第2話 彼女


「それ、おかしくねえ?」

 そう言われたのは、朝、正門でばったり駿と園山さんに会い、駿にジャージを返したあと、なんとはなしに昨日の災難を話したときのことだった。

 大変だったな、くらいの軽い返答を予想した話題だったのに、駿の口から出たのは思いのほか真剣な声だった。


 おかしいって何が、と尋ねようとしたが、それより先に園山さんが

「だよね! みなもそう思った」

 とやたら大きな声で駿の意見に賛成の意を示したため、また驚いた。

「それさあ、何も直紀は悪くねえだろ。全面的に、コンタクト落としたほうに非があるじゃねえか」

 呆気にとられているうちに、園山さんが真面目な顔で続けた。

「むしろ直紀は、踏まされたって感じだよね。被害者だよ。なのにコンタクト代半分支払えなんて、図々しいにもほどがあるよ」

「いや、違うって。コンタクト代半分払うって言ったのは俺で、その子は払わなくていいって言ってくれたんだけど、俺がどうしても気になったから」

「でも直紀、コンタクトって高いよ? 半分って言っても相当な額だったでしょ」

「あ、それがその子、コンタクト屋の店長と知り合いで、かなり安くしてもらえるらしくてさ。だから結局、俺は千円出してくれればいいって。千円くらいなら別にたいしたことないし」

「ちょっと直紀、千円稼ぐのがどれだけ大変かわかってるー?」

 途端、園山さんの声のトーンが変わって、思わず「あ、すみません」と謝っていた。

「まあたしかに俺は稼いだことないからわかってないけど……なに、園山さんはわかってんの?」

 聞くと、園山さんは得意げな笑みを見せた。

「みなはバイトしてるもん。大変さはよーくわかってるよ」

「へえ、そうなのか。どこで?」

「広原駅の近くの喫茶店。直紀も遊びに来てね」

 先ほどまでの不機嫌さはもう消えたらしい、園山さんは楽しそうに喫茶店の場所をより詳しく説明しようとしたが、それを遮って駿が話を戻した。

「で、結局、千円渡したのかよ」

「え? うん」

「なんか納得できねえなあ」

 そう呟くと、駿は眉間に皺をよせて首を捻った。駿の不機嫌さが伝染したかのように、園山さんも難しい顔になった。


「ねえ、みなが言ってあげよっか?」

 唐突に、これ以上はない名案が浮かんだという調子で園山さんが言った。

 彼女が何を言ったのかわからず聞き返すと、

「みなが、その千円を払わせた子に、直紀の代わりにがつんと言ってきてあげる。で、千円取り返してくるよ」

 まず何から突っ込もうかと少し迷ったが、とりあえず園山さんの言った「千円を払わせた子」の部分を訂正しようと口を開いた。だが、それより先に

「おー、そうだな。直紀が言えねえんなら、俺らが代わりに言ってきてやるよ」

 と駿まで言い出した。この二人の思考回路にはついて行けないと強く思った。「いや、あのさ」と彼らがこれ以上話を進める前にあわてて割って入る。

「クラスメイトなんだから、本気で千円返してほしいと思ったらちゃんと言えるって。ていうか、俺のこと心配してくれんのは嬉しいけどさ、本人がいいって言ってんだから、駿たちがそんなに気にすることでもねえよ」

 だからもうこの話は終わり、と締めの一言を言おうとしたが、また駿が一足早かった。

「だいたいさあ、そいつ、誰なんだよ」

「え?」

「直紀が千円払った相手だよ」

 駿の声には明らかに敵意がこもっていて、その名前を教えるのが少し憚られたが、ここで隠すのもおかしいため答えた。

「粟生野だけど。粟生野明李」

 駿は片方の眉を跳ね上げ、「どっかで聞いたことある名前だなあ」と思い出そうとするように視線を空に漂わせながら呟いた。

「ああ、そうかもな。粟生野、生徒会入ってるし、たしか陸上部の部長もやってるし」

 粟生野明李といえば、二年の間ではちょっとした有名人だ。

 抜群の統率力を持ち、運動会や文化発表会という行事の際には必ずと言っていいほど実行委員などをこなしている。去年の冬からは生徒会に入り、朝礼ではいつでも司会を務めているし、さらには陸上部の部長までもやっているらしい。

 ずいぶん多忙なはずだが勉強も怠りはしないようで、一組ばかりが占める模試の上位者の中に、一人それ以外のクラスから食い込んでいたりすることも多い。文武両道の優等生だが、それを鼻に掛けることもない明るくノリのいい性格で、男女問わず友達は多かった。


 生徒会、と自分で出したその単語に、「そうだ、生徒会だよ」と繰り返す。「は?」と揃って聞き返す二人に、

「粟生野、生徒会に入ってるようなやつなんだよ。そんなやつが、無理に千円払わせたりするわけねえだろ?」

「なにそれ。直紀、生徒会の人はみんないい人だとでも言うのー?」

「だいたいそうだろ」

「それは偏見だよっ。みな、生徒会ってなんか苦手だなあ。なんか計算高そうな感じしない?」

「いやいや、それこそ偏見だと思うぞ」

 そんな言い合いをしている横で、ようやく思い出したらしい駿が「ああ、粟生野って……」と呟くのが聞こえた。


 けっきょく、「大丈夫だから気にしないでくれ」と半ば強引にまだ納得できないらしい二人に告げて話を終わらせた。心配してくれるのはありがたいのだが、あの二人の考え方は斜めにずれているというか、突飛なのだ。

 二人と別れると同時にどっと疲れが襲い、何も考えず昨日の出来事を話してしまったことを強く後悔した。


 教室に入ると、真っ先に粟生野がこちらに駆け寄ってきた。

 さっきまで、自分があの二人から散々に言われていたことなど知る由もない彼女の明るい笑顔を見ていると、ふいに罪悪感がこみ上げた。

 元はといえば、俺がもっとうまく話せば、あの二人が変な誤解をすることもなかったのではないかと思うと、余計に心苦しくなった。粟生野が目の前に立つなり、うっかり「ごめん」と口走りそうになっていたら

「あのさ、千円返すね!」

 満面の笑みで、粟生野は折りたたんだ千円札を差し出した。

「ごめん。コンタクト作ったの三ヶ月前だったから、まだ保障期間だったの。だからタダで作り直してもらえたんだ。わざわざありがとね」

 今すぐに一組と四組の教室へ行って、駿と園山さんに俺の手に戻ってきた千円札を見せてやりたい衝動に駆られた。

 普通なら「そりゃよかった」と当たり前のように千円を受け取って終わるところなのだが、なにかと多忙そうな粟生野だからか、お金はかからなかったにしろ、放課後にコンタクトを作り直しに行く時間を割かせてしまったことを悪く思った。

「あー……でも、せっかくだし、もらっとけば?」

「ええ? なんで?」

「ほら、コンタクト壊したお詫びっていうか、わざわざ粟生野にコンタクト作り直しに行かせたわけだし」

 言うと、粟生野はおかしそうに声を上げて笑った。それから、「うん、じゃあわかった!」と言うと

「でも千円は高すぎるから、今日のお昼にお茶奢って。今日、水筒忘れてきちゃってさ」

 と、にこっと笑った。



 昼休みに、粟生野と一緒に購買へ行き、ペットボトル入りのお茶を買って彼女に渡した。

「これだけでいいのか?」と尋ねると、粟生野はまた笑って

「充分だよ。だいたい、桐原は別に悪いことしてないじゃん」

 この言葉も園山さんたちに聞かせてやりたいなと考えていたちょうどそのとき、園山さんが購買に入ってきた。

 彼女もすぐにこちらに気づいて、「あっ」と声を上げると、小さく手を振って近づいてきた。朝の、「みなが代わりにがつんと言ってあげる」という言葉をふいに思い出し、一瞬不安がよぎったが、園山さんのほうは粟生野の顔は知らなかったらしい。

「久しぶり、園山さん」

 粟生野からかけられた言葉に、園山さんは不意打ちを食らったように「へっ?」と間の抜けた声を上げた。

 園山さんの反応は予想外のものだったらしく、粟生野も「え?」と首を傾げて

「私たち、同じ中学だったじゃない。覚えてない? 粟生野明李」

 と苦笑を浮かべて尋ねた。

 園山さんは罰が悪そうに「あ、あー……」と呟いたあと

「ちょっと……わかんないなあ。ごめん」

 と、こちらも苦笑した。

 一瞬、微妙な空気が流れて、俺がなにかフォローしたほうがいいかと口を開きかけたとき、

「あはは、いいよ。私、あんまり目立ってたほうじゃなかったしね」

 粟生野が、顔の前で手を振りながら明るく言った。いやそれはないだろ、と思わず口に出しそうになってあわてて飲み込む。

「仕方ないよ、うん。同じクラスだったのも、一年のときだけだし」

 これには逆に、同じクラスだったこともあるのかよ、と心の中で声を上げた。俺も、同じ中学だった人たち全員を覚えている自信はないが、さすがに一度でも同じクラスになった人は、とくに親しくなくても覚えている。

「ごめんね、みな、人の顔覚えるの苦手で」

 困ったように笑いながら、園山さんが苦しい言い訳をした。

 そのとき、遠くから粟生野の名前を呼ぶ声が聞こえ、粟生野は「じゃあね」と言ってから、俺には「お茶、ありがとね」と付け加えて、呼ばれたほうへ歩いていった。


 粟生野がいなくなると、あからさまにほっとしたように園山さんがため息をついた。

「園山さん、マジで覚えてなかったのか?」

「うん、全然覚えてない」

「そりゃ、ちょっとひどいな」

「うん、だよね。あはは……」

 園山さんは意味もなく髪に触れながら乾いた笑い声をたてた。

 この一件で、朝浮かべていた粟生野への怒りはすっかり忘れたようで、それには安堵した。

 それから「一緒にお昼食べようよ」という園山さんの誘いに頷いて、園山さんは購買でサンドイッチを一つ、俺は学食でカレーを買ってから、空いていた席に座った。

「そんだけで足りるのか?」

 卵サンドだけという随分と質素な園山さんの昼飯を指して尋ねると、園山さんはまた、あはは、と乾いた笑い声をたてた。

「実はね、ちょっと今、金欠なんだー」

 彼女の言う『金欠』は、俺にとっての『金欠』とは質が違う、重い響きがあった。飲み物もない園山さんの昼飯を見ているといたたまれなくなって、「お茶くらい奢るけど」と言ったが、園山さんは

「大丈夫だよ。今日、あんまりお腹すいてないし。ありがと、直紀」

 そう言って、柔らかく笑った。


 ブラインドの隙間から漏れる光が、園山さんの茶色い髪を照らしていた。そのため余計に明るく見える彼女の髪を眺めながら、「その髪さ、」と話しかけた。顔を上げた園山さんの目が、初めて見るような静かな色を湛えていたため、一瞬たじろいだ。

「染めてんの?」

「違うよ、元々こういう色なの。染めるのは校則で禁止されてるでしょ。みなはいい子だから、校則破ったりしないもーん」

「でもバイトはしてるじゃねえか」

「みなはね、学校からバイトしてもいいですよって許可もらってるのー。校則違反はしてないよ」

 今までそんな話は聞いたことがなかった。知り合いにも何人かバイトをしている人はいるが、みんな学校から離れた場所で隠れるように働いている。

「許可? なんだそれ、許可とかもらえんの?」

「そうだよ。たぶんみなは、一人暮らしだから大目に見てもらえたんだと思うな」

 これにも驚いた。一人暮らしをしている人がいるなんて、聞いたことがなかった。遠くに住んでいる友人もいるが、彼は電車で四十分以上かけて毎日通っている。

「え、園山さんの家、そんな、通えないほど遠いのか?」

「うん、まあ、そんな感じ」

 なんとも歯切れの悪い返事だった。彼女が、あまりこの話題を続けたくないのが伝わってきた。俺が話題を変えようとしたとき、ふいにまた、陽の光を吸い込んだような彼女の髪が目に入って、

「……綺麗だよな」

 と、ほとんど無意識のうちに呟いていた。

 園山さんがきょとんとして「え?」と聞き返す。

「あ、いや、その髪。綺麗な色だよな。いいよな、染めてなくてもそんな色って」

 軽い調子で口にしたのだが、園山さんの反応は予想外のものだった。真顔で俺の顔を見つめたまま、彼女はしばし固まっていた。

 もしかして何か悪いこと言ったのかと焦りそうになったとき、彼女はようやく顔をほころばせた。

「ありがとう」

 そっと自分の髪に触れながら、弾んだ声で園山さんは言った。そのまま指先で髪を少しつまむと、横目で眺める。

「みなは、あんまり好きじゃないんだ、この色。黒く染めよっかなあって考えてたくらいで」

「そうなのか? いい色なのに」

 うん、と独り言のように呟いた園山さんの笑顔は、いつもより大人びて見えた。ありがとう、と繰り返したあとで、彼女はふいに俺の髪を指して

「直紀の髪も、ちょっと茶色っぽいよね」

「あー、そうだな。微妙に茶色がかってるんだよな」

「みなも、直紀の髪、好きだよ」

 園山さんはそう言って、屈託なく笑った。俺も彼女と同じように、ありがとうと返した。


 それから、しばらく他愛のない会話を続けていたとき、園山さん、と彼女の名前を呼んだあとに続けようとした言葉を遮って、「ねえねえ」と園山さんが言った。

「みなでいいよ?」

 数秒の間のあと、呼び名のことを言われたのだと理解した。

 少し戸惑ったが、ここで断るのもおかしいため、

「え、じゃあ、みな」

 と呼び直した。うん、と彼女は満足げに微笑んで頷いた。

 なんとなくこそばゆかったが、その笑顔が心底嬉しそうだったため、まあいいかと思った。



 教室に戻ると、粟生野が近づいてきて、俺の机の脇に立って話しかけてきた。

「桐原ってさ、園山さんと仲良いの?」

 頷くと、粟生野は考えるように視線を漂わせたあとで

「園山さんって……なんていうか、どんな感じ?」

 なんともわかりにくい質問だった。「どんな感じって……」と俺が言いよどむと

「あー、ほら、普通の子って感じ? べつに、変わったところとかない?」

 と粟生野は重ねて尋ねた。

「普通だけど」と答えたあとで、怪訝に思い、「なんでそんなこと聞くんだよ」と逆に尋ねてみた。

 いつもさばさばした粟生野にしてはめずらしく、しばらく迷うように口ごもっていたが、やがて妙に真面目な顔で話し出した。

「購買で聞いてたと思うけど、私さ、園山さんと同じ中学だったんだよね。中学の頃の園山さんってさ、なんか自分の世界で生きてるっていうか、近寄りがたい感じでさ」

 思わず、「嘘だろ」と口を挟んでいた。ついさっきまで話していた彼女と、そんなイメージはどう頑張っても重ならない。粟生野は「ほんとほんと」と軽く受け流して、続けた。

「暗いとはちょっと違うんだよね。なんだろ、本当に、自分の世界で生きてるって感じだったな、うん」

「へえ。なんか想像つかねえな。今のあいつ、めっちゃ明るいし」

「うん、私もさっき会って、なんか変わったなあってびっくりしたんだよね」

 そこまで言って、「ああ、べつに園山さんのこと貶すつもりじゃないんだけど」と粟生野はあわてて付け加えた。

「一年のときしかよく知らないんだけどさ、高須賀くんと仲良くなってからはちょっとマシになったっていうか……あ、なんか酷い言い方になっちゃったな。ごめん」

 粟生野は、みなについてうまく説明する言葉が見つからず、困っているようだった。

 マシになった、という粟生野の言葉が頭の中で繰り返される。そういえば、みなは同じクラスになったこともある粟生野のことをまったく覚えていなかったということを思い出した。

 すると、まるで俺の考えたことが伝わったかのように、粟生野が続けた。

「だからさ、私のこと覚えてなかったのも、無理ないかなあって思えるのよね。周りなんて見てないって感じだったし」

 なんでもないことのように話す粟生野の声に、かすかに怒りの色が滲んだような、気がした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る