第8話 笑顔
なあ、お前、どうしたら信じてくれんの。
目の前の、恐いほどに穏やかな笑顔にそうぶつけたくて、けれどそれは喉を通りきる一歩手前で、また沈んでいってしまう。
いっそ泣き出しそうに顔を歪めてくれたほうが、まだいいと思った。頼りなく怯えた目で縋るように俺を見つめたなら、そうしたら俺は、大丈夫だと笑ってやれるのに。嬉しそうな笑顔を返してくれる笑顔も言葉も、いくらでもあげられるのに。
なにかを悟ったかのように、ただひたすらに静かな今の白柳の笑顔には、俺が何を言っても届かない色があった。
電話の向こうで、「どうしたんですか急に」と驚いたような声があがるのを聞いて、ほっとした。自分でもなぜこんなにほっとしているのかわからないほど、ほっとした。いつもと同じ、白柳の声だ。それだけを確認するために、俺は衝動的に傍らの携帯電話を掴んでいた。
「声、聞きたかったから」
それは、何も嘘のない言葉だった。
白柳が「へ?」と素っ頓狂な声をあげ、「本当ですか」と嬉しさを滲ませた声で言う。
自分が、こんな恥ずかしい台詞をさらりと言える質だとは思わなかった。羞恥など感じる余裕もないほど必死なのかもしれない。
本当に声が聞きたいという理由だけで電話したものだから、とくに話題は出てこなくて、しばらく、今何してただとかさっき食べた夕飯のメニューだとか、とりとめもない話が続いた。
やがて充電が切れそうになったため、そう告げて通話は終わった。
通話が切れたあとも、しばらく俺は携帯を耳から離すことができないまま、ぼんやりと電子音を聞いていた。
どのくらいそうしていただろうか。俺は唐突に湧いた衝動のまま、電話帳から久しく連絡を取っていなかった小学校の頃の友達の番号を探す。メールでもよかったのだが、返信を待つ時間がもどかしく思え、通話ボタンを押した。
電話の向こうの旧友は、ずいぶん驚いた様子だった。高校も違うし、去年のクラス会以来まともに連絡をとっていなかったのだから無理もない。
しばらくお互いの近況などについて話をしたあとで、充電の残りを気にしながら、本題に移した。
「……あのさ、坂崎っていたじゃん。五、六年のとき同じクラスだった」
『あー、いたね。あのちっさかったやつでしょ』
「そう。あいつ、どこの高校行ったか知ってるか?」
『知るわけないじゃん。べつに俺、仲良くなかったし。なに急に。なんで坂崎? どうかしたん』
にべもなく切り捨てられ、いや、と首を振る。なんでもない、と言って、少し会話を続けたあとで電話を切った。
何年間も思い出しもしなかった彼のことを今更聞き出して、それから何をしたかったのか。元気に高校に通っているという近況でも聞いて安心したかったのか。それとも、謝罪でもするつもりだったのか。何をしても今更遅いということは、十分理解しているくせに。現に、白柳には俺の言葉が何も届かないではないか。
第一、彼と白柳は何も関係のない他人だ。白柳をどうやっても救えないから、彼を今頃になって救おうとしたところで、何かが変わるわけでもないのに。
充電の切れた携帯をベッドに無造作に投げやり、天井を眺めながら深くため息をついた。
その日は、健太郎が朝からやたら上機嫌だった。
理由は聞かなくとも十分すぎるほどにわかっていたため何も聞かずにいたのだが、「今度の日曜になっちゃんと映画を観に行くことになった」と健太郎のほうから教えられた理由は、予想と少しも違わなかった。
「そりゃよかったな。楽しんできてくださいませ」
いつもは口数の少ない健太郎が、人が変わったように饒舌に桜さんとのデートの予定を話すのを、俺は適当に受け流していたが、健太郎は俺がどんなに無愛想な返事をしようと気にした様子はなかった。
初めの頃は健太郎ののろけ話も真面目に聞いていたものだが、さすがにこうも頻繁だと疲れてくる。しかも、健太郎のほうは喋れれば満足のようで、俺のリアクションはどうでもいいらしいため、そのことに気づいてからはのろけ話は聞き流すことが多くなった。
「直紀はどっか遊び行ったりしないのか? あの一年生と」
桜さんの話から唐突に俺の話に変わり、「へ?」と思わず間抜けな声をあげてしまった。
「そういや、直紀から、あの子と一緒に遊び行った話とか聞いたことないよな」
そう言われ、なぜだか罰が悪くなった。
たしかに、白柳とどこかへ遊びに行ったことは一度もない。二人で過ごす時間といったら、昼飯のときと図書室で委員会の仕事をしている時間、あとは下校のときくらいだ。
これまではそれを当たり前のように感じていたため、なにも気にしていなかったのだが、健太郎と桜さんに比べれば、明らかに俺と白柳が一緒にいる時間は少ないことに、今更ながら気づいた。
「考えたことなかったな。白柳とどっか遊び行くとか」
言うと、健太郎は眉を寄せ、呆れたように大きくため息をついた。
「かわいそうだな、あの子」
健太郎が軽く口にしたその言葉に、指先から引きちぎられるような痛みを感じた。体の奥に重たく、冷たいものが広がる。
「……なあ、日曜、何の映画観に行くんだ?」
「秋の雨。って、さっき言ったと思うが」
「ごめん。俺、お前の桜さん関連の話はほとんど聞いてなかった」
そうだったのか、と健太郎は少し傷ついたような顔をしたが、かまわず続けた。
「その映画ってさ、面白いのか?」
「だから、今度の日曜に観に行くって言ってるだろ。まだ観てないんだから面白いかどうかは知らん」
「それ、恋愛もの? 女の子が好きそうな感じ?」
そう重ねて尋ねると、健太郎は思い当たったらしく片方の眉を跳ね上げた。
「なんだ、直紀もあの子と観に行く気なのか。じゃあ一緒に行くか?」
「あー……いや、悪いけど、白柳が多分そういうの苦手だ。人見知り激しくて」
「そうか。ああ、映画は普通の恋愛ものだぞ。なっちゃんは公開前から観たい観たい言ってたし、あの子も気に入るんじゃないか? 行ってこいよ。多分喜ぶぞ。まあ、なっちゃんとあの子の趣味が合うのかはわからんが」
あとで、学校の側にある映画館は平日の六時以降なら学生は三割引だという情報ももらい、俺はさっそく今週の放課後の予定と財布の中身を確認してみた。
白柳に映画の話をすると、彼女は予想以上に喜んでくれた。
「行きたいです。私、その映画、観たいなあって思ってたんです」
頬を染めて、飛び跳ねんばかりに喜ぶ白柳を見ていると、唐突に健太郎への感謝の気持ちがこみ上げた。
同時に、久しぶりに見る白柳の心底嬉しそうな笑顔に、自分の甲斐性のなさが身に沁みる。これからはもっと健太郎ののろけ話も真面目に聞いてやるようにしよう、と考えていると
「いつ行くんですか? 映画」
白柳が待ちきれないように意気込んで尋ねた。
いつが都合がいいのかと聞くと、いつでもいいです、と弾んだ声で白柳は答えた。
「あのさ、平日の六時以降なら三割引になるらしいんだよ。情けない話だけど、今、俺ちょっとお金に余裕がなくて、出来ればその時間帯に行きたいんだけど、やっぱ厳しいよな? 六時以降っていったら、終わるの八時過ぎるし」
駄目もとで言ってみたのだが、白柳は一秒も間を置くことなく「いいですよ」とあっさり頷いた。
「え、マジで大丈夫か? 無理しなくていいぞ?」
そう重ねて尋ねると、嬉しそうに輝いていた白柳の瞳に、かすかに不安げな影が差す。
「大丈夫です。無理してないです」
早口に言い切った白柳の声に滲む必死さに、ふいに焦燥に駆られ「なら、いいけど」と俺も早口に彼女の言葉を引き取った。
「じゃあ、明日にでも行くか?」
「はい!」
白柳はぱっと輝くような笑みを浮かべて、大きく頷いた。
これ以上ないほどに幸せそうな表情だった。少し前の俺なら、つられて柔らかい表情になってしまうような笑顔なのに、今は暖かなものよりもそれを打ち消すほどに冷たい何かが、体の底に染みこんでいくのを感じた。
瞼の裏にちらつく、さっきの不安げな瞳が目の前の笑顔に重なる。はね除けるように、前を向いた。田植えがされたばかりの田んぼの横に真っ直ぐに伸びた細い道は、橙色の暖かな光に照らされている。
「……なあ白柳」
「はい?」
彼女が首を傾げると、肩の少し上で綺麗に切りそろえられた髪が、動きに合わせて揺れた。
「白柳は、どこか行きたいところとかある?」
「え?」
「ほら、買い物とか遊園地とか……あと何だろ、カラオケとか?」
例を挙げていっても、どれも白柳のイメージとは重ならなかった。なんでもよかったのだ。ただ無性に、これから先の白柳との予定が欲しいだけだった。
白柳の目がふっと遠くなる。柔らかな微笑みを口元に浮かべて、ぽつんと呟いた。
「先輩と、二人だけの世界」
風の音にもかき消されそうなほど小さなその声は、しかし風の音も虫の鳴き声も突き抜けて、はっきりと響いた。まるで頭の奥に直接響いたかのように、はっきりと。
白柳の横顔に浮かぶ微笑みは大人びているのに、なぜだかとても幼く見えた。そしてそれは、これまで見たどんな表情よりも、白柳らしい表情だと思った。
俺が何か返すよりも先に、白柳はこちらを向いてはにかむように笑い、冗談です、と言った。
「どこでもいいんです。私は、先輩と一緒にいられれば、それだけで幸せなんです」
白柳の声は、まるで頬を撫でていく柔らかな風のように、儚く空気に溶けていった。
この空間を世界から切り取って、閉じ込めてしまいたい。目眩がするほど強烈に願った。
図書室。食堂。帰り道。
俺が白柳と過ごす世界はそれだけだった。ずっと、その箱庭世界の中で生きていけたら。白柳がすべてを捨ててでも叶えたかった願い。それは決して叶わないことを、白柳は悲しいほど理解していて、それでも白柳は、手を伸ばしていた。
痛々しいほどに、必死に永遠を求めていた白柳が、誰よりも永遠を信じていなかった。
弁当を持って食堂に行くと、窓際の席に白柳の姿を見つけた。先に誰かが座っていない限り、俺たちはいつでもあの場所に座った。
俺に気づいて笑みを浮かべた白柳の目の下には隈が出来ていて、寝不足なのかと尋ねると、彼女は「楽しみで、昨日なかなか眠れなくて」と恥ずかしそうに笑った。
「今日も補講あるんだろ?」
「はい」
「じゃあ補講が終わるのが六時だから、それから行けばちょうどいいな」
「そうですね」
「あ、でもあんまり時間に余裕ないから、今日は図書室の前じゃなくて、正門のところで待ち合わせね?」
「わかりました」
頷いたあとで、先輩、と白柳が続けた。
「映画、楽しみですね」
無邪気な声に、自然に笑みがこぼれる。
白柳の楽しそうな笑顔の向こう、並んだテーブルはほぼ満席で、そのさらに向こうには窓があって整然と並べられた自転車が見える。いつも、白柳の笑顔とセットで見てきた景色だ。いつもは気にも留めなかった景色が、今日はやたらと目について、しばらくぼんやりと眺めてしまった。
「先輩」
「ん?」
「私、昨日、考えてたんです」
白柳の笑顔は、いつもの数倍幼く見えた。これが彼女の心から喜んでいるときの笑顔なのだなとようやく気づいた。
「行きたいところ。先輩と一緒ならどこでもいいっていうのは、本当なんですけど」
「うん」
「私、花火大会に行きたいです」
目を伏せて穏やかな微笑みを浮かべた白柳を見て、俺は初めて、彼女を綺麗だと思った。
「花火は昔から大好きだったんです。でも花火大会は行ったことなくて。あ、うんと小さい頃に家族で行ったことはあるらしいんですけど、全然覚えてなくて。ああいう場所って、恐かったんです。中学の頃はクラスの人に会うのが嫌で、行きたかったけど行けなくて。でも、先輩と一緒なら、なんにも恐くないから」
訥々と話しながら、白柳は屈託なく笑っていた。うん、と噛みしめるようにゆっくりと頷く。
「一緒に行こうな」
白柳は、本当に幸せそうだった。それでいて、ひどく儚かった。
ふいに抱き締めたくなった。ここが食堂だということも、周りにたくさんの生徒がいるということも、一瞬すべてがどうでもよくなった。
けれど手を伸ばそうとした瞬間、ぞっとするほど彼女が遠く見えた。かすかに動かした手は、そのまま膝の上で握りしめ、振り払うように目を閉じる。遙か彼方へ必死に手を伸ばすように、白柳へ声を投げる。それは、祈りのようだった。
「一緒に、行こう」
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