第5話 過去
朝のホームルームで、勉強合宿についてのプリントが配られ、簡単な説明があった。六月九日から十二日までの三泊四日で、空気の綺麗な山の中の施設へ行き、そこで集中的に勉強をするというものだ。
説明によると、一組だけが強制参加で他のクラスは自由参加ということで、ホームルームが終わると同時に「どうする?」「行く?」という声が教室内を飛び交い始めた。
「直紀、行くか?」
健太郎がこちらを向いて、そう尋ねてきた。
「あー、どうしよっかなあ」とプリントを眺めながら呟いたあとで、「健太郎は?」と逆に聞いてみた。
「俺は行こうと思う。一組は強制参加なんだろ。なっちゃんと四日も離れ離れなんて耐えられん」
そう話す健太郎の顔は大真面目で、「あ、そう……」と返すことしか出来なかった。
「でもこれさ、一組は別行動らしいけど。行っても、どうせ話す機会はないんじゃねえの」
「直紀、お前はバカか。俺となっちゃんのいる場所が遠くなるのが耐えられないんだろ。たとえ話せなくても、同じ場所にいられればいいんだよ」
桜さんの話をしている健太郎にバカと言われるのはやけに腹立たしかったが、心底真面目な顔で語る健太郎を見ていると反論する気にもなれず、「そうですか」とだけ返しておいた。
「直紀、どうするー? 勉強合宿」
昼休み、二組の教室にやって来たみなと駿と一緒に昼飯を食べていると、みなが尋ねた。バイト代はまだ入らないらしく、今日もみなの昼飯はメロンパン一個だけという質素なものだった。
健太郎は、二人が来たため俺に気を遣う必要がなくなり、桜さんのもとへと行った。
「まだ決めてない。でも、やっぱ行ったほうがいいかなーとは思ってるけど」
「そっか。みなは、行こうかなって思ってるよ。だってこれ、一万円かそこらでいいんでしょ? それでおいしいご飯食べ放題ならお得だし」
「なるほど。そういう考え方もあるのか」
なんか不純な動機で参加する人多いなと思いつつ、「駿は?」と尋ねたあとで、彼は一組に在籍していたことを思い出した。
「俺は強制参加だから。まあ、強制じゃなくても行ったと思うけど」
なんで、と尋ねるのはやめた。なんとなく想像はできたからだ。
「直紀も行こうよー。あ、でも、そしたら直紀、合宿中に誕生日迎えることになっちゃうね」
「え? あ、本当だ」
みなに言われて、初めて気づいた。六月十一日は合宿の真っ只中だ。誕生日に一日中ひたすら勉強をすることになるのかと思うと少し寂しいが、どうせ残っても学校で一日中自習らしいし、健太郎もみなも駿も行くのなら残ったほうが逆に寂しいような気もした。
「俺も行こっかなあ」
「ほんと?! わーい! そしたらさ、一緒の部屋になりたいねー」
「いや、それは普通に無理だろ」
みなの無邪気な言葉に突っ込みつつ、ほうれんそうのおひたしを箸でつまむ。昨日の夕飯だったものだ。
そのとき、ふいに昨日の母の言葉を思い出した。
「あ、そうだ。あのさ、うちの母親が夕飯ごちそうしたいって言ってんだけど、いつか俺んち来れる?」
聞くと、みなはぽかんとして「へ、なんで?」と聞き返した。
「ほら、この前夕飯ごちそうになったじゃん。だからお礼にって」
「え、でも、カップラーメンだよ? あんなの夕飯って呼べるかどうかも微妙なのに」
「カップラーメンでもごちそうになったことは変わりないだろ。とにかく母親がお礼しないと気が済まない感じでさ。あ、駿も来いよ」
二人は戸惑うように顔を見合わせたあとで、「いいのか?」とやたら深刻な口調で駿が尋ねた。
頷くと、「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっか」とみなが嬉しそうに笑って駿に言った。駿も「そうだな」と言って微笑んだ。
「じゃ、いつにする?」
尋ねると、みなが待ちきれないように
「ね、明日っていうのは、やっぱり急すぎる、かな」
「いや、多分大丈夫。てか、多分今日でもいいと思うぞ」
「あ、今日はみな、バイトなんだ」
「そっか。わかった、じゃあ明日な。あ、駿は大丈夫か?」
駿も頷いたため、明日、二人は家に来ることになった。
「嬉しいなあ」
メロンパンの最後の一口を飲み込んだあと、みなはそう言って幼い子どものような笑顔を浮かべた。
そんなみなの笑顔の向こう、友人と三人で机を囲み弁当を食べている粟生野が、こちらを見ているのに気づいた。目が合うと、粟生野はさっと視線を逸らして目の前の友人の顔に向けた。なんだ? と思ったが、深く考える前に「あっ、そうだ直紀」とみながあわてたように声を上げた。
「お呼ばれするくせに図々しくてごめん。だけど、これだけはどうしても言っておかないと、逆に失礼かと思って」
「ん?」
「みなね、どうしてもグラタンは食べられなくて……。出来たら、それ以外でお願いしたいなあって。うるさくてごめんね」
「あ、そうなのか。わかった。つーか、どうせうちの母親、そんな洒落たもの作らないなら大丈夫だよ。今までグラタンとか食卓に出てきたことないし。駿は? なにか苦手なもんとかない? こういうのは、遠慮しないで言ってくれたほうがありがたいけど」
「あー、俺は大丈夫。なんでも食うぞ」
その後、明日は放課後みなと駿が二組に迎えに来るのでそれまで俺はここで待っているように、ということを申し合わせて、二人は教室を出て行った。
ふと動かした視線の先に、またこちらを見ている粟生野がいた。しかし今度は逸らすのではなく、友人に一言なにか言ってから立ち上がると、こちらへ歩いてきた。みなと駿がいなくなるのを待っていたのだろうということは、すぐにわかった。
「ねえ桐原―、勉強合宿行く?」
俺の机に腕を載せ、その場に屈みながら粟生野は唐突にそう尋ねた。
彼女がここへ来た理由がその質問の答えを聞くためではないことはわかっていたが、とりあえず
「今んとこ行くつもり」
と答えた。粟生野は「そっかあ」とあまり関心はなさそうな調子で相槌をうったあとで、「ところでさ」と前触れもなく話題を変えた。声のトーンが、真面目なものに変わる。
「桐原、本当に仲良いんだね、園山さんたちと」
粟生野はなんでもないことのように笑おうとしているようだが、どこかその笑顔はぎこちなかった。
「ちょっとびっくりしちゃってさ。園山さんが親しく付き合ってるのって、高須賀くんだけかと思ってた。なんで桐原、あんなに仲良くなったの?」
「なんでって……さあ。誰にでもあんな感じかと思ってたけど」
「全然違うわよ。園山さん、確かに明るいし外向的な子だけど、友達は作ろうとしないんだって。なんか壁作ってる感じだって、四組の子が言ってたの」
「……なあ、粟生野ってさ」
「え?」
「なんか、みなのこと苦手っぽいな」
少し考えて、「嫌い」という言葉は避けた。
粟生野は唇をわずかに開けたまましばし固まっていたが、やがて罰が悪そうに視線を逸らした。それから「んー、まあ……」と言いづらそうに口ごもったあとで曖昧に肯定した。
「やっぱり、どうしても中学の頃の印象が強くてさ」
「そんなに酷かったのか?」
「酷かったっていうか……」
粟生野は迷うように視線を漂わせていたが、やがて
「中学の頃に一回だけ、園山さんと喋ったことあるの」
と、渋い顔で続けた。
「一回だけ?」
「そう。言ったでしょ? 園山さん、中学の頃は近寄りがたかったって」
「あー、言ってたな」
「だから、喋ったのはその一回だけだったんだけど……ていうか、その一回が、どうにもうまくいかなかったから、それきり喋らなかったんだけど」
いつもの粟生野らしくない、もたついた話し方だった。うん、と相槌をうって、続きを待つ。
「その頃さ、園山さんがすごく高須賀くんと仲良くなってたから、私、気になって聞いてみたのよ。高須賀くんと付き合ってるの、って。それだけ。なのに園山さん、なんでそんなに怒るんだろうってくらい怒って」
「怒った?」
「うん。私、わけわかんなくて、ちょっと泣きそうになっちゃってさ。で、それきり園山さんとは喋ってないの」
ふいに、あいつは家族だと言い切った、駿の静かな声が頭の中に響いた。
なぜか俺は、みなの怒りの理由がわかるような気がした。俺がみなについて知っていることなど、きっとほんの一握りだ。それでもその考えは、不思議なほどの確信を伴って生まれた。
「……多分、それは、みなにとって、兄とか弟と付き合ってるのかって聞かれたようなもんだったんじゃないか。だから、気に障ったのかも」
きっと粟生野は、俺がみなの行動の不可解さに同意することを期待していたのだろう。不意を衝かれたような顔をして、やがて不快そうに眉を寄せた。
「どうして? 園山さんと高須賀くんは、兄妹じゃないでしょう」
「そりゃそうだけど、二人にとっては、お互いに兄妹みたいな存在なんだよ。だから付き合うとか、二人にとってはあり得ないことっていうか、なんか気持ち悪いことだったんじゃねえの」
みなと駿のことは、俺だってほとんど何も知らないくせ、まるで自分のことのようにぺらぺらとそんなことを言っている自分に驚いた。そこまで言ったあとで急に自信がなくなり、「多分」と語尾に付け加えておいた。
粟生野はぎゅっと眉を寄せ、なぜ自分の言っていることを理解してくれないのかというような表情になった。
「そうかもしれないけど。だからって、なんであそこまで怒られなきゃいけないのよ。二人がお互いにどう思ってるかなんて、私が知るわけないじゃない」
「まあ、それは……みなもいろいろあるからさ。なんか複雑そうじゃん、家庭事情とか。そのへんは俺もわかんないけど、とにかくいろいろあったんじゃねえの」
「ああ、確かにまあ、家庭はいろいろと複雑らしいわね」
粟生野の口ぶりは、少なからずみなの家庭の事情について知っているようだった。詳しく聞きたい衝動が突き上げたが、思いとどまった。こういうことは、他人から聞き出すべきではないと思った。彼らが言いたくないと思っているのなら、俺のことを本当に信用してくれて、言ってもいいと思ってくれるときまで、待とうと思った。いつか、そんな日が来てくれればいいと、願った。
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