第4話 後悔
翌日からの生活で、とくに変わったことはなかった。ただ、暇があるとつい図書室に行くようになってしまったことと、白柳がこれまでより遠慮することなく俺に話しかけるようになったぐらいだ。
みなには、クマのデコメについてのメールに返信するついでに、白柳とのことも報告しておいた。みなの質問にあんなはぐらし方をしたその日のうちにこんな展開になったと告げるのは何となく気恥ずかしかったが、一応は俺たちのことを気にかけてくれていたことだし、報告しておくのが義理だろう。
返ってきたメールは、「そっか、お似合いだと思うよ!」という彼女にしては随分落ち着いたものだった。
「先輩」
その日も、いつの間にか自然と足が向かうようになってしまった図書室へ行くと、白柳がすでにカウンターに座っていて、俺を見つけるとにっこりと笑った。
めずらしく、白柳の手元には本ではなく英語のプリントがある。
「めずらしいな。白柳が勉強してるとこはじめて見た」
茶化すと、白柳は少し恥ずかしそうに「明日、小テストなんです」と答えた。
「ふうん。じゃ、頑張らないとな」
「はい。でも、難しくてなかなか覚えられなくて……」
ひょいと覗き込めば、白柳の手元にあるプリントには英単語が二十個ほど並んでいた。それを食い入るように眺めている白柳に、「あのさ」と声を掛ける。
「英単語はさ、そうやって見てるだけじゃなくて、声に出して読むとか、書いてみたほうがいいんじゃね?」
俺も昔、英単語をひたすら眺めて覚えようとして苦戦していたことを思い出す。そのときに健太郎がしてくれたアドバイスをそのまま彼女に言うと、白柳は「そ、そうですね」と顔を赤くして鞄からノートを取り出した。
それから白柳はノートにひたすら英単語を書き始めたため、俺もいつものように、明日の予習をしようと鞄に手を入れた。
中学校の頃に一度だけ、一人の女の子を好きになったことがある。
とても明るく活発で、学級委員だとか大勢の部員がいるテニス部のキャプテンも務めていたような子だった。堂々とした姿勢だとか、誰にでも分け隔て無い優しさだとかがとても眩しかった。人混みの中でも、つい彼女の姿を探した。短い会話でも、彼女と交わすことが出来ればその日一日幸せな気分でいられた。
結局、彼女は他クラスの、これまた学級委員や部活のキャプテンを務めているような一人の男子生徒と付き合い始め、この気持ちは伝えることはなく、いつの間にか消えていたけれど。それが俺の、これまでの人生ではっきりと恋をしたと言える人で。
白柳に抱く気持ちは、明らかに中学の頃のあの子への気持ちとは違う。ただ、白柳と過ごす空気は心地良かった。会話はそんなに弾むことはないけれど、退屈は感じない。沈黙も気にならない。一緒にいたいと思えた。白柳の問いに頷くことに迷いはなかったし、それは今も同じだ。
誰かに言われるまで自分の恋に気づかないほど、自分が鈍感だとは思わなかった。
白柳が必死にノートに走らせていたシャーペンを置いて、うーんと大きく伸びをした。見ると、ノートが一ページ、英単語で埋まっている。
「お、頑張ったじゃん。覚えたか?」
「はい、だいたい」
「よし、じゃあテストしてやろう」
「え?」
言うと、白柳は少し焦ったように「あ、も、もしかしたらよく覚えてないところもあるかも……」などと慌てて保険を作っていたが、気にせず机の上のプリントを取り、並んだ単語を眺める。
「portion」
「え、えーと……確か、えっと、分配する、でしたっけ?」
「正解。じゃあ次、serious」
「えーと……重大な?」
「やるじゃねえか。ちゃんと覚えてんじゃん」
そう言うと、白柳は照れたように笑って「先輩の勉強法のおかげです」と言った。
ああ、俺は白柳のあの笑顔が好きだ、とても。唐突にそんなことを思う。白柳が嬉しいなら俺も嬉しいと、そんなことすら心から思える。俺は、自分で思っているよりずっと、白柳のことが好きなのかもしれない。
「先輩」
放課後図書室へ行った日は、白柳と一緒に帰ることも、いつの間にか当たり前になっていた。並んで歩いていると、思い出したように白柳が声を上げた。
「あの、お、お願いがあるんですけど」
「ん?」
例によって、白柳はしばらく言い出しにくそうに意味もなく髪を触ったりと忙しない行動を繰り返していたが、さすがに俺もこれだけで白柳のお願いを察することは無理だ。「なに?」とまた俺なりに精一杯優しく尋ねてみると、白柳は「あのっ」とようやく決心が固まったらしく顔を上げた。
「お昼ご飯っ、一緒に食べたいです、先輩と」
いいよ、と軽く頷こうとして、ふとつい最近できた白柳の友達の存在を思い出す。
「俺はいいけど、お前、新井さんはどうすんの? 一緒食べてんだろ?」
「大丈夫ですよ。瑛子ちゃんには、私以外にも友達いますし」
「いや、でもさ、気まずくなるんじゃね? せっかく仲良くなれたのに」
俺の言葉に、白柳の顔が泣き出しそうに歪むのを見て、「いや、そりゃ俺も白柳と一緒に食べたいけど」と慌てて付け加えれば、ほっとしたように白柳は笑った。
「瑛子ちゃんのことは、心配ないですから」
白柳がそう言うのなら俺がそこまで気にすることもないか。そう思い「わかった。じゃ、一緒食べような」と答え、明日からは食堂で食べることを申し合わせて、白柳とは別れた。
翌日、食堂で白柳の姿を探してみたが見あたらなかったので、先に窓際の空いていた席に座っていると、すぐに白柳が弁当を抱えてやって来た。
「よかった、先輩、ちゃんと来てくれて……」
心底ほっとしたように呟く声が聞こえ、案外俺は信用されていないのかと少し傷ついたが、
「また先輩と一緒にご飯食べられて嬉しいです」
と臆面もなく言う白柳の言葉に、思わず「俺もだよ」などとさらりと言い切ってしまった。
今日は弁当を持ってきていないため俺が昼飯を買いに行こうとしたとき、とん、と俺の隣に一つの弁当箱が置かれた。
「ご一緒していい?」
尋ねたのは、駿だった。
尋ねておいて俺の返事は聞くことなく、彼はさっさと俺の隣に座る。断る気はなかったが、ふと白柳が気になって目をやると、思った通り、強ばった表情を浮かべて駿を見ていた。
「あ、友達。こいつもいいやつだから、大丈夫だぞ」
そう紹介したが、白柳は相変わらず強ばった表情のまま小さく微笑んだ。駿は「うんうん」と頷くと、構わず「なあ」と白柳に向かって話しかけた。白柳はあからさまに肩を震わせて「へっ?」と声を上げたが、駿は気にすることなく
「直紀と付き合ってんだって?」
と弁当の包みを開けながら尋ねた。白柳は俯いたまま「は、はい」と細い声で答える。「直紀って優しいのか?」などと本人を前に失礼なことを駿が続けて尋ねると、また白柳は俯いたまま小さく頷いた。
「駿、一人なのか? みなは?」
「あー、あいつ、昨日バイトのやつらと飲み会だったらしくて、今日は二日酔いで学校来てねえ」
「二日酔いって……」
当然のように話す駿の言葉に思わず呆気にとられる。
「なんだ、直紀、弁当ないのか? 早く買ってこいよ」
そう言われ、相変わらず俯いたままの白柳が少し心配だったが、席を立った。顔を上げて、まるで助けを求めるような目でこちらを見る白柳に苦笑し、「じゃ、ちょっと行ってくるな」と、声を掛けてから歩き出すと、「あ、そういや名前なんだったっけ?」と、駿がみなとよく似た人懐っこい口調で白柳に尋ねているのが聞こえた。
カツ丼を手に二人のもとに戻ると、いつの間にか白柳は顔を上げて駿の話に相槌をうっていた。早くもだいぶ打ち解けたらしい。さすがだな、と感心しつつ席に戻ったが、白柳は俺を見てどこかほっとした表情を見せたため、やはりまだ慣れてはいなかったようだ。
「今さ、直紀はラーメンに例えると何っぽいかって話をしてたんだよ」
な、と駿が白柳に言うと、白柳は申し訳なさそうに俺のほうを見ながら小さく頷いた。別にそんな申し訳ない顔するような話題じゃないと思うが。
「変な話してたんだな。で、俺は何ラーメンなわけ?」
「いやいや、そりゃ言えねえよ」
「はあ? 別に隠すようなことじゃないだろ、そこ」
けれどあまり気になることでもなかったため聞きだそうとも思わず、その話はそこで終わった。
それから三人で昼食を食べたが、白柳は一言も喋ることはなく黙々と弁当を口に運んでいた。
しばらくして、駿が突然「ああ」と声を上げ、
「今気づいたけど、なんか俺、なかなか邪魔者じゃね? 空気読めてなかった?」
「え、お前気づいてなかったわけ?」
そうだな、なかなか邪魔だな、と続ければ、駿はあははと笑って「ごめんなー」と白柳に向かって言った。白柳は頷くでも首を振るでもなく、ただ曖昧に笑っていた。
駿は次の授業が体育だということで、食べ終わるとすぐに食堂を出て行った。俺も次は移動教室だったため、駿が席を立ってすぐに俺も立ち上がった。
教室に戻る途中、白柳が「あの人」とぽつりと呟いた。見ると、まるであの日のような、無表情な横顔があった。
「あの人って、この前図書室来てたあの女の先輩と仲良いんですよね」
あの人。あの女の先輩。ひどく余所余所しい響きだった。
「駿とみなのことか?」
こくりと首を縦に振り、
「私、あの二人、あんまり好きじゃないです」
そう一息に続けた。
白柳らしくない、はっきりとした口調だった。
「なんで。まあちょっと空気読めなかったり人の話聞かないところはあるけどさ、いいやつだぞ、二人とも」
言うと、白柳は不快を示すかのように眉を寄せた。
「なんだよ、さっき駿のやつ何か嫌なことでも言ったのか?」
少し間を置いて、白柳は「そんなことはないですけど」と首を振った。
その声には、どこか俺を責めているかのような色があった。
「じゃあなんだよ」と尋ねた声に、苛立ちが混じるのを感じた。
「あの二人は」
白柳は俺の問いには答えず、どこを見ているのかわからない目をただまっすぐ前に向けたまま続けた。
「先輩の友達なんですか」
今度は、はっきりと非難の色が表れたその言葉に、微かに感じていた苛立ちが膨らむ。
「ああ」といささか憮然として答えれば、俺の苛立ちと比例して白柳の苛立ちも増していくようだった。白柳がふたたび口を開きかけるのがわかって、思わず俺は彼女の言葉を遮って話し出していた。
「別に、あいつらに何かされたわけじゃねえんだろ? じゃあそこまで嫌うことねえんじゃねえの? 白柳は、ちょっと恐がりすぎなんだよ。みんな、そんな悪いやつじゃねえって」
「だって」
それは、白柳のものとは思えないほど激しい口調だった。
「あの二人、ちょっとおかしいですよ」
今度こそ、ぐらぐらと煮立っていた怒りが弾けるのを感じた。
「やめろよ」と低く言えば、頑なに視線を合わせようとしていなかった白柳が、ようやくこちらを向いた。
「何回か話したくらいであいつらの何がわかるんだよ。そういうさ、本人がいないところでいろいろ言うのって、なんか気分悪い。お前がそんなこと言うとは思わなかったな」
一瞬で、白柳の表情は、苛立ちからまるで絶望の底に叩き落とされたようなものに変わる。足を止め、右手で自分の口を覆う彼女の姿は、先ほどより一回りほど小さくなったようにさえ見えた。
先ほどの冷たい声からは一転して、「ご、ごめんなさい」と謝る声は今にも泣き出しそうに弱々しかった。
「ごめんなさい、私――」
白柳の言葉を、予鈴が遮った。
怯えたように俺を見つめる白柳に、いいよ、と笑いかけることはできなかった。白柳の、みなと駿を罵倒したあの言葉が、まだはっきりと耳の奥に残っている。一度膨らんだ怒りは、そう簡単に冷めてはくれなかった。
「次移動教室だから、もう行くよ」
踵を返し、教室まで歩く間、白柳が強い口調で言い切った言葉と、最後に見た幼い子どものように歪んだ彼女の顔が頭をめぐっていた。
やがて、じわりと先ほどとった白柳への態度に後悔が広がったが、それでも、まるで耳の奥に貼り付いたように離れない白柳のひどく冷たい声に、その日は足が図書室から遠のいてしまった。
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