第4話 家族
みなが「ここだよ」と言って、二階建ての小さなアパートの前で足を止めたとき、彼女が一人暮らしをしていることをこの数分間忘れていたことに気づいた。
そのアパートは壁がピンク色で、切妻の屋根と合わせて、とても可愛らしい外観だった。
「可愛いでしょ」
みながどこか自慢げに言った。
「お母さんがね、探してくれたんだ。みなは、こういうアパートが好きだろうなって考えてくれたんだと思う。さすがよくわかってるよねー」
内容とは反して、みなの声はあまり嬉しそうには聞こえなかった。
みなが口にした「お母さん」という単語に、また瞼のうらに先ほど会った子ども連れの女性の姿が浮かぶ。
ぶら下げていたビニール袋が示すとおり、彼女はちょっと近くまで買い物に来た、という風な無造作な格好だった。しかも徒歩だったようだし、彼女がそのスーパーの近くに住んでいることはすぐに考えつく。
――園山さんの家、そんな、通えないほど遠いのか?
――うん、まあ、そんな感じ。
奇妙な息苦しさを感じた。みなのアパートは、あのスーパーとさほど離れていない。徒歩でも充分行き来できる距離だ。それぐらいの距離で、親子が別々に暮らしているという理由が、まったく思い浮かばなかった。
それに、わざわざ電車で通わなければならない広原ではなく、どうせ一人暮らしをするのならもっと高校の近くのアパートにすればよかったのではないか、と様々な疑問が一挙に湧いたが、なぜかみなに尋ねる気にはならなかった。
みなは二階に上がり、手前から二番目のドアの前で足を止めた。スカートのポケットをしばらく探ったあとで中から鍵を取り出すと、ドアを開けた。
靴が三足も並べばいっぱいの玄関の先に、短い廊下が伸びている。その右側には風呂場とトイレの扉が並んでいて、左側にはこじんまりとしたキッチンがあり、奥の棚に雑然と食器類が重ねられていた。
「どうぞー」と言って通された廊下の先に、十帖ほどの洋室があり、ベッドや机、テレビなどが置かれている。
「へー、けっこう広いな」
「うん。もっと狭い部屋にしとけば、みな、バイトしなくてもすんだかもしれないんだけどね。たぶん、これくらい広い部屋じゃないと、みなが嫌になって帰ってきちゃうかもって心配だったんだよ」
え、と思ってみなを振り返ったときには、彼女はもういつも通りの笑顔に戻っていて「さ、ご飯食べよ!」と明るく言った。
それから、二人でテレビを見ながら買ってきたおにぎりやパンを食べた。
途中、思い出したようにみなが鞄から携帯を取り出して、
「あ、あとで駿も来るって」
と、中を確認しながら言った。
みなは食欲はしっかりあったようで、おにぎりを二個食べてしまったあと、俺の食べていたパンを指して「それもおいしそうだねえ」などとキラキラした目で見つめてくるため、半分あげると喜んでぺろりと平らげた。
「なんだ、もうすっかり大丈夫そうだな」
「うん、直紀のおかげだよ」
わけがわからなかったが、言われて悪い気のする言葉ではなかったため「そっか」とだけ返しておいた。
「もう一回、熱、測ってみれば?」
「んー、でも体温計ないしなあ」
「病院行かなくて大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。寝れば治るよ」
根拠のないことを、みなはやたら自信満々に言う。しかし先ほどのみなの食欲を見ていれば、確かに大丈夫そうだなと思った。
「じゃあ、もう寝ろよ」
「えー、でも、せっかく直紀が来てるのにー」
みなの語尾にかぶせて、来訪を告げるチャイムが鳴った。かと思うと、みなが開けに行く前に、ガチャ、とドアが開く音がした。みなはすでに来訪者が誰なのか心得ているようで、立ち上がろうともしない。
まるで自分の家のように遠慮なく入ってきたのは、駿だった。片手には、ここに来る前に俺たちが立ち寄ったところと同じコンビニの袋を持っている。
「おー、直紀」
と俺に笑顔を向けたあとで、みなに視線を移し
「俺もさあ、今日お前んち行こうかと思ってたんだよ。でも、模試のあと四組行ったけどいなかったろ」
「あ、ごめん。今日みな、保健室いたんだー。ちょっと熱あったから」
「ふーん。ああ、それで直紀と一緒だったのか。こいつのこと送ってくれたんだろ?」
駿の視線が俺に戻る。頷くと、「ありがとな」と駿は言った。それはとても自然に彼の口からこぼれて、先ほど会ったみなの母と妹よりも、駿のほうがよほど、みなの家族と呼ぶのにしっくりくるような気がした。
駿は俺の隣に座ると、パンの袋やらペットボトルなどが散乱するテーブルの上に新たにビニール袋を置いた。すかさずみなが手を伸ばしビニール袋を掴むと、遠慮無く中を漁り始める。
「わ、なにこれ、おいしそう!」
チーズケーキを見つけたみなが目を輝かせて声を上げたが、
「食うなよ。それは俺の大事なデザートだ」
と、駿がばっさり切り捨てた。「ちえー」と言いながらみなは立ち上がると、冷蔵庫を開けた。それから「直紀、プリン好きー?」と聞かれたため頷くと、彼女は両手にプリンとスプーンを二つずつ持って戻ってきた。
それから、しばらく三人でテーブルを囲んで他愛のない話を続けた。
みなは、俺と駿に夕飯も食べていくよう言った。仮にも彼女は病人なのだからあまり長居するのは憚られたが、あまりにみなが熱心に勧めるため、結局こっちが折れた。
「まあ、カップラーメンくらいしかないけど」
みなが言うと、駿が「またかよ」とうんざりしたように顔をしかめた。みなは苦笑すると
「いやあ、この前まではいろいろあったんだよ。カルボナーラとか焼きそばとか。でもちょうど、今きれてて」
みなが口にしたのは麺類ばかりだった。「え、ちょっと待てよ」と思わず口を挟む。
「みな、いつもそんな食事してるのか? カップラーメンとか焼きそばとか」
「あ、そればっかりじゃないよ。お惣菜とかお弁当買ってきたりもするし」
「料理はしないのか?」
尋ねると、みなは恥ずかしそうに笑って
「あー……みな、料理苦手なんだ。たまにね、料理しようと思ってスーパーに買い出し行っても、ついお惣菜とかインスタント食品に手が伸びちゃって」
「体に悪いぞ、そんなもんばっか食べてると」
「うーん、そうだよね。料理も練習しないとなあ」
へらっと笑って言うみなの声はなんとも軽く、本気でみなの食生活が心配になってしまった。
六時を回ると、部屋を満たしていた夕陽の赤い光もほぼ消えて、部屋は薄暗くなってきた。
みなが電気を点け、ついでにキッチンのほうへ歩いていった。時計に目をやり、時間の経過の早さに驚いていると、みなが両腕に三つのカップラーメンを抱えて戻ってきた。見ると、一つだけパッケージが違う。
「探してみたら、うどんも一個あったよ。直紀、うどんとラーメンどっちがいい?」
「どっちでもいいよ。余ったほうで」
「んー、じゃあ、みながうどん食べていいかな?」
俺も駿も頷いたので、みなは「じゃあ、ちょっと待っててね」と言って、またキッチンに消えた。
「だいたい、カップラーメンしかないときに、客に夕飯勧めんなよな」
テーブルの上に広がる袋やらペットボトルやらを片づけながら、駿がぼやいた。俺もそれを手伝いながら、「たしかに」と同意した。
まとめたゴミを部屋の隅に置かれたゴミ箱に捨てに行く途中、ふとテレビの上に置いてある小さな卓上カレンダーに目を留めた。四月から六月まで同じページに載っており、四月のほうには始業式やら身体測定やらバイトやらいろいろと書き加えられているが、五月と六月のほうはまだ殺風景で、ただ一つだけ、六月四日のところが花丸で囲まれ、大きく『BD』と書かれている。
「六月四日って、みなの誕生日?」
「そうだよー」
駿に尋ねたつもりだったのだが、思いがけなく高い声が返ってきて少し驚いた。振り向くと、いつの間にかみながカップラーメンを手に戻ってきていた。
「そういえば、直紀は誕生日いつ?」
湯気の立ち上るカップラーメンをテーブルにそっと置いて、みなが尋ねた。
「六月十一日」
「ふむふむ。六月十一日ね」
復唱しながら戸棚から赤ペンを一本掴んだあと、みなは俺の隣に立って、卓上カレンダーの六月十一日のところに四日のところと同じような花丸を描き入れた。それから、あ、と声を上げると
「直紀の誕生日、けっこうみなと近いんだね」
「そうだな」
「あっ、じゃあ、みなと直紀の誕生日、まとめてパーティーしようよ!」
ぱっと顔を輝かせ、唐突にみなが言った。その勢いに押されて、何も考えないうちに「いいけど」と答えていた。
「わーい! いつするいつする?」と飛び跳ねんばかりに喜んで、みなは俺と駿の顔を順に見た。駿の参加は、もはや彼女の中で決定事項らしい。
けっきょく、六月四日は金曜日だったため、翌日の五日にすることにした。
「楽しみだね!」と待ちきれないような笑顔で言うみなに「まだ一ヶ月以上先だぞ」と言いながらも、誕生日パーティーなんて小学校以来だということを思うと、なんだか懐かしい気持ちになり、俺も少し心が躍った。
カップラーメンを食べ終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
テーブルの上の食べがらを片づけたあとで、そろそろ帰ると告げて帰り支度を始めると、「あー、じゃあ俺も」と駿が言った。すると、みなが初めて聞くような低い声で駿に話しかけた。
「え、大丈夫なの? お母さんは?」
「多分いない。あいつさあ、最近いつも夜になると出かけるから、多分今日も出かけるだろ」
いくら声を落としても同じ部屋にいる俺に聞こえないように話すことは無理で、みなと駿の声はどちらもはっきり耳に届いたが、二人の低く囁くような声が、俺にはこの話題に突っ込まないでほしいことを語っているようで、何も聞かなかった。みなが、駿のお母さんについて口にするのは、今日で三度目だなとぼんやり思った。
玄関で二人一遍に靴を履くことは狭くて無理だったため、俺が先に履いてドアを開けた。
「じゃあ駿、直紀のことよろしくね! 途中で車に轢かれたり、変な人に着いていったりしないように、ちゃんと駅まで送ってね」
実に真面目な顔で、みなは駿に向けて随分と失礼なことを言っている。一体俺をなんだと思っているんだ、と憮然としていると、駿も真面目な顔で「おー、まかせろ」と応えた。なんだこいつら、と改めて思った。
「みな、今日は早く寝ろよ?」
下まで見送りに来ようとする彼女を押しとどめて、「じゃあな」と言ったあとでそう付け加えると、「はいはーい」となんとも信用ならない返事が返ってきた。
「直紀、今日はほんとにありがとう」
最後に、みなはそう言ってふわりと笑った。
暗い空には、ちらほらと星が輝き始めていた。
「みなと駿って、本当に仲良いんだな」
駿と並んで、駅にまっすぐに続く路地を歩きながら、なんとはなしにそう言った。自分で言ったくせに、「仲が良い」という言葉がどうにもしっくりこなかったため、駿がなにか返す前に「あ、いや」と続けた。
「仲良いっていうか、あれだよな。なんかもう、家族みたいだよな」
駿は、すぐには何も返さなかった。
え、と思って駿の横顔を窺ったとき、「そうだよ」と思いがけなく真剣な声で彼は言った。暗くても、その横顔が笑っていないことはわかった。
「あいつは家族だ」
それは、茶化すことも、これ以上質問をすることも許さないほどに、静かで、しかしひどく重たい声だった。
なぜか、その声を聞いた瞬間、昼間会ったみなの母親の姿が脳裏をよぎった。怯えるように、自分の子どもを引き寄せるその仕草が、いやに鮮明に目に焼き付いていた。
家に帰ると、一人分の夕食が母の小言と共に待っていた。
そういえば、みなの家で夕飯を食べてくるということを家に連絡するのをすっかり忘れていた。謝って、友達の家でごちそうになってきたと伝えると、
「あら、どこの子? 今度お礼しないと。あ、そうだ、直紀。今度その子をうちに連れてきなさいよ」
お世辞にも良いとは言い難かったみなの夕食を思うと、母の考えはとても良い案に思えた。同意したあとで、「それは明日の朝食べるから」とテーブルの上にある魚の煮付けとほうれんそうのおひたしを指して言った。
階段を上がりながら、俺には当然のように用意されている夕飯が、みなにはないのだということを思った。明日の朝も、みなのために用意された朝飯はない。また、ちりと胸が痛んだ。
みなも、おそらく駿も、どうやら母親とうまくいっていないらしいことは、今日で充分にわかった。生まれてこのかた、いつでも近くにいた母との関係が冷え切っているというのはどんな感じなのだろうと考えてみたけれど、いまいち想像することができなかった。それほど、彼らの過ごしてきた環境は、俺とは遠いものだった。
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