第7話 階段

 夢を見た。

 見知らぬ教室の戸が開いて、白柳が入ってくる。

 先ほどまで思い思いに談笑していたクラスメイトたちが、一斉に話を止めた。和やかな空気が、見事なまでに一転する。誰も口は開かない。ただ、温度のない視線だけが、まっすぐに白柳へ向いていた。

 途端に彼女の表情が凍り付く。逃げるように席へ向かう白柳を眺めながら、一人の女子生徒がくすくすと笑いを漏らした。ひどく醜い笑顔だった。静寂が包んでいた教室に、それは波紋のように広がる。

 俺はどこにいるのかわからなかった。うつむいて自らの膝の上で拳を握りしめた白柳の、血が滲むほど強く噛みしめられた唇が鬱血していく様すら見えるのに、どんなに手を伸ばしても彼女には届かないことはよくわかっていた。



 切り干し大根を口に運びながら、今日は図書室行けないんです、とぽつんと言った白柳の声は、これ以上ないほど悲しげだった。なんで、と聞けば、英語の補講があるのだと沈んだ口調で返された。

「小テストがあったんですけど、私、不合格だったから」

 そう話す白柳の声を聞きながら、数日前に図書室で英単語を必死で覚えていた白柳の姿を思い出す。けっきょく不合格だったのか。なんだか俺まで少し悲しくなりながら、頑張れよ、と言えば、白柳は頷いたあとで

「先輩は、どうするんですか?」

 と少し言いにくそうに尋ねた。何を言われたのかわからず聞き返すと、

「あの……今日の放課後、先輩は図書室行きますか?」

 そう言う白柳の声色には、行ってほしくないという気持ちが滲み出ていた。

 俺は反射的に首を振ると

「いや、俺も今日はちょっと行けないかも」

 白柳は手元の切り干し大根に目を落としたまま、小さく笑った。

「じゃあ、先に帰りますよね?」

 表情と声の調子から、俺は白柳のだいたいの気持ちは読み取れるようになっていた。

「待っててもいいけど。補講、何時に終わんの?」

 言うと、白柳はぱっと顔を輝かせ、「六時までです」と弾んだ声で答えた。


「昨日は、すみませんでした」

 階段を上ろうとしたときに呼び止められて唐突にそう言われ、思わずどくんと心音が響いた。

 今日白柳と顔を合わせてから、お互いに昨日のことからは目を逸らしていたようだったのに、その言葉は何の前触れもなしに彼女の口から零れた。

 数秒間、ぽかんと白柳の顔を見つめたあとで、いや、と首を振る。なぜか、突然に罪悪感がこみ上げ

「俺も、ごめん」

 と謝っていた。

 白柳は俺の目を見つめて、かすかに口元を緩ませた。先輩、と呼びかける彼女の目は、あの日と同じ、目を逸らすことを許さないほどにまっすぐだった。

「嫌になりましたか? 私のこと」

 穏やかで、静かな声だった。その声にはみじんも不安定さがなくて、それが余計に不安を駆り立てた。

「ならないよ」

 昨日と同じ言葉を、ゆっくりと繰り返す。

 白柳は、にっこりと幼い笑顔を見せた。



 昨夜の睡眠不足が祟ったのか、昼飯のあとの授業では強烈な睡魔が襲ってきた。抗おうという気すら起きない強烈さで、けっきょく授業が始まって十分もしないうちに俺の意識は夢の中に沈んでいった。

 放課後になっても眠気は去らず、白柳との約束の時間まで寝るかと、次々に教室を出て行くクラスメイトを見送りながら机に突っ伏していた。

 残りは俺の他にあと三人、というところまで減ったことまでは記憶にある。目を覚ましたのは、すぐ傍に人の気配を感じたためだった。

 薄く目を開ければ、ついさっきまで眠気を誘う暖かな日差しが満たしていたはずの教室は、すでに夕日が紅く照らしていた。机に沈めていた頭を起こすと、見慣れた茶色い髪が見えた。ぼんやりとした視界に、思いがけなく至近距離でこちらを見つめる双眸が映り、意識が一気に覚醒する。


「……みな?」

 起き抜けの少し掠れる声で呟くと、うん、とみなは微笑んだ。

「おはよう」

 掛けられた声に、もはや条件反射のように「おはよう」と返したあとで、「何やってんだ?」と尋ねた。

「直紀の寝顔観察してたんだよ。今ね、写メ撮って駿に送ろうかなあって考えてたとこだったんだけど。残念」

 みなは楽しそうに笑った。

 見渡せば、教室には俺とみな以外は誰もいない。ふと不安がよぎり、壁に掛けられた時計にあわてて目をやったが、五時半を少し過ぎたところだった。


「いつからいたの?」

「さっき来たばっかりだよ。ちょっと二組の教室覗いてみたら直紀が寝てたから、起こそうかと思ったんだけど、あんまり気持ちよさそうに寝てるから起こしにくくて」

「そっか」

 とりあえず、ありがとうと言って体を伸ばした。今日一日靄がかかったようだった頭が、さっぱりとしている。

「今日は図書室行かないの?」

「ああ。白柳が補講らしいから」

「ふうん。補講終わるの待ってるの?」

「ああ」

「へー、優しいねえ」

「だろ」

 みなと言葉を交わしながら、乱れて目にかかっている前髪を払う。

「みなは何やってんの?」と尋ねると、みなは困ったように、んー、と声を漏らした。

「ほんとはね、直紀と一緒帰ろうかと思って、図書室行こうとしてたんだ。そしたらここで直紀見つけて」

 少し恥ずかしそうに苦笑いを浮かべるみなに、あー、と俺も苦笑して声を漏らした。ごめんと謝ると、みなは笑って首を振った。

「いいや、もうそろそろ一組の補講も終わる時間だし。駿のとこ行ってみよっと」

 そう言って、みなは立ち上がった。もう一度時計に目をやると、そろそろ約束の時間だったため俺も一緒に立ち上がる。


「あ、そういえばさ」

 開いていた窓を閉めながら、ふと思い立って声を掛けると、後ろから「んー?」という声が返ってきた。

「みなって、中学はどこだった?」

「へ? 広原だよ。なんで?」

「いや、ちょっと。……あのさ、三ツ木中出身のやつ、誰か知ってるか?」

 聞いてどうしようというのか。自分でもよくわかっていなかった。

 みなはうーん、と首を捻ると

「知らないなあ。この高校って、三ツ木中の人ほとんどいないって聞いたことあるよ。ほら、あのへんにもういっこ高校あるでしょ? あそこも進学校だし、評判良いし、三ツ木中で普通科行く子はほとんどあっちに行っちゃうらしくて」

 みなの言葉に、妙に納得してしまった。

 そっか、と頷いたあとに、そうだろうな、とため息混じりに呟くと、みなが不思議そうに首を傾げた。


 二組の教室を出たところで、みなとは別れた。一組以外の教室は電気が消えているため、廊下は薄暗い。

 携帯を取り出して時間を確認する。五時五十分。少し早いが、それくらいでいいと思った。たとえ一分だろうと白柳を待たせることが、今の俺には恐かった。ひどく不安定で頼りない様子の白柳より、何か開き直ったように穏やかな表情を浮かべる白柳のほうが、なぜだか恐ろしかった。


 外から、ランニングをしているらしい、どこかの運動部の元気の良い声が聞こえる。遠くから、吹奏楽部の演奏する音楽もかすかに耳に届いた。聞き覚えのある曲だった。なんだっけ、この曲。考えようとしたけれど、できなかった。

 目の前に伸びる下り階段に一歩踏み出した足が、俺の意思に反して、何もない宙に大きく踏み出される。

 足は、確かに一つ下の段に降り立つ場所へ伸ばしたはずだった。大きく前に傾いたのは、俺の全身だ。背中に何かがぶつかったのを感じた。それほど強い力ではなかったけれど、当然宙に踏み出した足に踏ん張れるものはなくて、そのままぐらりと視界が回る。

 一瞬、体が浮いたようだった。階段の下、踊り場に駿がいるのが見えた。揺れる視界の中でも、それだけはやけにクリアだった。


 がしゃんという金属音が鼓膜に突き刺さる。

 予想した痛みはやってこない。反射的に閉じていた瞼をゆっくりと開けば、驚くほど目の前に駿がいた。

 たっぷり三秒間要して、ようやく俺は駿が自分の下敷きになっていることに気づく。視界の端に、散乱するシャーペンやら定規やらが映った。

「いった……」

 駿の唇がそう歪むのがやたらと間近に見え、ざあっと血の気が引いた。

「ご、めん」

 謝りながら、俺は自分がいつまでも駿に呆然とのしかかり続けていることに気づき、あわてて退く。

 駿は、やはりどこか痛むのかゆっくりと体を起こしながらも、「あー、びっくりした」といつもと同じように笑った。

 床についたはずの掌にざらりとした紙の感触があって、見ると教科書が中程のページを開いて落ちていた。その横にはノートとプリント、少し離れた場所にプラスチック製の筆箱と筆記用具が散らばっている。それらを拾い集めようとしたが、思い直し、まずは駿へ手を差し出した。

「マジでごめん。大丈夫か?」

 俺自身、まだ混乱が抜けない。尋ねた声は少し掠れた。

 駿はなんでもないように笑って「あー、平気平気」と答えながらも、俺の手を借りて立ち上がった。

「俺がいなかったらやばかったぞ、お前」

 そう言う駿の声がいつもと変わらぬ軽さで、早鐘をうっていた心臓が落ち着いてきた。

 散乱していた教科書や筆記用具をすべて拾うと、「とりあえず保健室行こう」と駿に言った。駿は平気だと言って断ったが、かまわず連れて行った。


 保健室の先生が手際よく駿の手首をテーピングしていくのを、ただぼんやりと眺める。処置が終わると、「あなたは大丈夫なの」と声を掛けられたが、特に痛むところはなかったため首を振った。

「受け止められるかなって思ったんだけどさー、体格差もあんまりないし、さすがに厳しかったなあ」

 一体何があったのかという先生の質問に簡単に説明したあとで、駿はそう付け加えて、はは、と笑った。笑い返そうとしたが、うまくできなかった。

「ほんと、ごめん。ありがとう」

 テーピングされた駿の手首を見ているうちに口をついて出た言葉に、「もういいって」と駿はあっけらかんと首を振る。

 駿の明るさは、俺を落ち着けてくれた。落ち着くと共に、すっと頭の中が冷える。混乱して考える暇がなかった、ある感触がじわりとよみがえってきた。


「……あの、さ」

 声が、ひどく喉を通りにくい。「んー?」と聞き返した駿の声は、みなのものと同じ調子だった。

「俺、さっき――階段から落ちたとき、なんか背中押されたような気がしたんだよな」

 駿の顔から笑みが消える。

「駿、なんか見たか?」

 表情が消えたのは一瞬で、すぐにその口元にはまた笑みが戻った。あー、と視線を天井に漂わせながら、

「あのときは直紀受け止めるのに必死だったからなー。階段の上まで見てる余裕なかったわ」

 なぜか、その言葉に安堵している自分がいた。


 保健室の戸を開けたところで、思いかげなく人の影が目に入って少し心臓が跳ねた。

 視線を横にずらすと、みなが立っていた。

 奇妙な違和感を感じた。彼女は驚くでもなく、ただ静かな目で俺を見ている。その顔はいやに平淡で温度がない、完璧な無表情だった。

 初めて見る彼女の表情に俺が狼狽するより早く、みなは目を細め、口元に笑みを刻んだ。

「大丈夫?」

 一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。

「あ、ああ。俺は大丈夫だけど、駿がちょっと」

 そう、と相槌をうったみなの声は妙に静かで、また違和感を覚える。ふいに罪悪感がこみ上げ、「ごめん」と謝罪の言葉が唇をついて出た。みなが「なに謝ってるの?」と笑う。いつもの笑顔だ。

「駿なら大丈夫だって。駿ってね、中学のときから今まで一度も風邪ひいたことないんだから」

「いや、それは別に関係ないと思うけど」

「そうかな。あ、そっか、そうだね」

 今度は、彼女に合わせて笑うことができた。俺の横をすり抜け、保健室へ入ろうとしたみなが、あ、と声を上げて振り返る。浮かべた笑顔は崩すことなく、さらりと言った。

「昇降口で柚ちゃんが青い顔して待ってたよ。早く行ったほうがいいんじゃないかな」

 頭を殴られたような感覚がした。

 一瞬、目の前が真っ暗になる。みなには何も返すことができないまま、俺は駆け出していた。


 昇降口? 図書室の前で待ち合わせって言ってなかったか?

 そんな疑問が浮かんだが、深く考えている余裕はなかった。

 おそらく、図書室で待っていたが俺が来なかったため昇降口へ行ったのだろう。

 時間を確認することが妙に恐ろしく、時計は見ない振りをして昇降口まで走った。白柳の姿はない。誰もいない昇降口は、ぞっとするほど寒々しかった。

 胃が縮み上がるような思いで、俺は携帯を取り出し、白柳の番号を探す。指先が冷たく、ひどく重たい。携帯を握りしめる手に汗が滲んだ。三回目のコールのあと、電話は繋がった。


『先輩?』

 全身の力が一気に抜けて、その場にへたりこみたくなった。ふと視線を上げた先に、六時二十五分を指す時計があった。

「ごめん。ちょっと、さっき階段から落ちて」

 え、と電話の向こうで怯えたような声があがる。

『だ、大丈夫だったんですか? 怪我は?』

「大丈夫。下に駿がいて、なんとか受け止めてくれて」

『そうですか。よかった……』

 安堵のため息が、携帯の向こうから聞こえた。

「だから、ごめんな。一緒帰れなくて。今、どのへん? もうだいぶ前に帰ったのか?」

 そう尋ねたあと、不自然な間があった。「白柳?」と声を掛けようした直前に、

『あ……はい。いいですよ。そういうことなら、仕方ないじゃないですか』

 と、穏やかな声が返ってきた。それから『何も怪我はなかったんですか?』と続いた質問に頷くと、『それなら、よかったです』と笑みを含んだ声が聞こえた。


 そのとき、俺はふいに違和感を覚えた。なにか、おかしい。けれど、その違和感の正体について考えるより先に、携帯に当てた右耳とは逆方向から響いた明るい声に、意識がそちらへ逸れた。

 振り向くと、みなと駿がこちらへ歩いてきていた。どくん、と心臓が嫌な感じに跳ねた。理由のわからない恐怖が広がる。白柳、と呼びかけようとしたとき、静かな断絶音が鼓膜を揺らした。


 無意識のうちに、携帯を握る手に力をこめていた。通話が切れたことを伝える平坦な電子音に、指先からまた熱が逃げる。

「柚ちゃん?」

 いつの間にか、目の前に二人はいた。「先に帰っちゃったの?」と尋ねるみなの顔が、一瞬見知らぬ他人のように見えてどきりとした。

 頷くと、「じゃあみなたちと一緒に帰ろうよ」と明るく笑って、みなが言う。それは、いつもとなんら変わらない彼女の言葉なのに、ざわりと這い上がった恐怖から、思わず首を振っていた。

「いや、ごめん。俺、ちょっと白柳追いかけてみる。追いつくかもしんないし」

 二人が何か返すのを待たず、俺は走り出していた。


 夕日はほとんど沈んでしまっていて、辺りは薄暗い。風が頬を撫でていったけれど、それを心地良いと思う余裕すらなかった。

 カラスの鳴き声や、遠くから聞こえてくる電車の通過音がやたらとと耳についた。人影のない目の前に伸びる道を眺めながら、ふいに気づいた。さっきの電話越しの違和感。

 静かだったのだ。不自然に。

 風の音も、鳥の鳴き声も、電車の通過音も、何も聞こえなかった。

 白柳の家は、どんなに急いでも帰るには四十分はかかる。待ち合わせしていたのは六時だから、その直後に白柳が帰ったのだとしても、まだ家に着いているはずはない。

 頬に当たる風が、途端に冷たくなったように感じた。握りしめた手から力が抜ける。俺は呆然と、すり減った自分の靴のつま先を見下ろしていた。



 翌日、食堂で顔を合わせた白柳に、昨日のことをもう一度謝ると、彼女は柔らかく微笑んで首を振った。その笑顔の穏やかさが、俺には良い兆候だと思えなかった。

 今日も補講なのだと白柳は言った。やはり俺には図書室に行ってほしくないらしかったが、これまではほとんど俺と白柳がカウンターに座っていたのだ。二人とも行かないというのは困るのではないか、とふと思い

「白柳が行けない間、新井さんとかがちゃんと行ってるのか? 当番」

 そう尋ねると、「さあ。どうなんでしょう」と雲を掴むような返事が返ってきたことに少し面食らう。

「え、新井さん、行ってないのか? じゃあカウンター誰もいないんじゃね?」

 正直、新井さん以外の図書委員には期待できない。白柳は、気づいていなかったのか、「そうですね」と苦笑いを浮かべた。

「新井さんに頼んどいたほうがいいって。メールしとけば?」

 そう言うと、白柳は困ったように笑った。

「でも、瑛子ちゃんのアドレス、わかんないです」

「は? 交換したって言ってたじゃねえか」

「交換しましたけど、もう消しちゃいました」

 さらりと言い切った白柳の言葉に呆気にとられて、しばしぽかんと彼女の顔を見つめてしまった。

「は?」とふたたび間の抜けた声が溢れる。

 白柳はそんな俺の様子にはかまうことなく、事もなげに言葉を続けた。

「瑛子ちゃんのだけじゃないですよ。先輩以外のアドレスは、全部消しました」

 白柳の顔は、真っ白な画用紙のようだった。

 奇妙なほどに穏やかなその声に、ひどい息苦しさが襲う。一呼吸置いて、「なんで?」と静かに尋ねれば、彼女はふわりと笑った。

「だって私、先輩だけでいいんです。先輩さえいてくれれば、なんにもいらないんです」


 彼女の手首に巻かれた包帯が、真新しかった。

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