第9話 世界
携帯電話がないことに気づいたのは、カウンターに誰か座っているか確認するため図書室へ行き、新井さんの姿を見つけて教室に戻ってきたときだった。
鞄に入れていたと思っていた携帯が見あたらず、次に制服のポケットに手を突っ込んでみたが、そこにも手応えはなかった。
落としたのかとさっき通ったとおりの道順で図書室まで戻ってもみたけれど、見つからなかった。
あの小さな機械が手元にないというだけで、言いようのない心細さにさらされる。トイレやら下駄箱やらをあてもなく探してみたが、けっきょく見つからず、さっきは見つけきれなかっただけで実は鞄の奥のほうに埋もれていたのではないかという淡い期待にかけて、もう一度教室に戻ってみた。
鞄の奥深くに押しやられていた、いつもらったのかも覚えていないプリントを引っ張り出していると、にわかに隣の教室が騒がしくなった。おそらく一組で行われている補講が、休憩時間に入ったのだろう。
少しして、「直紀」と声をかけられた。見ると、駿が開いた前方の戸から教室を覗き込んでいた。
「お前、携帯落としただろ」
出し抜けにそう言われ、一気に目の前が希望で明るくなった。
「ああ。もしかして駿、拾ってくれたのか?」
「いや、俺じゃなくてみなが拾ったらしくてさ」
彼が口にしたその名前に、なぜかかすかに指先が冷たくなる。
「さっきあいつから直紀の携帯拾ったってメール来て、でもバイトに遅れそうだったし、探したけど直紀見つからなかったからって持って帰ったらしいんだよ。そのへんに放置しとくわけにもいかねえし」
お前の携帯、と駿は言った。
「どうする? 明日まであいつに預けといて平気か? 無理なら、みなに届けさせるけど」
「いや」
何も考えないうちに、俺は首を振っていた。
「どうせ時間あるし、俺が取りに行くよ。みなのバイト先って、どこだったっけ?」
駿に確認してから、鞄をつかんで教室を出た。
みなが拾ってくれていたという安堵と共に、妙な焦燥に駆られていた。
昇降口の時計を見ると、四時半を少し過ぎたところだった。みなのバイト先は、ここから二つ離れた駅のすぐ側にある喫茶店らしい。白柳との約束の六時までには充分戻ってこられるだろう。万が一、少々遅れることになったとしても、携帯さえあれば連絡が取れる。とりあえず、手元に携帯がないという今の状況をどうにかしたかった。
ホームで十分ほど待ったあとで電車に乗った。窓から流れる景色を眺めながら、また十分ほど電車に揺られる。
喫茶店があるその駅は、とくに街中でもないため、めったに訪れることはない。おそらく最後に来たのは一年近く前だった。
改札を抜け、喫茶店を探そうと目を動かしかけて、すぐに止めた。
みながいた。
改札と駅の出口の間の一直線上に立ち、まっすぐにこちらを見ている。
え、と自然と口から声が漏れた。彼女はにっこりと笑い、胸の前で小さく手を振っている。その手には、見慣れた携帯が握られていた。間違いなく、俺の携帯だ。
困惑しながらも近寄ると、
「来ると思ったよ」
と、みなは楽しそうに笑った。
俺は先ほど聞いた駿の言葉を思い返していた。バイトに遅れそうだったし、という声がたしかに耳に残っている。俺がみなに「バイトは?」と尋ねようとしたとき、それより先に彼女が続けた。
「今日、柚ちゃんと映画観に行くんでしょ?」
ざわりと胸の奥が波立つ。
俺が口を開く暇はなかった。「ここ暑いね。あっち行こうよ」と俺の返事は聞かず、みなは俺に背中を向けて歩き出した。
俺は、彼女に着いて歩くしかなかった。一度、彼女の名前を呼んでみた。当然のように、みなは聞こえない振りをした。
やがて、「あっ、カメがいる」と無邪気な声をあげて、みなは駅のすぐ脇を流れる川を覗き込んで足を止めた。
彼女は人差し指を川へ向け、俺にも見るように促したが、俺はみなから目を逸らせずにいた。みなは俺の視線に気づくと、伸ばした腕を下ろし体ごと俺のほうを向いた。
「……バイトじゃなかったのか?」
「うん、今日はお休み」
至極あっさりと頷いてみせたみなに、一瞬わけがわからなくなる。
「じゃあ、なんで、携帯――」
押し寄せた疑問が唇を押しのけ、うまくまとまらないまま言葉が飛び出した。
なにが面白いのか、みなはふふっと笑い声をたてた。
「駄目だよー、直紀。携帯、あんなふうに机の上に置きっぱなしにしてちゃ。盗ってくださいって言ってるようなもんだよ?」
みなの言葉を理解すると同時に、強い目眩がした。
急にピントが合ったように、曖昧だった数十分前の記憶が思い出される。
そうだ。俺はどうせすぐに戻ってくるだろうと思い、図書室に行く前にいじっていた携帯をそのまま机の上に無造作に置き、教室を出た。落とすことなどあり得なかったのだ。ずっと、机の上にあったのだから。――誰かが、持ち去らない限り。
「盗ったのか。みなが」
みなに向けてというより自分の頭を整理をするように低く呟けば、みなは、うん、とこれ以上ないほど軽く頷いた。その顔はたしかに笑顔なのに、彼女の表情はまるで精巧な石膏像のように温度がない。
「……なにがしたいんだよ、お前」
土石流のように押し寄せた彼女へぶつけたい言葉の中から、ひとまずその言葉を選び出して尋ねた。
みなはなにも答えない。ただ、口角をより高くつり上げ、おもむろに右手に握っていた携帯電話を開いた。俺を一瞥してから、彼女は淡々と目の前の画面に映る文字を読み上げてみせた。
「受信メール、21件。着信、8件」
ぎょっとして、思わず駅の時計を見上げていた。五時十分を指している。まだ約束の時間ではない。しかし俺は、すでにわかっていた。そのメールと着信は、きっと、すべて白柳からのものだ。
「これ、たぶん、ぜんぶ柚ちゃんからだね」
まるで俺の考えたことを見透かしたように、みなが言った。おかげで、根拠のない直感が確信の色をする。
全身を巡る血液が、途端に冷たくなった気がした。ぞっとするほどの後悔がこみ上げる。
いいから返せよ、と口を開きかけたそのとき、みなの手にある携帯が、着信を示すオレンジ色のランプを点灯させ始めた。心臓が跳ね、体が強ばる。
「あ、また柚ちゃんからだ」
みなはそう確認しながらも、俺に携帯を渡そうとはしない。
無意識のうちに、俺は彼女の手から携帯を奪おうと手を伸ばしていた。
しかし、俺の手が携帯に触れようとした直前、すっと流れるような動作でみなが腕を振り上げた。水平に、携帯を握る腕を右へ伸ばす。携帯をつかんでいた彼女の指が解かれていくのが、やけにゆっくりと見えた。
その一連の動作に、躊躇などみじんも見られなかった。
伸びた彼女の腕の下にあるのは、お世辞にも綺麗とは言い難い川。支えられるものをなくした携帯電話は、当然重力に従い下へと落ちる。
ランプを点灯させながら、携帯が濁った水の中に吸い込まれていくのを、俺は息もできないまま眺めていた。
ぽちゃんという軽い音とわずかな水飛沫と共に、携帯は視界から消える。
直後、まるで頭を思い切り鈍器で殴られたかのように、視界がぐらりと揺れた。
「な、にやって――」
喉が引きつり、うまく声が出せない。愕然としたまま目の前のみなの顔を見つめる。
彼女は涼しい表情で見つめ返していた。ごめんね、と彼女の唇から発せられた謝罪の言葉は、今の状況には明らかに不釣り合いな軽さだった。
「大丈夫、ちゃんと弁償するよ。新しい携帯は、みなが買うからね」
違う、と思い切り叫びたかったが、声の出し方すら思い出せないほど俺は混乱していた。違う。問題は絶対にそこじゃない。ガンガンと頭の中で警鐘が鳴る。
みなへの怒りだとか疑問だとかはどこか遠い場所にあった。内容を知ることができなかった、白柳からの21件のメールと8件の着信のことしか考えられなかった。着信を示すランプが、まだ目の前でチカチカと点灯している気がする。
「みなね、ずっと思ってたんだ」
みなの不自然な笑顔は、数日前に保健室の前で見た、一瞬の無表情に似ていた。
「直紀と柚ちゃんって、合わないよ」
そう言ったみなの声も、表情と同じで全く温度がなかった。どす黒い後悔が足下から這い上がるが、何に対する後悔なのかわからなかった。
「だって直紀、柚ちゃんと付き合い始めてから、なんか顔色悪くなったもん。ねえ、それ、柚ちゃんのせいでしょ?」
みなの声は、聞こえていたが聞かなかった。今は、そんな言葉はどうでもよかった。ひどく、どうでもよかった。
思考がまとまらない頭でも、わりとすぐにある一つの考えに至ることはできた。ふいに思い出したのだ。みなが白柳と図書室で携帯を手に話していた姿を。
みながまた口を開きかけるのがわかったが、遮って彼女の名前を呼んだ。
「みな、お前も白柳のアドレス知ってるよな。いつか交換してたよな」
みなは少しきょとんとして、知ってるけど、と答えた。
「携帯、貸してくれ。白柳と連絡とりたい」
俺の言葉を聞くと、みなは唇を笑みに歪めた。嬉々としているのに、どこか冷たさを孕んでいる、そんな笑みだった。
えー、と彼女が迷うような声を漏らしたとき、俺の中でなにかが弾けた。怒りと恐怖と焦燥と、あらゆる感情がまとめて一気に膨らみ、一瞬目の前が真っ白になる。
「いいから貸せよ」と俺は叫んでいた。まわりの人々が物珍しそうにこちらを見るのがわかったが、気にしてられなかった。
みなは突然飛んできた怒号にも、表情を崩すことはなかった。その冷たい笑顔で、事もなげに受け止めてみせた。それでも、溢れた言葉は止まらなかった。
「みなは知らねえんだよ、白柳のこと。俺たちには冗談みたいなことでも、あいつには冗談じゃすまねえんだ。ちょっとしたことが、白柳には死んじまうくらい惨いことだったりするんだよ。なあ、頼むから連絡とらせてくれ。早くしねえと、たぶん、やばいって」
違う。きっとみなは知っている。白柳の不安定さも脆さも、自分の行為がどれだけ白柳に残酷なものなのかということもかも。すべて知っていて、こうして笑っているのだろう。
みなはしばし迷うような素振りを見せたあとで、肩に掛けていた鞄のファスナーを引いた。中から赤く薄い携帯電話を取り出し、見せつけるように胸の前で掲げる。安堵したのは束の間だった。
「もし柚ちゃんが死んじゃったら、」
こちらへ差し出されるかと思った右手は、俺の顔の前を通り過ぎていった。思わず彼女の手を追っていた視線は、すぐに引き戻される。右手の掌が、横へ払われながらぱっと開いた。息を呑んだときには、その手からすでに赤い携帯電話は離れていた。
「――直紀とみなのせいだね」
放物線を描いて、みなの携帯が川へと吸い込まれていくのを絶望的な気持ちで眺める。なにも、言葉が出てこなかった。
気づけば、俺は駅に向かって歩き出していた。
時計は五時四十分を指している。時刻表を見ると、次の電車は十五分後だった。十五分もじっと待っていることなど耐えられそうもなかった。迷っている暇もなく、俺はタクシーに乗った。
真っ黒な絶望が、足下にまで押し寄せていた。どこまで走っても、それを振り切れることはなかった。まだ陽は沈んでいないはずなのに、目の前がひどく暗かった。
正門に白柳の姿はなかった。妙な確信があって、俺は迷うことなくまっすぐに図書室へ向かっていた。
途中、先日俺が落ちた階段を上ろうとして、ふいに足を止めた。見上げる。もし今、誰かが上から落ちてきたとしたら。そしてその後ろに誰かが手を伸ばして立っていたとしたら。
俺を受け止めるのに必死で上まで見ている余裕はなかった、という駿の言葉が唐突によみがえった。あのときは何も疑うことのなかった言葉。いや、わざと気にしないようにしたのかもしれない。その言葉が真実であってほしかったのだ。
駿は本当に俺を突き落とした人物を見なかったのだろうか、という疑問が今頃になって湧いた。それはすでに、きっと駿は見たのだという確信を伴っていた。
あの日、必死に目を背けていた違和感が、鮮やかに目の前に広がる。
――大丈夫?
保健室の前で、開口一番に言ったみなの言葉。なにも考えずとも、それは階段から落ちた俺の身を案じた言葉だと理解した。しかし、俺が階段から落ちたことを、みなが知っているはずはなかったのだ。あの日、この場所にいたのは、俺と、駿と、あとは――俺の背中を押した人物だけだったのだから。
疑問は、すぐに一つの結論に達した。悲しさだとか怒りだとかはとくに湧かなかった。まるで他人事のように、ああ、みなだったのか、とぼんやりと思っただけだった。
しかし、同時に白柳の、あの二人はおかしいと言った不安定な声を思い出し、それに対して自分が言い返した言葉が頭の奥で響いて、唇を噛んだ。何回か話したくらいであいつらの何がわかるのだと、俺は言った。
俺だって、あいつらの何を知っていたというのだろう。
図書室は、いつもと同じように閉館していた。
電気は消え、窓はブラインドが覆っていてその隙間からかすかに夕陽が差し込んでいる。
ドアノブを掴む。手首を捻れば、それに従ってドアノブも回った。驚きはしなかった。頭のどこかで、俺はこのドアが開くことを知っていた気がする。
もう何度と訪れたかもわからない、白柳と過ごした場所。白柳との世界。それなのに、俺はそのとき、初めての、未知の場所へ足を踏み入れた気分になった。そこは、むせ返るほどの絶望が立ちこめていた。
抱き締めておけばよかった、と唐突に張り裂けそうなほどの後悔がこみ上げる。あのとき。食堂で。目の前で今にも空気に溶けてしまいそうなほど儚く笑った彼女を。
そうすれば、なにかが変わっていただろうか。
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