第3話 親子

 その日は、土曜日だが校内模試のため学校へ向かっていた。

 校門で、またみなと鉢合わせた。駿はいない。おはようと挨拶を交わしたあとで、

「土曜日に模試なんて、やる気でないよねえ」

 と欠伸混じりにみなが言った。

「駿は?」

「それがねー、駿ってば、早くに行って勉強してるんだよ。やる気満々なんだから」

 二組の教室に行くには当然一組の教室の前を通らなければならないため見えるのだが、クラスメイトたちが思い思いに雑談をしている二組とは違い、一組はテストや模試の朝はほぼ全員が着席して黙々と机に向かっている。駿もしっかりそういう生徒たちの一人だったらしい。

「やっぱさ、一組は大変なんじゃね? ほら、模試の上位者って貼り出されるじゃん。一組なんだから、やっぱそこに入っとかないと、なんか決まり悪いとか」

「あー、かもね。うわあ、みな絶対イヤだなあ、そんなクラス」

 顔を歪めてそう言ったみなの声が、少し掠れていたように聞こえた。あれ、と思ったが、すぐにみなが言葉を続けたため、意識がそちらに逸れた。

「でも、多分、駿は違うと思うな」

「違うって?」

「んー、土曜日は、お母さんがお休みだから」

 彼女の言葉の意味はよくわからなかったが、考えるよりも、ふと目に入ったみなの頬がやけに赤いことに驚いた。


「みな、なんか具合悪いんじゃないか?」

 唐突に聞くと、みなは「へ?」と声を上げてこちらを向いた。

 双眸が、かすかに潤んでいた。手を伸ばし、彼女の額に触れてみる。よくわからなかったので、空いたもう片方の手は自分の額に押し当てた。やはり、彼女の額のほうが幾分か熱い。

「多分、熱あるぞ。保健室行ったほうがいいんじゃね?」

 手を離しながらそう言うと、みなは顔を輝かせて「おお」と弾んだ声を上げた。

「直紀、ナイスアイデア! そうしたら、模試受けなくて済むかなあ」

 どこかずれた考えに少し脱力しながらも、

「いや、多分別の日に受けないといけないんじゃね? もうお金は払ってるんだし」

 言うと、みなは「なんだあ」と残念そうにため息をついた。

 それから、今度は自分の手で額に触れると

「んー、でも、そういえば朝から、ちょっと熱っぽいなあとは思ってたんだ。保健室、行ってみようかな」

「そうしろよ。あ、でも今日って、保健室開いてんのかな」

 ふと湧いた不安は、的中していた。『先生は留守です』という札が掛けられた保健室の引き戸は、鍵が閉まっていた。

 けれど、「あらま」とみなはあまり気にした様子もなく声を上げて

「とりあえず職員室行ってみるね。先生いるかもしれないし。いなくても、具合悪いって言ったら鍵開けてもらえるかも」

 と慣れたように言った。

 そのとき、模試の開始五分前を告げるチャイムが鳴ったため、みなとはそこで別れて教室へ向かった。



 模試は、いつもどおりの出来映えだった。とりあえず得意の数学だけは時間いっぱい頑張ってみたが、国語などは半分眠りかけていた。

 今日の模試は三教科だけだったため、十二時半を少し過ぎた頃には終わった。

「午後からなっちゃんと遊びに行く」と言う健太郎が、スキップでもせんばかりの弾んだ足取りで教室を出るのを見送ってから、俺も教室を出た。

 下駄箱から靴を取りだそうとしたとき、ふいに、みなは大丈夫だったのだろうかと気にかかり、靴をまた下駄箱に戻し、代わりに脱いだばかりのスリッパを履いた。

 保健室の戸にはあいかわらず『先生は留守です』の札が掛かっていたが、今度は、引けばその力に従って引き戸は開いた。

 電気は点いていなかったが、締め切られた白いカーテンは薄く、陽が透けて差し込んでおり、充分明るい。札のとおり、先生の姿はない。奥のベッドのカーテンがしっかりと引かれているのを見つけ、近づいた。


「みな?」

 そっと呼びかけると、カーテンの向こうでもぞもぞと動く気配がした。それから、「んー……」という起き抜けの掠れた声で聞こえた。

「みな、大丈夫か?」

 カーテンの向こうの相手がわかって、さっきより大きめの声で話しかける。「直紀―?」とぼんやりした声が返ってきたかと思うと、カーテンの端が少し開いて、寝起き特有の腫れぼったい目をしたみなが顔を見せた。

「もう模試終わったの?」

「うん。具合、どうだ? 良くなった?」

「うーん、微妙だなあ」

 答えながら、みなは体を起こしてカーテンを開けきった。

「熱、測ってみたか?」

「うん。朝測ったら、七度八分だったよ」

「結構高いじゃん。今はどんな感じ?」

「んー、朝よりはだいぶいい」

 みなの声には、いつもの覇気がなかった。頬はまだほんのり赤い。だいぶいいと言いつつも、具合が悪いことに変わりはないようだ。

「ちゃんと帰れそう?」

 うん、と返ってきた返事はなんとも頼りなく、ふいに「誰かに迎えに来てもらえないのか?」と尋ねそうになったとき、彼女が一人暮らしをしているということを思い出した。ちり、とかすかに胸が痛んだ。

「送っていこうか」

 唐突に口をついて出た言葉に、みながぽかんとして、それでも嬉しさを滲ませた声で「へ、いいの?」と聞き返した。しかしその後、あわてたように、

「あ、でも、みなの家、広原だから。電車だし、遠いし……」

 と、もごもごと付け加えた。それは、みならしくない話しぶりで、やっぱり具合が悪いときは誰でも弱ってしまうもんなんだなと思った。

「いいよ。どうせ今日、土曜だし」

 自然と優しい声が出た。

「なんか、一人でちゃんと家に辿り着けるか心配だしさ」

 そう続けると、みなは恥ずかしそうに「じゃあお願いしよっかなあ」とはにかんだ。


 みなの足取りはどこか覚束なかったが、それでもその顔は嬉しそうに輝いていた。みなの荷物を俺が持つと、彼女は「なんだかいい気分」となんとも失礼なことを言ったのだが、その顔があまりに無邪気だったため、何も言えなくなってしまった。

 切符を買って、ホームのベンチに並んで座り電車を待っていると、隣からへへ、という弾んだ笑い声が聞こえた。見ると、みなは本当に具合が悪いのかと疑いたくなるほど、楽しそうに笑っていた。しかし頬の赤みはまだ消えていないため、確かに熱はあるのだろう。

「なーんか、楽しい」

 彼女は、その表情そのままの感情を口にした。

「そうみたいだな。なんか、具合もさっきより良くなったんじゃね?」

 保健室での、いかにも弱々しく病人らしかった顔に比べると、この短時間で随分覇気が戻っているように見えた。今の様子だったなら、「送ろうか」などと口にしなかったかもしれない。

「そうかも。なんかね、直紀の顔見てると具合良くなるみたいだよ。直紀って、マイナスイオンでも出てるんじゃないかな」

 みなの絶対的なまでの無邪気な笑顔には、突っ込もうかという気持ちすらしぼんでしまった。

「そりゃよかった。俺、すげえな」

 うん、と彼女はまた楽しそうに笑った。


 二両の短い電車がホームに滑り込んできた。中にはまばらに乗客がいるだけで、ガラガラだった。座席を一つ後ろに向け、みなと向かい合って座ると、それぞれの荷物を空いた隣の席に置いた。

「あ、そうだ。駿も呼ぼっかな」

 ごそごそと鞄を探りながら、唐突にみなが言った。中から携帯電話を取り出し、メールを打ちながら

「土曜日だから、お母さんが家にいるだろうし」

 と呟いた。朝にも、みながその単語を口にしたことを思い出す。

「なに、駿って今お母さんと喧嘩でもしてんの?」

「まあ、そんな感じ」

 この前のような、歯切れの悪い返事だった。それは、それ以上深く詮索することを憚らせた。


 二つ先の広原駅に着いたとき、空腹を感じた。時計に目をやれば、そろそろ一時になるところだった。

 俺たちは駅の側のコンビニに寄り、おにぎりやらパンやらを買った。相変わらず金欠らしいみなに、「病人なんだから」とよくわからない理由で、半ば強引におにぎりとお茶を奢った。

「ほんとにありがとう、直紀。なんかごめんね」

「いいって。具合悪いときはちゃんと食べないと駄目だし」

 みなが意外と義理堅いということはうどんの一件のときに感じていたのだが、彼女は本当にこういうのは気になる質らしく、しばらく「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返していて、なんだか逆に悪いことをしたような気にすらなってしまった。


 しばらく歩いて、ある小さなスーパーの前を通りがかったとき、ふいにみなの顔が強ばった。あ、と小さく声を上げて彼女が足を止めたので、俺も一緒に立ち止まる。

「どうした?」

 尋ねながら、みなの視線の先に目をやると、五歳ぐらいの小さな女の子を連れた女性がこちらに歩いてきていた。

 ゆったりとしたワンピースにカーディガンを羽織ったラフな格好で、女の子の手を握る手とは逆の手には、スーパーのビニール袋をぶら下げている。

 みなが答えるより先に、女性もこちらに気づいた。条件反射のように隣の女の子をぎゅっと引き寄せるのが、離れていてもわかった。

「――みなちゃん」

 女性が強ばった笑みを浮かべ、みなの名前を呼んだ。まるで何年振りかにその名前を口にしたかのようだった。みなが明らかに気乗りしない様子で、彼女のもとへと足を進めるのがわかった。


 彼女がみなの母親なのだという考えが浮かぶのに数十秒はかかるほど、二人はぎこちなく、親子と呼ぶには違和感があった。それは二人の間の空気とは別に、後ろで束ねられた、長い真っ黒な彼女の髪のせいであったかもしれない。彼女が手を引く小さな女の子の髪も、真っ黒だ。その子が彼女の娘だということは、考えるまでもなくわかった。

「偶然ね。元気にしてる?」

 みなが目の前に立つと、彼女は握っていた女の子の手を解き、代わりに肩を抱いてよりいっそう自分のほうへ引き寄せた。

「うん」

「お金は足りてる? 言ってくれれば、いつでも振り込むからね」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 迷うことなく、みなはそう答えた。「そう」と女性は微笑んだが、相変わらず女の子の肩は抱き寄せたままだ。

「他にも、なにか困ったことがあったらいつでも言ってね?」

「うん、ありがと」

 拭いきれない余所余所しさを、はっきりと感じた。「じゃあ、またね」とすでに歩き出しながら彼女が言った言葉は、まるで他人に向けるかのような響きだった。

 みなの横を通り過ぎる際、彼女がひときわ強く女の子の肩を握りしめるのがわかった。その動作には、隠すこともない警戒心が表れていた。


「……さっきの人、みなの、お母さん?」

 小さくなる二人の背中に背を向けてからそう尋ねると、うん、とみなはどこか上の空で答えた。

「ごめんね」

 出し抜けに言われたその言葉の意味はまったくわからず、聞き返すと

「みな、さっきお金は大丈夫だって言っちゃって。ちゃんと言えば振り込んでもらえたんだけど。でも、大丈夫だよ。月末にはバイト代が入るから、今日のお金はそのときに返すね」

「は? 今日のお金って、もしかして昼飯代のことか?」

 当然のように頷くみなに、はあ、と大袈裟にため息をつく。

「それは別に返さなくていいって。ほら、あれだよ、お見舞いお見舞い」

 ようやく穏やかさを取り戻したように、みなは笑って、また「ありがとう」と言った。

 真昼の太陽の下で、みなの茶色い髪が乱暴なほど明るく見えた。

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