第3話 告白
白柳からのしょーもないメールはなかなか来なかったが、代わりに、園山さんと駿からはしょっちゅう他愛のないメールが送られてきた。
健太郎があまりメールは送らないやつだったため、途端に俺はメールの返信に忙しくなったように感じた。
その日も、「心霊番組を見ていたら怖くなった」ということで園山さんとメールのやり取りを続けていると、唐突に呼び方の話になり、「園山さん」という呼び方はなんとなく他人行儀だから「みな」と呼んでほしいと言われた。
断る理由もなかったため頷くと、やたらと嬉しそうな文面のメールが返ってきて、そろそろ寝るということでそこでやり取りは終わった。
下の名前で呼び合うような親しい女友達はこれまでいなかったが、試しに彼女の名前を呟いてみれば、園山さんだからか、あまり違和感なくするりと紡ぐことが出来た。
白柳から初めてメールが送られてきたのは、アドレスを交換した一週間後のことだった。
明日、図書室に来て欲しいというごく簡単なものだったため、こちらも了承の意を伝える短いメールを返して、終わった。
「
図書館で顔を合わせるなり、白柳は顔を輝かせてそう告げた。
俺がいきなり耳慣れない名前が出てきたことに一瞬ぽかんとしてしまうと、白柳が「あ」と思い出したようにあわてて説明する。
「新井さんの、下の名前、瑛子ちゃんっていうんです。昨日、瑛子ちゃんが私のこと、柚ちゃんって呼んでくれて、私に瑛子って呼んでいいよって」
白柳は、白い携帯を宝物のように握りしめたまま、心底嬉しそうに笑っていた。立派な進歩に、俺は思わず彼女の頭に手を伸ばしていた。
「おー、よかったな」
くしゃくしゃと白柳の頭を撫でると、白柳は、へへとはにかむように頬を染めた。「それで、」と白柳は早口に続ける。
「今日、一緒にお昼ご飯食べたんです、瑛子ちゃんと。明日も一緒に食べようねって約束までしちゃいました」
予想外の進歩に、思わず「やるじゃねえか」という言葉が唇をついて出た。「はい!」と頷いた白柳は、どこか誇らしげで、自然と笑みが零れた。白柳が明日から一人で昼飯を食べることがなくなったのなら、それだけでも充分だ。
白柳が小さな声でなにか呟いた。「え?」と聞き返すと、「友達」とさっきより少しだけ大きめの声で躊躇うように白柳は言った。
「友達に、なれたんですかね……私たち」
不安げに俺を見上げる白柳に、大袈裟なほど大きく頷いてやった。
その日は久しぶりに、図書室にあの良く通る高い声が響いた。
相変わらず「図書室では静かに」と大きく書かれた紙は無視して俺の名前を呼ぶ彼女に、注意しようと口を開き、園山さん、と呼びかけたところで思い出し言い直した。
「みな、だからちょっと声大きいって」
「あ、ごめんねー」
へらっと笑って謝る彼女に、反省の色は全く見えない。
「なんで直紀、今日も図書室いるの? 今日って当番の日じゃないよね? 水曜日だし」
「まあ、暇だったから」
ふうん、と相槌をうったみなの視線が、俺の隣にずれた。
「こんにちはー」と唐突に声を掛けられ、隣に座っていた白柳が驚いたように体を固くするのがわかった。
「直紀のお友達なんだよねー? 名前なんていうの?」
「え、あ……し、白柳柚、です」
「柚ちゃんかあ」
いつものように人懐っこい笑みを浮かべるみなの顔をおどおどと見ている白柳に、みなの名前を教えて友達だと紹介した。
そのとき司書の先生から一人書庫の片づけを手伝って欲しいとの声が掛かり、助け船だとばかりに白柳はそそくさとそちらへ行ってしまった。
そういえば、どこか違和感があると思えば、今日は駿の姿が見あたらないことに気づく。
「あれ? 今日は駿と一緒じゃないのか?」
「うん。駿、優クラだから、放課後に特別の補講があってるらしいよ。大変だよねー」
「ああ、なるほど」
健太郎の彼女、桜さんも優クラと言われる一組――成績優秀者の集まるクラスに在籍しているため、一組だけの特別な補講のせいで桜さんと一緒に帰れないと健太郎がいつだったか嘆いていたのを思い出す。
「そういや、駿も一組だったんだよな。頭良いんだ、駿って」
「駿はすごいよー。中学のときなんて、福浦高校にも行けるくらい成績良かったんだよ。でも交通の便が悪いからって、こっちに来たんだよ。ちょっと勿体ないよね」
そう話すみなの声を聞きながら、ふいに、みなは家族だと言った駿の言葉を思い出した。
何故だかわからないが、不思議なほどはっきりと思い当たった。
駿が福浦高校ではなく、この高校へ来た理由。本当に、みなの言う交通の便が理由なのかもしれない。しかし、唐突に思い浮かんだその考えには根拠のない自信があった。
きっと駿は、みなと同じ高校を選んだのだ。
「……駿とみなって」
「ん?」
「中学からの付き合いなんだよな?」
「そうだよー。すごく気が合ってね、すーぐ仲良くなったんだ。みな、初めてだったなあ、あんなに一緒にいて楽しいって思える人」
まるでその言葉は、恋人について語っているようだ。二人の相性の良さは近くにいれば十分にわかるほどなのに、そこまで気の合う二人が親友で止まっていることが不思議に思えた。
「二人ってさ、今まで一度も付き合ったりはしてないのか?」
なんとはなしに尋ねてみたその質問に、目の前のみなの笑顔が消えることはなかったが、すっとどこか違う色を帯びるのを感じた。
「ないよ、一度も」
あっけらかんと返された答えは、いつもと同じ彼女の声だった。
「だってね、駿はー、ほら、あれだよ、家族だもん。家族と付き合ったりしないでしょ?」
その言葉は、駿のものと同じだった。明るいその声が、家族という言葉を紡ぐそのときは、不思議なほど重たく聞こえた。
一度心臓が大きく拍を打ち、じわりと後悔が広がる。
なにか話題を変えようと口を開きかけたが、それより先に「そういえば」とみなが話し出した。
「あの子――柚ちゃんだっけ。直紀、最近よく柚ちゃんと一緒にいるよね。もしかして、付き合ってるとか?」
まったく思いも寄らなかった質問に、思わず「は?」と素っ頓狂な声が漏れた。
「いや、違うけど」
答えても、みなは変わらず悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、俺の目を覗き込んできた。
「なーんだ、そっか。直紀、柚ちゃんのことどう思ってる?」
「どうって」
「好きなの?」
いつもと変わらぬ軽い口調でずばりと尋ねるみなの言葉に、思いがけなく心臓が跳ねた。
咄嗟に返す言葉が思い浮かばず、言葉に詰まった。
みなの表情が、笑顔から眉を寄せた怪訝気な顔に変わる。
白柳のことをそういうふうに意識したことはなかったけれど、みなの質問に動揺している自分に驚いていた。
――好きなの?
肯定する気はなかったはずなのに、その質問に首を振るのにも抵抗を感じた。
「好きって、そりゃ」
不自然なほど間を置いてしまったのはわかっていたけれど、何とか普通に軽く返す。
「好きっちゃ好きだけど。良い子だと思うし」
みなの眉間の皺が深くなった。彼女がなにか言おうと口を開きかけたのがわかったが、思い直したらしくふたたび唇を結ぶと、「まあいいや」とため息混じりに呟いた。
「じゃ、みな、そろそろ帰ろっと」
「なんだ、本借りにきたんじゃないの?」
「んー、そのつもりだったけど、やめた。なんか本読む気分じゃなくなったー」
あっそ、と返すと、やたら不機嫌に「じゃっ、バイバイ!」と言い捨ててみなは歩いていった。
入れ違いに、白柳が戻ってきた。おそらくみながいなくなるのを待っていたんだろうけど。
「みなは悪いやつじゃないから、大丈夫だぞ」
明らかにみなに対して怯えていた白柳に、戻ってくるなりそんな言葉をかけると、白柳は一瞬、奇妙なほどの無表情で俺の顔を見つめた。
それから視線を足下に落とし、無理矢理に口角を持ち上げたような笑みを浮かべ、「そうですか」と小さく言った。
白柳の反応に少し面食らったが、すぐに白柳は右手に持っていた本を俺に見せて、ずっと読みたかった本を書庫で見つけたのだと柔らかく笑ったため、俺も、よかったなと笑顔で返した。
その日、閉館の時間が近づくにつれて、白柳はやたらと時計に目をやっていた。なにか用事でもあるのかと気になり尋ねてみると、彼女は、何でもありませんとあわてて首を振った。
「せっ、先輩!」
白柳がそう切羽詰まったような声をあげたのは、司書の先生が閉館の五分前を告げたときだった。
「ん?」
目が合うと、白柳は急いでうつむいた。まっすぐな黒髪の隙間から覗く耳が、赤く染まっているのが見えた。
「どうした?」と出来るだけ穏やかに尋ねる。白柳は、まるで祈るように両手を胸の前で握りしめ、「あの……」ともごもごとした口調で話し出した。
「きょ、今日、一緒に」
そこまで聞いて、思い当たった。
「ああ、一緒帰るか。家近かったしな」
先にそう言えば、白柳はぱっと顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「はい!」と大きく頷く白柳を見て、俺の予想がどうやら外れていなかったらしいことにひとまず安心する。
頷くなり白柳は早くも帰る支度を始めたので、俺も机の上の教科書類をまとめた。
今日の新井さんとの昼飯はどうだったのか聞いてみると、白柳は楽しそうに新井さんと交わした会話の内容を教えてくれた。相変わらず本の話題が中心だったようだが、それが白柳と新井さんなのだろう。当人達が楽しいのなら何でもいいのだが。
「今度さ、俺にも面白い本教えてよ」
そう言うと、白柳の瞳が輝いた。
「は、はい! 先輩も、本読むの好きなんですか?」
「いや、そうでもないけど、なんか白柳があんまり楽しそうに喋るから、ちょっと読んでみたくなった」
白柳は少し恥ずかしそうに笑った。それから、「何が一番面白かったかなあ」と呟いて、さっそく俺に勧める本に思いを巡らせ始めたようだった。
十分ほど歩いた頃だった。
ピピピ、という連続した電子音が、静かだった畦道でやたらと大きく響いた。
短く鳴ったあとですぐに途切れたため、どうやらメールだろう。確認しようかと鞄に手を入れかけて、止めた。
すると隣から、「いいんですか」と遠慮がちな声がかけられた。
「メール、みたいですけど……」
「いいよ。メールなら急用じゃないだろうし。それに、どうせまた駿かみなだろうし」
ここ最近のメールの受信状況といえば、九割方その二人が占めている。
しかし、白柳はおそらくメールを放っておくのは気になって仕方ない性分なのだろう。「でも、もしかしたら大事な用事かもしれませんし……」と言うので、とりあえず送信者を確認すれば、予想通り、園山みなという名前が表示されていた。
「あ、やっぱみなか。つーか、さっきまで一緒いたのに」
携帯を開いたついでにメールの中身も見てみたが、ポップなクマの絵の下に「見て見てー、可愛いデコメ見つけた!」という文が添えられた、いつも通りの他愛ないメールだった。
携帯を閉めて横を向くと、白柳がどこか呆けたような表情でじっと俺の顔を見つめていた。
「どうした?」と尋ねると、白柳はぼんやりと俺の手にある携帯を見つめたまま、
「さっきの人、ですか」
と呟くように言った。
少し困惑しつつ頷くと、白柳は黙って自分のつま先に視線を落とした。
短い沈黙があって、「先輩は」と白柳はふたたび口を開いた。
「きっと、友達、たくさんいますよね」
何の表情も浮かんでいない横顔と同様に、抑揚のない声だった。
べつにそうでもないけど、と答えようとした声がうまく喉を通らず、しばらく風に揺れる白柳の髪をただ眺めていた。
夕日に照らされた白柳の横顔が、ふいに視界から消える。視線をずらせば、白柳はうつむいたまま足を止めていた。
「白柳?」
「――先輩」
その声は、恐ろしく真剣だった。
顔を上げた白柳の目が、まっすぐに俺を見据える。
その視線は、目を逸らすことを許さなかった。不自然なほどに無表情だった彼女の顔が、少し歪む。
「先輩、私のこと、好きですか」
するりと白柳の唇がそう紡いだ。
ほんの数センチメートル先の白柳を、ひどく遠くに感じた。
白柳の顔に浮かぶのは、恥じらいだとか緊張ではない、追いつめられたような焦燥と苦悶だけだった。
突き上げたものは、ひどく冷たい恐怖だった。
目の前の少女が、今にでも壊れてしまいそうに見えて、気づけば手を伸ばしていた。彼女に触れずにはいられなかった。まるでこの場に繋ぎ止めようとするように、掴んだ肩は思いのほか細く、また恐怖が広がる。
ふいに、先ほど聞いた、みなの言葉を思い出した。――柚ちゃんのこと、好きなの。
結局まだ答えは出ていないのに、突き上げた衝動のままに抱き締めた体の温もりに、安堵すると共に唇が動いた。
「好きだよ」
奇妙な感覚だった。まるで、彼女を助けられるのは世界で俺だけなのだという馬鹿げたことすら考えてしまうような。
腕の中の体は確かに温かいのに、胸に広がるのは冷たい恐怖と焦燥ばかりだった。そんな冷たさを掻き消すように、ただ温かい彼女だけを求めて抱き締める腕に力を込めた。ふふ、と腕の中で白柳が笑った。耳をくすぐるその声は、紛れもない、白柳の声で。
「私も、好きです、先輩」
はにかむような白柳の声に、ふいに泣きたくなった。
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