第5話 包帯
次に白柳と顔を合わせたのは、翌日の二限目と三限目の間の休み時間だった。
白柳の性格を考えれば、俺が白柳にとった態度の残酷さはわかったし、時間が経つにつれ後悔はますます重くのし掛かってきた。
それでも未だに耳に残る、白柳のみなと駿を非難する言葉が、昨夜白柳へ謝罪のメールを送ろうとした手を引っ込めさせてしまった。
「直紀、呼んでるぞ」
健太郎がそう言って指さした先には、教室の入り口でびくびくしたように体を縮めて佇む白柳の姿があった。
一学年違うだけで、周りの女子生徒とそう背丈は変わらないはずなのに、二年生に囲まれた中では、彼女は余計に小さく見えた。
一年生と二年生の教室では校舎も違うし、滅多に他学年の教室を行き来することはない。まして後輩が先輩を訪れることはさらに珍しいことだったためか、クラスメイトの数人が物珍しそうに白柳の姿を見ていた。
俺が驚いて白柳のもとへ行くと、彼女は泣きそうな目でこちらを見上げたあと、周りも気にせず勢いよく頭を下げた。
「昨日は、本当にごめんなさい」
教室の喧噪に掻き消されそうなほどか細い声で謝る白柳に、昨日から感じていた後悔が一気に突き上げる。
唐突に、昨日別れる直前に見た、白柳の悲痛な表情が鮮明に思い出され、膨らみこみ上げた痛みがそのまま唇を動かした。
「いや、ごめん。俺もちょっと言い方きつかった」
そう言うと、白柳は恐る恐るこちらの表情を窺うように顔を上げ、「許してくれますか」とまるで命乞いでもするかのように尋ねた。
頷けば、白柳はしばし俺の顔を見つめたあとで、ぎこちなく微笑んで、「あの、私……」と慎重に言葉を選ぶようにして続けた。
「まだ、先輩のこと好きでいてもいいんですか」
予期せぬ質問に少し戸惑いながらも「当たり前だろ」と返せば、ようやく白柳はほころぶように笑った。
「そろそろ教室戻ったがいいんじゃね? 一年の教室、遠いだろ」
白柳は素直に頷いて踵を返したが、少し歩いたところでふいに振り返った。「今日も、一緒にお昼食べてくれますか?」と不安げに尋ねる彼女に笑って頷いてやると、ほっとしたように満面の笑みを見せた。
それはいつもと変わらぬ白柳の笑顔だったのに、そのときはその笑顔を見た瞬間、重たい鉛のようなものが体の奥に沈み込む感覚を覚えた。
教室に戻ると、健太郎が妙な顔をしてこちらを見ていた。
「なんだよ」と聞けば、少し迷うような素振りを見せたあとで、
「さっきの子だよな? 直紀の彼女」
「そうだけど」
健太郎の俺を見る目は、どこか奇妙なものを見ているかのような色があった。
「ちらっと見えたんだけど、あの子、左の手首に包帯巻いてたぞ」
すうっと口の中が乾いて、冷たい唾が喉を滑り落ちていった。
「直紀は気づかなかったのか?」という健太郎の問いに、咄嗟に何も答えることが出来ず、間を置いて小さく頷いた。
「いや、別にただ怪我しただけかもしれないけど。なんか気になったから。あの子、ちょっと様子おかしかったし」
健太郎が言葉を続けるたび、全身に冷たいものが広がる。白柳の満面の笑みが、いやに鮮烈に瞼のうらに浮かんだ。ほっとしたように、嬉しそうに笑ったその笑顔が、せわしなく頭をめぐる。
「俺の考えすぎだと思うけど」という健太郎の言葉は耳に入ったが、自分が何と返したのかよくわからなかった。
昼飯のときに、気を付けて見れば、すぐに見つけた。白柳の少し大きめのブレザーの裾から覗く包帯は、目に焼き付くように真っ白だった。
「白柳」と呼ぶ声が少し掠れた。
「腕、どうした?」
聞いておきながら、白柳の答えを聞くのは嫌だと思った。
箸を止め、顔を上げた白柳は、一瞬、何のことを言われたのかわからない、という表情になった。それから思い当たったらしい彼女の顔がさっと強ばり、自らの左手に視線が移る。反射的に左手を隠そうと動くのがわかり、思わず手を伸ばし、彼女の左手を掴んでいた。
「なあ、どうしたんだよ、これ」
必死に落ち着いて尋ねようとする声とは対照的に、白柳の左手を掴む手には無意識のうちに力がこもった。その手の白い色を見たくないと思った。なのに、貼り付いたように俺の視線は白柳の左手首から離れようとしない。
「あの、昨日、ちょっと怪我しちゃって……」
その言葉を信じたいのに、目の前の真っ白な包帯が白柳の言葉をはね除ける。「昨日」と思わず彼女の言葉を繰り返していた。
昨日。やっぱり昨日なのか。
白柳の手を掴んでいた右手から力が抜ける。白柳は戸惑うように俺を見た後で、そっと自然な動作で左手を膝へ置いた。
重たい沈黙が落ちる。二つ席を挟んだ向こうに座る二人の女子生徒の笑い声が、やたらと大きく聞こえた。
やがて白柳が俺の弁当箱を指して、「あ、そのエビフライ、美味しそうですね」と沈黙を破った。白柳の笑顔はぎこちなかったが、それに笑い返した俺にも、うまく笑えた自信はなかった。
放課後図書室へ行くと、カウンターを挟んで話しているみなと白柳の姿があり、心臓が跳ねた。
早足で二人のもとへ行ったが、白柳の様子は普通だったことに少し拍子抜けする。一方的にみなが話しかけているようだが、白柳はきちんと顔を上げ、みなの話に相槌をうっているのが見えた。
「あ、直紀―」
俺に気づくと、みなはいつものように声量は絞ることなく俺の名前を呼んだ。見れば、二人とも携帯を握っている。
「今ね、柚ちゃんと連絡先交換してたんだ」
あっけらかんと言ったみなの言葉に、思わず「なんで」と自分でも驚くほどの強い口調で返してしまい、みなも驚いたように眉を寄せた。
「なんでって、だって柚ちゃん、直紀の彼女だもん。友達の彼女さんとは友達になりたいし」
駄目なの? と不思議そうに尋ねるみなに、昨日の白柳の言葉が、嫌になるほど鮮明に蘇る。
「いや、べつに駄目じゃないけど」
そう答えながら白柳に目をやると、彼女はなんだか決まり悪そうに小さく笑った。
「交換したのか?」とつい白柳に尋ねてしまうと、「だからしたって言ってるじゃん。直紀ってば変なの」と横からみなの怪訝気な声が飛んできた。
「あ、それよりね、今日はちょっと直紀にお願いが」
みなは携帯をスカートのポケットに無造作に突っ込むと、足下に置いていた紙袋を拾い、中から一枚のプリントを取りだした。
「これ! このアンケートに協力してほしいんだけど、いいかな?」
見ると、はいといいえの二択で答える質問が十問ほど並んでいるとく特に難しそうなものではないし忙しいわけでもなかったため、頷くと、アンケートを受け取って近くの机に座った。
「それね、総合の時間にやってるグループ研究の一つなんだー」
幽霊はいると思いますか、血液型占いは信じますか、という質問者の意図がよくわからない質問に回答していっていると、向かい側に座ったみながそう説明した。
「何の研究してんの?」
「んーとね、超能力は本当にあるのかどうか!」
研究内容を聞くと余計にこのアンケートが何を聞きたいのかわからなくなったが、とりあえず全ての質問に答えてみなに用紙を返した。
「ありがと! さて、今から集計してみよっと」
そう言って、みなは紙袋からアンケートの束を取り出した。聞けば、みなのクラスの全員と、他のクラスの知り合いに手当たり次第に答えてもらったらしく、軽く五十枚はある。
カウンターのほうを見ると、白柳の隣に新井さんが座っているのが見えたため、「手伝おうか」と言うと、「本当? ありがとう!」とみなは顔を輝かせ、遠慮無く半分ほどのアンケートをこちらへ寄越した。
質問は二択だが、質問数が多かったため集計はなかなか重労働だった。
全部の集計が終わったときには、すでに時計は五時を指そうとしていた。
今からアンケートを職員室まで届けにいく、と言うみなについ流れで手伝うと言ってしまったあとで、ふと白柳が気になって目をやった。カウンターで、新井さんとの会話に花が咲いている様子だった。
「白柳、ちょっと職員室までこれ届けに行ってくるな」
そう声を掛けると、白柳は不安そうな表情で俺とみなの顔を見比べたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて「はい」と答えた。すぐ戻るから、と言おうとしたが、白柳が「あ、あのっ」と急いで遮り、言った。
「先輩、先に帰ってていいですよ。私、今日は、瑛子ちゃんと帰ります」
白柳の言葉は、喜ぶべきものだった。そう話す白柳の顔にも、たしかに笑みがあった。それなのに、俺は白柳の笑顔を見ながら息苦しさを感じた。
白柳と新井さんが顔を見合わせて、笑い合う。ああ、だいぶ仲良くなったんだな。昼飯の件で気まずくはなっていないようでよかった。そう思いつつも、何か喉の奥に突っかかったような気持ち悪さが、図書室を離れることを躊躇わせた。
そんな俺の様子はあからさまだったのか、みなが俺の顔を覗き込んで
「直紀、そんなに柚ちゃんといっしょに帰りたかったのー?」
と悪戯っぽく笑った。
「残念だったねえ。直紀、かわいそー」とからかうみなに、「べつに、そういうわけじゃねえよ」と返したが、みなは「ふーん?」とますます悪戯っぽい笑みを広げただけだった。
白柳が新井さんといっしょに帰るというのは、いいことだ。心から嬉しいと思えることだ。それは間違いない。けれど、数時間前に見た、白柳の左手首に巻かれた包帯の白さが瞼のうらに焼きついて、消えなかった。
けっきょく、プリントを届けて職員室を出たあとに、すでに五時は過ぎていたが一度図書室へ戻ってみた。
みなは呆れたような顔をしながらも付き合ってくれた。閉館した図書室は暗く、そんな中に当然白柳の姿はなかった。
「だから、エイコちゃんと帰るって言ってたじゃん、柚ちゃん。今日の直紀、ほんとに変なのー」
本日は閉館しました、という立て札の前で、みなが苦笑しながら言う。みなの言葉に同意しながら踵を返してからも、波立つような焦燥はますます強くなるばかりだった。
「なーんか、雨降りそうだね」と廊下の窓から外を眺めて呟いたみなの言葉は、昇降口を出た頃には現実になっていた。
初めはぽつりぽつりと小さな粒を落としていたが、靴を履いて、傘は持ってきていたっけと考えているうちに本降りになっていた。
「ありゃりゃ。降ってきちゃった」
みなが鞄のファスナー引きながら言う。俺も鞄に手を伸ばしたが、そういえば一週間ほど前に傘を置いて帰っていたことを思い出し、傘立てに目をやると、見慣れた黒い傘を見つけた。
傘を差しているために少し距離を置いて並んで歩き出すと、雨音の中でもよく聞こえる声で「そういえば初めてだね、いっしょ帰るの」と楽しそうにみなが言った。
頷きながら、隣から聞こえる声の高さにどこか違和感を感じ、また白柳の手首の包帯を思い出した。無意識のうちに、学校を振り返っていた。
「直紀、歩き?」
「うん。みなは?」
「みなは電車なんだ。だからそこの駅までね」
うちの高校の交通の便の良さは評判で、みながそう言ったときには、すでに駅は見えていた。
けっきょく、みなと歩いたのはほんの五分ほどだった。ばいばい、と手を振るみなに、いつも別れるときに胸の前で小さく手を振る白柳の姿が重なり、思わず自分でも苦笑したくなる。
まばたきをするたび、一瞬浮かべた白柳の不安げな表情が思い出された。雨はますます強くなり、足を進めるたび地面にぶつかり跳ねた雫が制服の裾を濡らした。じわりと染みこむ冷たさに、体の奥まで冷たさが広がる。
あの二人は。
昨日聞いた白柳の声が、おそろしくはっきりと頭の奥に響いた。
先輩の友達なんですか。
ただ冷たく聞こえたその声がひどく不安定だったことに、なぜだか今になって気づいた。あのときの声に似ている。あのとき浮かべていた不自然なほどの無表情も。
先輩は、きっと友達たくさんいますよね。
昨日は本当にごめんなさい。
許してくれますか。
みなが呆れるだろうな、とぼんやり頭の片隅で思いながら、家を目前にしながら踵を返し、今歩いてきた道を戻り始める。自分でも、今の俺がとっている行動が馬鹿げていることはわかっていた。白柳は、新井さんと一緒に帰るのだと笑った。白柳には俺しかいないというわけでもないのに。それでも、まるで足は取り憑かれたように学校へと向かっていた。
木造の、かなり年季の入った大きな家の角を曲がれば、あとは一直線に学校の正門へ細い道が伸びている。
見通しの良いその道の向こうに、おかっぱ頭の女子生徒が見えたとき、知らず知らずのうちに早足になっていたのであろう、制服の裾が水を吸ってやたらと重たくなっていることにようやく気づいた。
なぜだか、それほど驚きはなかった。途端に足下の悪い中を早足で歩き続けてきた疲労が思い出したようにおそってきて、彼女のもとへ進めようとした足がひどく重たく感じた。
「白柳」
喉から出たのは、思いのほか小さな声だった。
それでも白柳にはちゃんと届いたらしい。一瞬動きを止めたあとで、ゆっくりと彼女は顔を上げた。濡れた髪から、揺れた拍子に水滴が落ちた。
「先輩……?」
惚けたような声で、白柳は呟いた。
ぽかんとした表情でこちらを見る白柳の頬を雫が伝うのを見て、今更自分だけが傘を差していることを思い出し、右手に握っていた傘を白柳のほうへ差し出した。
「何してんの。新井さんは?」
尋ねても、白柳はぼんやりとした表情で俺の顔を見つめているだけだった。
やがて、ようやく我に返ったのか
「あ、えっと、ちょっと用事があったので……」
と、もごもごと答えた。白柳はなにか言葉を続けたようだが、騒々しい雨音がかき消してしまった。
「先輩こそ、どうしたんですか」
未だ驚きが抜けきっていない声で尋ねる白柳の質問に、ふいに先ほど答えたアンケートを思い出した。
「俺、もしかして超能力あるのかもな」
傘の色が映っていつもより暗く見える白柳の顔をぼうっと眺めながらそんなことを呟くと、白柳はきょとんとした顔で「え?」と聞き返した。
なんでもない、と言って、
「ほら、行こ」
歩きだそうとすると、白柳は戸惑ったように
「え? なにか学校に用事があったんじゃないんですか?」
「いや、べつに」と答えると、「じゃあどうして戻ってきたんですか」と続いた質問に、思わず言葉に詰まる。
途端に恥ずかしさがこみ上げ、不思議そうにこちらを見つめる白柳から思い切り目を逸らしてしまった。
「まあ、暇だったから。ぶらぶらしてたらいつの間にか学校まで来てて」
我ながら苦しいなと心の中で苦笑する。
「いいから行こう。雨ひどくなるぞ」ともう一度促せば、白柳はこくりと頷き、俺の横に並んだ。
急いでいたためいつの間にか濡れてしまっていたらしい、頬に貼り付いた髪を払おうとした腕が、急に重くなった。
驚いて振り向くと、白柳がしがみつくように俺の腕を掴んでいた。
「白柳?」と困惑してその名前を呟けば、彼女は埋めていた額をより強く押しつけて、零れるように言った。
「先輩、大好きです」
誰に向けて言うでもない調子のその声は、傘に当たる雨の音の下でも、不思議なほどはっきりと耳に届いた。
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