第10話 箱庭


 自分と“先輩”だけで構成された世界。白柳が作り上げ、生きていこうとした世界。

 その箱庭が無惨に崩れ落ちた様が、目の前にあった。





 図書室の奥には小さな書庫がある。あまり読む人がいない古い本などが保管されている場所だ。並んだ本棚の奥、黒い影が見えた。身体が、自分のものではないようだった。自分の意思を離れ、足は取り憑かれたように奥へ向かう。目の前に広がる景色も、まるで映画でも観ているかのように現実味がない。本当なら、痛いほどに鼻腔を満たしているはずの鉄錆の匂いも、かすかに感じられるだけだった。

 見慣れたまっすぐな黒髪が、濡れた床に広がっている。夕陽とは違う、獰猛な、暴力的なまでに目に焼きつく赤が、灰色の床を染めていた。横倒しになった彼女の、頬や制服もその赤で汚れていた。


 名前を呼ぼうと口を開きかけて、吸い込めなかった息がひゅっと喉で音をたてた。

「……しらなぎ」

 誰に向けてでもなく、自分自身に刻み込むように、その名前を舌の上で転がす。

 自分の声が耳に届くと同時に、眩暈に襲われた。自分の存在に対する、吐き気がするほどの嫌悪感からだった。自分の身体や名前、感情、すべてが形容しがたいほどに憎く、今すぐに泡にでもなって消えてしまえばいいと願った。暗い赤色に塗りつぶされた世界の中で、自分のせいで誰かが死ぬというのはこういうことなのか、と頭の片隅で思った。


 白柳の手には、携帯電話が握られていた。まるで命綱のように、彼女は今も強く握りしめている。そのすぐ横にはカッターナイフが二本転がっている。制服が捲り上げられたむき出しの腕には、何本もの傷痕が走っていた。

 古い傷痕は、新しく刻まれたばかりの赤い線に覆われ、わからなかった。数え切れないほどの浅い傷の中に、一つだけ手首を切り落とそうとでもしたかように深い傷がある。その深い傷からも出血はすでに止まっていたが、彼女の下に広がる血はひどく鮮やかだった。

 理由は、すぐにわかった。彼女の横顔を覆っていた髪を払うと、その下に隠れていた首筋にもいくつもの傷があった。


 元々白かった彼女の顔は、塗り固められたかのような異常な白さだった。生けるものの温もりなど、そこにはもうみじんもなかった。真っ白な人形のような肌を汚す赤色は、瞳を貫くように鮮やかだった。

 俺はそっと、温度のない白柳の頬に触れた。その冷たさが全身に染みこむのを待った。そうして彼女の死を、刻みつけるように。


 映画、楽しみですね、と言う弾んだ声も、花火大会に行きたいと言った穏やかな声も、すべてが懐かしいとすら感じるほど遠い昔のことに思えた。

 食堂で見た笑顔を瞼のうらに思い浮かべようとした。しかし、目の前に閃光のように弾けたのは、縋るように携帯を握りしめる白柳の姿だった。一方の手にはカッターが握られており、彼女の顔がぞっとするほどの絶望に塗り替えられ、携帯を力無く耳から離すと同時に、その手が動く。

「白柳」

 意味もなく、繰り返し呟く。その名前が喉を通るたび、突き刺すような痛みが襲い、やがてそれは全身へ巡る。それを追うように、俺はもう一度彼女の名前を呼んでみた。

「白柳」

 一面赤で埋め尽くされた世界。俺はもう、一生ここから出ることはできないことを悟っていた。小さなこの図書室は、いつか願ったように、本当に世界から切り取られ閉じ込められてしまったようだった。


――先輩。


 俺を呼ぶ、この数週間で何度聞いたかもわからない白柳の声。それが頭の奥に響くと共に、ふいに俺が初めて白柳に会ったときのことを思い出した。それだけは、まるで昨日のことのように、やけにはっきりとしていた。

 ゆっくりと顔を上げる。見上げた先の隙間無く並べられた本。白柳が指さした場所。ああ。

 ここは、俺と白柳が初めて会った場所だったのか。



――だって私、先輩だけでいいんです。先輩さえいてくれれば、なんにもいらないんです。


 彼女の言葉は、誇張でもなんでもなく、すべてが真実だった。

“先輩”とそれ以外。そんな二つの価値観だけでできた世界。

 だから当然、“先輩”が消えれば、その世界は成り立たない。跡形もなく崩れ落ちてしまって、そんな世界で白柳は生きていけはしない。


 ふいに唇の端から笑みが漏れた。嘲笑だった。自分自身に対する、やり場のない嘲りだった。みなの言葉が頭に響く。柚ちゃんが死んじゃったら直紀とみなのせいだね。笑いがますますこみ上げる。涙が出るほど、苦い笑いだった。

 違うよ、と心の中でみなへ声を投げる。嫌になるほど、全部、俺のせいだ。

 笑えば笑うほど、頭の中は冷えていった。小学校の頃の、体の小さなクラスメイトを思った。無くなった教科書と筆箱を青い顔をして探し回る彼を、遠巻きに、心から他人事として眺めていた俺の目は、ぞっとするほど醜かった。ああ、まさか、こんな形で罰がまわってくるとは思わなかった。


 そっと左手を伸ばし、右手だけで触れていた白柳の頬を、両の掌で包み込む。足りない。ぼんやりと思って、俺は彼女の体を抱き起こした。じっとりと湿った感触が腕に伝わる。しかしそれも、どこか遠く感じていた。吸い寄せられるように、色をなくした白柳の唇に自分のそれを重ねる。もう二度と言葉を紡ぐことのないその唇から痛いほどに伝わる冷たさだけが、すぐ近くにあった。

 そのまま腕の中の体を抱き締めれば、思いのほか細く、しかし意識のないその体はずっしりと重かった。彼女の手にある携帯に目を落としたとき、ぱたりと真っ赤な床に雫が落ちた。いつの間にか俺の頬が濡れていたことに、そのとき気づいた。なにに対する涙なのかはよくわからなかった。喉から嗚咽が漏れることはない。ただ、涙腺だけが壊れたように、涙が溢れ続けていた。

 彼女の手の中の携帯電話の画面に、短い文面が映っているのが見える。


 でもあいしてます

 ごめんなさい


 たったそれだけの文字が、白柳のすべてを語っているように思えた。何故“でも”なのか、その前に続く長い文章も、俺にはどんなものだったのかわかる気がした。

 奇妙な感覚だった。外からかすかに運動部のかけ声や電車の通過音が聞こえてくるけれど、俺はもう二度とそれらに触れることはできないことを確信していた。腕の中の彼女だけが俺の世界に存在していた。白柳は、今までもこんな世界で生きてきたのだろうか。


 目を閉じる。彼女の言葉を反芻する。

 俺を見つけると、うれしそうな顔をしてくれた。俺が話をするときは、顔を上げて、ついでに何か作業していたときはそれを中断してまで、真面目に聞いてくれた。訥々と、それでも一生懸命に話をしていた。幼く、花が咲いたように笑った。俺はそんな白柳が、ひどく愛しかった。

 考えながら、気づいた。俺はそんなこと、一つだって白柳に伝えていない。自分を卑下することしかできなかった彼女の苦しみも、そう至る原因となった惨い過去も、彼女しか持っていない本当に綺麗なものだって、俺は全部知っていたのに。

 ああ、と声にならない声が喉から溢れた。悲しみとは違う。無力感と虚しさと、気が狂いそうなほどの絶望だけがあった。


 傍らに転がるカッターナイフを拾う。制服の裾で、黒く変色しかけた血を拭った。右手に握り、左の手首に押し当てる。そのまま横に引けば、あとに赤い線が刻まれ、じわりと血が滲んだ。その光景を見ているのが俺ではなく白柳のような、不思議な感覚になった。手首からの出血は思いのほか少ない。これでは何度切っても死に至る前に傷口は塞がるだろうと、奇妙に冷静な頭の片隅で考えた。結局俺は、白柳に倣って首へカッターナイフを押しつけた。



 白柳が望んだ世界を、今、作り上げよう。

 この空間を切り取って、閉じ込めてしまおう。

 今度こそ、白柳が救われるように。



 真っ赤な世界がまた新たな赤で塗り重ねられる瞬間、不思議と俺は満たされた気持ちにすらなった。彼女がけして信じなかった想いが今度こそ届くよう、俺は彼女の小さな冷たい手を握りしめた。

 かすかにその手に力がこもったような気がして、少し笑った。




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