカゴに入れていったあと、メインの牛肉の前で立ち止まったとき、はあ、とみなが大袈裟にため息をついた。

「直紀も駿も、普通に牛肉買おうとするあたり、なんだかんだ言ってお金持ちだよねえ。まあ、先生の家の子どもだしね、二人とも」

 そう言うと、買い物カゴを持っている駿の腕をぐいと引いた。

「牛肉なんてもったいないから、豚肉でいいんだよ」

「はあ? しゃぶしゃぶっつったら牛肉だろ」

「豚しゃぶって料理もあるのー。だいたい、豚肉も牛肉も味はたいして変わんないんだから、安いほうでいいんだよ。もったいないでしょー」

 ときどきそんな言い合いをしながら、買い物を済ませた。

 みなは、まるで主婦のような堅実さで商品を手に取っていった。あらためて、彼女が一人暮らしをしているという事実を感じた。

 また少し胸が痛んで、気づいた。みなのこんな堅実さが切なく感じるのは、きっとそれは、まるで今まで彼女が一人で生きてきたかのように思えるからだろう。


 夕食の時間にはまだ早かったが、この辺りには遊ぶところもないし、かと言って街へ繰り出すには微妙な時間だったため、結局みなの家でだらだらとテレビを観ながら過ごしていた。

 ふと視線を上げた先に、見覚えのある小さな箱があり、「あれ」と声を上げた。

 それは、昨日俺があげたものだった。その箱自体にはとくに価値はない。中に入っていたマグカップを保護するためのもので、マグカップを取り出したならあとは用のない入れ物だ。それが、小さなぬいぐるみやキーホルダーの並んだ棚の一角に、でんと置いてある。

「あの箱、マグカップが入ってた箱だろ。なんで箱なんかとってんの?」

 何とはなしに尋ねると、みなはきょとんとして

「え? 箱をとってるわけじゃないよ。ちゃんと中身入ってるよ」

 そう答えながらみなは立ち上がると、箱を持って戻ってきた。そして、「ほら」と言って箱の中身を見せる。そこには、先日桜さんたちと選んだ縞模様のマグカップが、動かした形跡もなく綺麗に横たわっていた。

「え、もしかして気に入らなかった?」

「まっさか! すっごく可愛いよー、これ。気に入ったよ」

「じゃあ、俺としては使ってくれると嬉しいんだけど」

「やだよ」

 存外にきっぱりと言い切られ、面食らう。

「汚れちゃうの嫌だもん。割っちゃったりしたら大変だし。大事にしまっとくの。それでね、時々こうして箱開けて眺めて、ほくほくするの」

 みなはそう言って、幸せそうな笑みを浮かべる。それは、何の裏もない真っ白な言葉だった。

 みなの言い分はわからなくもなかったが、それでもマグカップとは飲み物を注ぐための物で、出来ればその状態のそれが見たかった。なんとなく釈然とせずに眉を寄せていると

「お前、前からそうだよな。本当に気に入ったやつは、使わないでしまっとくんだよな。服でも鞄でも靴でも。俺はいまいち理解できねえけど」

 と、横から駿がため息混じりに言った。

「だって、使ってたらいつか汚れちゃうでしょ。本当に気に入ってるものは、汚したくないもん」

「気に入ってても使わなかったら意味ねえだろ」

「いいのー。みなは、使わなくても眺めるだけで充分なんだから」

 みなはまた箱の蓋を閉めて棚に戻すと、「でもね」と続けた。

「これは、ずうっとしまっとくつもりじゃないよ。でもまだ使わない。使い始めるときは、ちゃーんと決めてるんだ」

 小さな箱を見つめながら、独り言のように静かに呟く。「え、いつ?」と尋ねると、彼女はこちらを振り返り、

「なーいしょ」

 そう言って、楽しそうに笑った。


 陽が完全に沈みきる少し前に、しゃぶしゃぶの用意を始めた。とは言っても、野菜や豆腐をざっと切るだけだったため、部屋が薄暗くなった頃にはもう三人で鍋を囲んでいた。

 先日家に招いたときにも思っていたが、この二人は本当に、見た目に寄らず大食いらしい。肉も野菜もあっという間になくなったそのあとは、駿が鍋に卵とご飯を入れて、手早く雑炊を作った。ペースは衰えることなく、雑炊もかきこんでいく二人を見ながら、

「お前ら、凄まじい食欲だな」

 と言うと、

「直紀が小食なんだろ」

 駿に平然と言われた。それから、彼は脈絡なく「あ」と声を上げると、

「今更だけど、しゃぶしゃぶってなんか季節はずれじゃねえ?」

「ほんと今更だな」

 けっきょく、俺はほとんど雑炊には手をつけられなかったのだが、雑炊も綺麗に平らげたあとは、

「みな、今日バイト先からケーキもらったんだー。食べよ食べよ」

 そう言って、みながテーブルの上にさらにショートケーキを追加した。「お、いいなー」と駿が言う。二人と俺は、胃の作りが違うとしか思えない。

「まだ食えんの? すげえな」

「こういうのは別腹だもん。あれ? 直紀、食べないの?」

「俺はもういいや。腹一杯」

「おいしいのにー」

 みなが熱心に勧めるので、結局二つに切り分けたケーキの、さらに三分の一ほどをもらった。

 その後、みなが淹れてくれた紅茶を啜っていると、唐突にみなが、あ、と声を上げた。キラキラとした目がこちらを向く。

「ねえねえ直紀、ほら、あの、ハッピーバースデートューユーってやつ。あれ歌って」

 唐突なお願いに、「は?」と素っ頓狂な声が溢れた。

「お願いお願い、一回でいいから。ね、一生のお願い!」

 顔の前でぱんと手を合わせて、みなは頭を下げる。その様子を見ていれば、嫌だと言っても諦めることはないのだろうということはよくわかった。結局、彼女は言い出したら引かないのだ。

 一つため息をついて、「別にいいけど」と言うと、「わーい!」とみなは顔の前で合わせていた両の掌を、今度は天井へ向けて広げた。

 そこまで喜ぶようなことか、と思いながら、聞き飽きるほど聞いたそのメロディーを唇に乗せる。みなは手を組んだその上に顎を乗せて、にこにこと笑顔を浮かべて、歌う俺の顔を見ていた。

 歌が終わると、「ありがと!」と言ったあとで、

「あー、幸せだなあ」

 と噛みしめるように呟くみなに、「大袈裟だな」と笑った。


 ケーキを食べ終わり紅茶も飲み終わったあとも、しばらくみなの部屋でくすぶっていたが、さすがに十時を回った頃にそろそろ帰らないとなあ、と息をついた。そう二人に伝えたとき、みなに

「え、帰るの?」

 と真顔で聞き返され、困惑しながら「そりゃ帰らねえと」と答えた。

 一瞬、みなの顔がさっと翳った。それは、どこか絶望したような表情だった。

 思いも寄らない反応に戸惑っていると、駿が

「あー、もうこんな時間かあ。俺も帰るか」

 と大きく伸びをしながら言った。

「駿も? 泊まってってもいいのにー。今日土曜日なんだよー?」

「いや、無理。帰らねえと、親、相当うるせえんだよ」

 駿の言葉に「俺も」と重ねると、みなは「えー」と言いながら俺と駿の顔を順に見た。

「ごめん。またな」

 なんとなく罪悪感が湧いてそう言うと、みなはようやく笑顔を浮かべた。けれどその笑顔には寂しそうな色が滲んでいて、少し胸が軋んだが、かと言って帰らないわけにはいかない。

 テーブルの上のコップや皿を流しに運ぶと、「あとはみながやっとくからいいよ」と蛇口を捻ろうとした手をみなが制した。


 先に駿が靴を履いて外に出た。俺もそれに続こうとしたとき、突然に手首を掴まれた。驚いて振り向くと、みながぼんやりとした表情で、掴んだ俺の手首をじっと見下ろしていた。

「え、どうした?」

 尋ねても、彼女は何か言葉を返す代わりに、ただ、手首を握りしめる力を少し強めた。さほど強い力ではないはずなのに、不思議なほど重たく感じる手だった。

 奇妙な沈黙が降りる。まるで何かの儀式かのように、みなはひどく静かな動作でじっと俺の手首を握りしめていた。

「……みな?」

 そっとその名前を呼んでみると、ふ、と彼女の口元に笑みが刻まれる。同時に、手からすうっと力が抜けた。

 みなはゆっくりと顔を上げると、まるで何事もなかったかのように

「おやすみ」

 そう言って、にこりと笑った。さっきまで俺の手首を掴んでいたその手は、今は彼女の顔の横で左右に揺れていた。

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