第6話 傷痕
まださほど遅い時間ではないはずだけど、覆う雲のせいで暗い空を見上げながら、「送っていくよ」と言えば、白柳は思ったとおりぶんぶんと大きく首を振った。
「そ、そんな、いいですよ! 家、遠いですし」
「だって傘ないんだろ。こんな中濡れて帰ったら風邪ひくぞ」
「大丈夫です、走って帰ればなんとか……」
「いいから送らせろよ。俺が心配なんだよ」
どうせこのまま続けて埒が明かなそうなやり取りをそう強引に終わらせれば、少し間を置いて「ありがとうございます」と小さな声で返ってきた。濡れた髪からのぞく耳が赤く染まっているのが、暗い中でもわかった。
「ところで、マジで何してたんだ? 今まで」
さっきは曖昧な答えしか返ってこなかった質問をもう一度してみたが、やはり白柳は困ったように「ちょっとすることがあったので」と答えるだけだった。
白柳の家は、たしかに遠かった。しかも込み入った住宅街の中にあり、帰りは一人で大丈夫だろうかと心配になりながら白柳に着いて足を進めた。
やがて白柳は、クリーム色をしたコンクリート造りの家の前で「ここです」と足を止めた。
「そっか。じゃあ、」
またな、と言おうとした声は、白柳が慌てたようにあげた「あのっ」という声に遮られた。
「ちょっと、あがっていきませんか」
うかがうように俺の顔を見上げて、恐る恐るといった感じで白柳は言った。
俺は、え、と声をこぼして、目の前の白柳の細かい表情が塗りつぶされてしまうほど暗くなった空にちらりと視線を移し、
「でも、もう遅いし、迷惑じゃないのか?」
「大丈夫です。うち、母も父も帰り遅くて」
少し迷ったが、白柳の顔が不安げに歪むのを見て、つい「じゃ、ちょっとお邪魔するか」と答えていた。
白柳はほっとしたように笑うと、鞄から鍵を出してドアを開けた。
リビングに通そうとした白柳は、扉を開けて中を覗き込んだあとで、あ、と声を上げてそのまま扉を閉めてしまった。
「あの、やっぱり私の部屋に……」
なんで、と尋ねれば、散らかってるので、と白柳は恥ずかしそうに笑った。
俺なら、リビングより自分の部屋のほうがとても見せられるものじゃないけどな、なんて思いながら頷くと、白柳は「こっちです」と言って二階へ上がっていった。
白柳の部屋のきれいさには、少し感動してしまった。床にも机の上にも、雑誌やらプリントやらがまったく散乱していない。水色のシンプルな柄のカーテンだとか隙間無く文庫本が並べられた本棚だとか、なんだかとても白柳らしい部屋だと感じた。
「適当に座っててください。今、お茶持ってきます」
そう言う白柳の制服に点々と黒い染みがあるのを見て、
「それより、先に着替えたほうがいいんじゃね? 風邪ひくぞ」
白柳は思い出したように自分の体を眺めて「本当ですね」と苦笑した。
それからクローゼットから適当に服を引っ張り出すと、「先輩、紅茶、大丈夫ですか?」と確認してから階段を下りていった。
とりあえず座ろうと部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルに歩み寄る。
落ち着かないほど綺麗に片づけられた部屋を見回していると、右足の小指に強い痛みが走り、がたんとテーブルが揺れた。うっかり蹴ってしまったらしい。拍子に、テーブルに隣接していた小さな棚までごとりと動いた。
こうも綺麗な部屋だと、少しでも置いてある物が動くだけでやたらと罪悪感を感じてしまう。やべ、と小さく呟き、動かしてしまった棚を元に戻そうとしたとき、棚と壁の僅かな隙間に一冊の大きな本のようなものが落ちているのを見つけた。
なんだこれ、とほとんど無意識のうちに拾い上げたそれには、立派な革の表紙に、『三ツ木町立三ツ木中学校』と書かれていた。卒業アルバムだ。
三ツ木中学校の名前は聞いたことはあった。俺の通っていた中学とわりと近い場所にあるため、中体連などのときにしばしば耳にしていた名前だ。
白柳は三ツ木中出身だったのか、とぼんやり考えたとき、自分が白柳について知っていることなんてほんのわずかなのだということが、唐突に強く感じられた。
手元の卒業アルバムを見下ろしているうちに、一年前の白柳はどんな感じだったのだろうと気になって、なんとはなしにアルバムを開いてみた。
まるでそのアルバムは、癖がついてしまっているかのように、開こうとせずとも中程のあるページが自然と開いた。
一瞬、呼吸が止まった。
目の前に広がる光景を理解するのに、数秒かかった。
見開き一ページに並ぶ一つのクラスの生徒達の顔写真。その半分以上の生徒は、顔がわからなかった。鋭利な刃物のようなもので、顔の部分が無惨に切り裂かれているからだ。
異様な光景に、体から血の気が引く。指先に触れるそのアルバムが、ぞっとするほど冷たく感じた。瞬間、人と話すのが恐いと言った白柳の細い声が、いやにはっきりとよみがえった。
咄嗟にアルバムを閉じようとした手が、一つの切り裂かれた写真の下にある名前を見つけて思わず動きを止める。見知らぬ名前の中で、俺が一つよく知る名前だった。
白柳柚という名前の上に載せられた写真も、他の数人の写真と同様に――いや、他の写真よりも酷く、引き裂かれていた。
激しい目眩が襲う。夢中でアルバムを閉じ、元あった場所に戻すと、いつの間にか口の中がカラカラに渇いていたことに気づいた。
ふいに視線をずらした先に、ハサミやら定規やらと一緒にペン立てに並んでいるカッターが目に飛び込んできた。
その光景は、何もおかしなところはない。俺の部屋にもカッターくらいああして置いてある。わかっているのに、急速に全身の体温がすうっと下がるのを感じた。
また、白柳の手首に巻かれた包帯の、瞼のうらに焼きついて離れない白さを思い出した。静かな部屋に、自分の心音だけがうるさかった。
先輩、と穏やかな声がドアの向こうから聞こえた。
「すみません、あの、手が塞がってて……。ドア、開けてもらえますか」
言われたとおりドアを開ければ、二つのティーカップの載ったお盆を持った白柳が立っていた。制服ではなく、上下ともグレーのジャージを着ている。
「ありがとうございます」と笑顔を浮かべて言う白柳を見て、少し混乱した。
俺は、一体白柳の何を知っているのだろう。
「お砂糖とミルクも持ってきましたから、苦かったら使ってくださいね」
紅茶と一緒に白柳が持ってきてくれたタオルで制服の裾を拭いながら、ありがとう、と返した。
きっと今飲んでもこの紅茶は味がしないだろうな、とぼんやり思いつつも口を付けると、驚くほど冷え切っていた体に、紅茶の温かさが優しかった。
「先輩、今日は本当にありがとうございました」
両手で包んだティーカップに視線を落としたまま、白柳はぽつりと言った。
明るい電灯のおかげで、彼女の顔色は先ほどまでよりずいぶん良くなったように見える。
「私、夢かと思ったんですよ。先輩が見えたとき。幻覚でも見てるのかと」
幸せそうに顔をほころばせていた白柳が、ふいに真顔になる。
「先輩?」と妙なものでも見るかのような目でこちらを見つめて首を傾げた。
なんでもないような顔を作れている自信はなかったが、どうやら俺は相当酷い顔をしていたらしい。「具合悪いんですか?」と心配そうに顔を覗き込む白柳に、いや、と短く答え、なあ白柳、と続けて呼びかける。
俺がやるべきことなんてわからなかった。ただ、無視してはいけないという危機感が急速に膨らみ、喉までせり上がってきたままに口を開いた。
「腕、見せてくれないか」
一瞬で、白柳の顔から一切の表情が剥がれ落ちる。
一呼吸置いて、え、と心底困惑した声が彼女の唇から零れた。
「どうして、ですか?」
引きつった声で尋ねる白柳の瞳が頼りなく揺れる。
彼女がその質問を言い終わるのを待たず、俺は手を伸ばしていた。
しかし、白柳も素早かった。テーブルの上に無造作に置かれていた左手に触れようとした瞬間、俺の手は驚くほどの強い力で振り払われる。
拍子に、がたんとテーブルが大きく音を立て上下に揺れた。その上に置かれていたティーカップも、当然テーブルに合わせて跳ねた。
なみなみと注がれていた紅茶が、半分ほど染み一つなかった真っ白なテーブルの上に広がり、数滴床に敷かれたカーペットに落ちていった。
「ごめん、なさい」
白柳が口にしたその謝罪の言葉は、何に向けられていたのかわからなかった。
零れた紅茶は目に入っていないように、自らの左手をぎゅっと握りしめて俺を見る白柳の目には、これまで見たことがないほどの恐怖があった。
行き場を失った右手をテーブルの上で握りしめ、「なにが」と尋ねても、白柳はもう一度同じ言葉を繰り返しただけだった。
「ご、めんなさい、違う、違うんです」
「違うって、なにが」
ひどく混乱する頭とは反して、喉を通った声は不思議なほど落ち着いていた。
白い手がぐしゃりと白柳のまだ乾ききっていないまっすぐな髪を握りしめる。上げられた腕から、包帯が覗いた。
「なあ、お前、今日の放課後何してたんだ?」
何度目になるかわからないその質問は、無意識のうちに口から飛び出していた。白柳はただ黙って首を振る。
「俺のせいなのか」
繋がりのない断片的な質問。今度は、うまく語尾を跳ね上げ疑問系の形をとることができなかった。それは、心のどこかですでに認めていたからなのか。
白柳はくしゃりと幼い子どものように顔を歪め、大きく首を振った。
「違います、先輩のせいじゃないです。違うんです。私が、駄目だから、こんなんだから」
切り裂かれた白柳の写真が、彼女の手首に巻かれた包帯と重なり、気持ちが悪い。駄目。こんなん。白柳の言葉が耳に残る。
「お前の何が駄目なんだよ」
「だって私、うまく喋れないし、私といるより、先輩は園山先輩や高須賀先輩たちと一緒にいるほうが楽しいのはわかってるけど、でも私、どうしようもできなくて」
「俺がいつ、白柳といるよりみなたちと一緒にいるほうが楽しいとか言ったんだよ。白柳に、俺の感じてることはわかんねえだろ。俺は白柳と一緒にいると楽しいよ。ちゃんと言ったろ。俺は白柳が好きだって」
言葉は、絶望的なほど彼女に届かない。すべてをはねのけるように、ゆるゆると首を振る白柳を見ているうちに、ふいに泣きたくなった。
ごめんなさい、とどこか上の空で白柳が呟く。何を謝ってるのかなんて、きっと白柳自身もわかっていないのだろう。
「嫌いにならないでください」
少しでも叩けば崩れてしまうような、ひどく不安定で頼りない声。
先輩、と縋るように俺を見つめる白柳は、まるで迷子になった小さな子どものように見えた。
彼女には自分しかいないのだと、また唐突に強く感じた。きっと俺が縋りつくこの手を拒絶すれば、彼女は取り返しがつかないほどに崩れ落ちてしまう。馬鹿げた考えだと思う頭とは別の場所で、妙な確信があった。
「……ならないよ」
だから、大丈夫。言い聞かせる言葉は、白柳へ向けているのか自分へ向けているのか、よくわからなかった。
雨は、いつの間にか止んでいた。
薄暗い路地を歩きながら、俺は小学校の頃二年間だけ同じクラスだった一人の男子生徒のことを思い出していた。
同年代の他の男子よりも幾分体が小さく、性格も大人しかったためか、みんな彼に対してだけは遠慮を知らないところがあった。毎朝、宿題を写すために彼の席のまわりに人だかりが出来ていたのをよく覚えている。クラス委員だとか、面倒くさい役職はいつでも押しつけられていた。
やがて、持ち物を隠すだとか机に落書きをするだとか、陰湿な行為を始めた者がいた。主にそうやって具体的な方法で彼に攻撃していたのは、クラス内でも悪評の高い落ち着きのないやつらだった。
俺はそいつらに加担することはなかったけれど、彼を助けることもなかった。一度だって、手をさしのべたことすらなかった。どこかで、彼が虐げられるその光景を、当たり前のように感じていたのだ。気づいたときには彼はすでに“そういう”存在だったし、毎日のように繰り返される光景に、そしてそれを平然と眺めるだけのクラスメイトたちに、だんだんと感覚が麻痺していったように思う。
やがてみんな飽きたのか、彼への嫌がらせはしだいになくなっていき、中学にあがった頃には完全に消えた。それで全部終わったのだと思った。一時の、幼さから起こしてしまった過ちで、もう過ぎてしまったことなのだと。
実際、俺は、中学にあがってから今まで、あの頃のことを思い出すことなど一度もなかった。彼の名前も、顔も、自分が彼に対して行った仕打ちも、何一つ思い出すことはなかった。
きっともう少し時間が経てば、完全に記憶の中から消え去っていたのだろう。俺にとっては、その程度のことだった。すべてが過去の出来事だった。
白柳の、条件反射のように繰り返される、「すみません」と「ごめんなさい」。初めて会ったときの怯えた目。時折見せる、おそろしく不安定で頼りない表情。手首の包帯。アルバム。
頭の中で、かちりと合わさる音がした。
違ったのだ。彼はきっと、今まで一日として、あの頃の日々を忘れたことなどなかったのだろう。何年間も、ずっと、あの頃を引きずりながら生きていかなければならなかったのだろう。俺がすべてを記憶の底に追いやって、ただ呑気に生きてきた間も、ずっと。
今でも人と接することに怯え、自分を躊躇うことなく卑下するようになってしまった、白柳のように。
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