第2話 友達
健太郎がいきなり思い詰めた表情で「今日は直紀と一緒に昼飯を食べられない」などと言ってきたので、彼がこれ以上何も喋り出さないうちに「はいはい、
健太郎の、まるで世界の終わりみたいな顔を最初に見たときは焦ったものだが、今は驚くだけ無駄だということがよくわかっている。
彼がそういう顔をして俺に告げるのは、「一緒に昼食を食べることができない」だとか「一緒に帰れない」だとかそんなことばかりだ。
そしてその理由の全てが、健太郎が一年前から付き合っている、今でも熱々の恋人――桜那津子との約束のためだ。
いいやつだということはよく分かるのだが、健太郎が桜さんにべた惚れなことは充分わかっているし、友達より彼女を優先するなんてとくに責められることでもないだろうし、そこまで深刻な顔をされるとさすがに疲れる。
毎日でも桜さんと一緒に昼飯を食べて、一緒に下校したいだろうに、ちゃんと俺と過ごす時間を作ってくれているのが健太郎の気遣いなのだろう。
「俺、食堂行くから、桜さん、こっちに呼べば?」
「ああ。すまない直紀」
「いや、別にいいって。いつも言ってるけど、お前、ちょっと気にしすぎだから」
最近、俺は一体桜さんからはどう思われているのだろう、と気になってきた。健太郎の気遣いは、まるで俺が健太郎と一緒に昼飯を食べたいと駄々をこねているように見えているのではないか、となんだか心配だ。
食堂で空いた席を探していると、「直紀―っ」と騒がしい中でもよく通る高い声が俺を呼んだ。
振り向くと、端の方の席に園山さんと駿が座っていて
「また一緒だったんだな」
駿の隣に座りながら思わず呟くと、「うん」と当たり前のように園山さんが頷いた。
そういえば、この二人の間には、健太郎と桜さんのような一緒にいると恥ずかしくなるような甘い空気はない。今こうして見ていると、たしかに二人の雰囲気は恋人ではなくて親友だ。
「直紀は一人?」
「うん。友達が彼女のとこに行っちゃって」
言うと、園山さんがあはは、と笑った。隣から駿が俺の弁当を指して
「直紀、弁当持ってんじゃねえか。なんで食堂来たんだ?」
「友達が変に気遣うやつだから、俺が同じ教室にいると彼女といちゃつけないだろうと思って」
「直紀かわいそー!」
ますます楽しそうに笑う園山さんに、駿が「みな、うるせえ」と容赦なく突っ込んだ。園山さんは気にする様子もなく
「ね、誰なの?その直紀の友達って」
と尋ねてきた。
名前を教えると、「んー、知らないなあ」と彼女は首を捻る。
「あ、駿はたしか一組だったよな? じゃあ桜那津子さん、同じクラスだろ」
「ああ」
「その子が健太郎の彼女」
「へー! みな、桜さんは知ってるよ。美人だよね! あの人が彼女なんだー」
「そう。うらやましい限りだよな」
答えながら弁当箱を包んでいた布を開いたとき、真っ先に目に飛び込んでくるはずだった箸が見あたらない。弁当箱を持ち上げて裏を覗き込んでみても、当然あるわけがなく、小さくため息をついた。
「箸忘れた。ちょっと食堂のやつ借りてくるな」
そう声を掛けて立ち上がると、「あっ、ちょっと待って直紀」と言って園山さんが手元のコップに残っていた水を飲み干し、「おかわりよろしくね」と空になったコップを俺に差し出した。
「あ、そうだ、俺にもよろしく」
駿も俺にコップを差し出しながら「俺はウーロン茶な」と付け加えた。
「はいはい」とため息をつきながら踵を返すと「ありがと!」「悪いなー」と脳天気な声が二つ、背中にかけられた。
箸を一組借りて、二つのコップにそれぞれ冷水とウーロン茶を注ぐ。そうして自分の分のコップも取ろうとして、両手が塞がっていて出来ないことに気付いた。
あとで取りに来ないと、ともう一度ため息をついて席に戻ろうとしたとき、奥の席に見慣れた姿を見つけて、足を止めた。
四人がけのテーブルに一人で座り弁当を食べている、その女子生徒。
うつむいていて顔は見えなかったけれど、肩上まであるまっすぐな髪と、不思議なほど小さく見えるその体は、すぐにわかった。
「白柳」
近づいて声を掛けると、いつものようにびくっと彼女の肩が震えた。
ぱっと上げられた顔は、やはり見慣れた後輩のものだった。
数秒まじまじと見つめたあとでようやく俺だとわかったのか、彼女は「あ」と声を上げて、決まり悪そうに視線を落とした。
「一人?」
尋ねると、「……はい」と消え入りそうな声が返ってきたことに、しまったと思う。
白柳が俺の手にある二つのコップをちらりと見たのがわかった。
「あー……」と俺は意味もなく呟いて、「ちょっと待ってて」と言ってから、駿と園山さんのもとへ戻った。
二人にそれぞれコップを渡しながら
「ごめん。友達見つけたから、あっちで食べる」
言うと、「えー!」と園山さんが大袈裟なほど声を上げた。
「なんでー?! みなたちだって直紀の友達でしょー!」
「あー……うん。ごめん。ちょっと話したいこととかあるし、今日はごめんな」
「ぶー!」
園山さんの非難の視線を背中に感じながら、ふたたび白柳のもとへ向かう。
こちらを見ていたらしい白柳と目があったが、すぐにその視線はテーブルの弁当に落ちた。
「座っていい?」
尋ねると、白柳はおどおどと顔を上げ、すぐにまたうつむいたあとで、一度大きく頷いた。
彼女の向かい側の席に座ると、「いいんですか?」と顔は上げないまま、白柳が尋ねた。
「なにが?」
「お友達と、一緒だったんじゃないですか……?」
「あー、いいんだよ。 なんていうか、今日は静かに食べたい気分だったし。あいつら、ちょっと明るすぎるくらいでさ、なんかちょっと疲れるっていうか。いや、楽しいんだけど」
自分でも、よくわからないことを言っているのがわかった。
白柳は箸でつまんだきんぴらを口に運ぶことなく、じっと見つめている。
俺は包みを開いていた手を止め、「白柳」と呼んだ。
ようやく、彼女は顔を上げた。呼んでおいて、目が合った途端にその次の言葉を言うのが恥ずかしくなり、思わず言葉に詰まってしまった。それでも、白柳がまた視線を落とす前に、一息に言い切った。
「白柳と食べたかったんだよ」
白柳の握っていた箸から、ぽとりときんぴらが落ちた。
「へ……」
「だから、いいんだって」
ぽかんと俺を見つめていた彼女の顔は、みるみるうちに嬉しそうな笑顔に変わった。
やっぱり正解だった。なんだか、だんだんとこの後輩の扱い方がわかってきた気がする。
落としてしまったきんぴらをつまみ直し、彼女はそれをようやく口に運んだ。もぐもぐと口を動かしながら俺のほうを見て、ふふ、とまるで幼い子どものような笑顔を浮かべる。
「なんだよ」と尋ねた声は、自分のものとは思えないほど優しく、思わず俺が驚いてしまった。初めて聞く、自分の声だった。
「ごめんなさい。なんでもないです」
そう言いながらも楽しそうに笑う白柳に、不思議なほど暖かな気持ちになるのを感じた。
まるで娘を見ている父親みたいな気分だ。それがどんな気分なのかはよくわからないけれど。
白柳も俺も、あまりどんどん喋るほうではないため、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら時間は過ぎていった。おもに俺がなにか尋ねて、白柳がそれに答える、といった繰り返しが続いていたけれど、それでも、なんだか居心地が良いと思った。
白柳のほうが先に食べ始めていたのに、いつの間にか弁当箱に残るおかずの量は同じくらいになっていた。
最後の一口を俺が口に入れようとしていたとき、唐突に白柳が「あのっ」と意を決したような声をあげたため、思わず口元に持っていった箸を止めた。
「先輩、今日……図書室、来ますか?」
「ん? 今日俺当番だっけ」
「いえ、違いますけど……す、すみません、やっぱり何でもないです」
「あー、いや、でも行くよ」
困ったようにあわてて首を振る白柳に、何も考えないうちにそう言っていた。
めったに自分からは話さない白柳の、めずらしい質問だ。なんだか頷かずにはいられなかった。
答えたあとでなにか予定は入っていなかったかとあわてて考えてみたけれど、幸いなにも思い当たらなかった。
「えっ、本当ですか?」
ぱっと白柳の顔が輝く。面白いほど、気持ちが顔に出る子だ。こんなに喜ばれると、こっちまで気分が良い。
「うん。今日はどうせ暇だし」
「や、やったぁ……」
白柳は箸を握りしめたままそう呟いて、ようやく残っていたご飯を口に入れた。心底嬉しそうな笑顔に、思わずつられて笑ってしまう。
「なに、今日なんかあるの?」
「え? いえ、別に何もないですけど……」
「ああ、一人じゃやっぱり退屈なのか?」
「いえ、そうでもないですけど……」
「え? じゃあ、」
なんで、と尋ねようとしてやめた。せっかく嬉しそうに笑っているのだ。聞けばまた、困ったようにうつむくのが予想できた。
「あ、いや、いいや」と言って空になった弁当箱を包み始めると、白柳はきょとんとした表情でこちらを見ていた。
「なーおきっ」
白柳も食べ終わり、弁当箱も包み終わった頃、園山さんが俺たちの座るテーブルのほうへ歩いてきた。
それから俺の隣の席に座ると、ポケットから携帯電話を取り出し
「ね、そういえば直紀の連絡先聞いてなかったなって思って。教えて?」
と人懐っこい笑みを見せた。
「なあ直紀、俺にも」
駿もやって来て、空いていた白柳の隣の席に座った。途端、白柳の顔が強ばるのがわかった。
「ああ、いいけど。……あ、そうだ白柳」
戸惑うように体を固くしていた彼女に声を掛けると、不安そうな瞳と目があった。
「は、はい?」
「よかったらさ、白柳の連絡先も教えてもらっていい? いろいろ連絡取りやすくなるし」
「え……わ、私のですか?」
目を丸くした白柳の顔が、ぱっと赤くなった。
「い、いいですけど」答えて、白柳は制服のポケットに手を突っ込んだが手応えがなかったのか、「あれ? あれ?」と呟きながら反対側のポケットを覗き込んでいる。
「どうした? なくしたのか?」
「い、いえ、たぶん鞄の中です」
「そっか。じゃ、放課後にでも」
「は、はいっ」
それから、園山さんと駿と連絡先を交換したあとで、予鈴が鳴ったため食堂を出た。
一年の教室は一階にあるため、先に白柳と別れ、三人で階段を上っていると
「あの子、この前の一年生だよね?」
園山さんが聞いてきた。
「うん」
「仲良いんだねー」
「そうだなあ」
適当に相槌をうって、園山さんがふうん、と返したところで二組の教室に着いたため、二人とはそこで別れた。
放課後、図書室へ行くといつものように白柳がカウンターに座っていた。
彼女は俺を見つけると、ぱっと弾けるような笑みを見せて携帯を掲げた。
連絡先を交換したあとは、白柳の隣に座って明日の授業の予習を始めようとしたのだが、ちょうど俺が英語の教科書を開いたとき、「あのう」と遠慮がちな声が背中にかけられた。
振り返ると、長い髪を一つに束ねた大人しそうな女子生徒が立っていた。何度か見たことがある顔だったため、図書委員の一人だということはわかった。
「今日、私、当番で……。いつも白柳さんにばっかりまかせて悪いと思って」
おどおどとした口調は、どこか白柳と似ていた。まあ白柳よりは、だいぶ流暢だけど。
すぐに合点がいって、俺は広げたばかりの教科書を片づけはじめる。カウンターには席が二つしかない。めったに来ない白柳以外の図書委員がせっかくやる気になってやって来たのだ。ここは譲るべきだろう。
「ここ、いいよ。俺退くから」
「えっ」
声を上げたのは、目の前の女子生徒ではなく白柳だった。あからさまに残念そうな顔で、立ち上がった俺を見上げている。
「まだ帰らないって。俺、あっちいるから」
そう言うと、白柳はほっとしたように頷いた。
机の一つに腰掛け、先ほど片づけた教科書やノートをまた広げる。
ふとカウンターへ目をやれば、白柳とさっきの女子生徒が二人でなにやら話をしていた。
白柳が笑っているのを見て、なんとなくほっとする。仲良くなればいいな、とぼんやり思う。見た感じ、あの子は白柳とよく似た雰囲気だった。気は合いそうだ。
白柳の人見知りの激しさは、初対面のときによくわかった。あれじゃ、友達作りもなかなか難しいだろう。これを機にあの子と仲良くなって、一緒に昼飯を食べるようになればいいのに、とか考えていると、二人の会話が弾んでいるのかばかり気になって、あまり勉強が手につかなかった。
五時近くになって、女子生徒が帰ると、白柳もカウンターから出てこちらへ来た。白柳の顔は楽しそうで、どうやらさっきの子との会話は弾んでいたらしいことがわかった。
「楽しかったか?」と唐突にそんな自分でもよくわからない質問をしてしまったが、白柳は「はいっ」と嬉しそうに笑って頷いた。
「新井さん、すごいんですよ。たくさん本読んでて。今度、この前読んだ面白い本貸してくれるって」
あの子は新井さんというのか、と思いながら、白柳の嬉しそうに弾む声に自然と表情が柔らかくなるのを感じた。
「よかったな。あの子、白柳と同じクラスなのか?」
「いえ、新井さんは四組らしいです。お隣です」
「そっか。なんか、気が合いそうだよな、二人」
「本当ですか?」
白柳は、へへと照れたようにはにかんだ。
そのとき、司書の先生が閉館の時間を告げたため、白柳は荷物を取りにカウンターへ戻った。俺も教科書を鞄にしまって肩に掛けると、鞄を抱えて戻ってきた白柳といっしょに図書室を出た。
白柳は、新井さんとの会話がよほど楽しかったらしい。昇降口に着くまで延々と、新井さんとした話の内容を俺に聞かせてくれた。
どの本が面白かったとか、新井さんと自分の本の趣味は合うとか、もっぱら話題は本のことで、あまり本を読まない俺にはよくわからない話だったけれど、白柳が楽しそうだったのでつられて笑顔で相槌をうっていた。
「こんなに本のこといっぱい話したの初めてで、すごく楽しかったです」
「よかったな。図書委員の人たちってさ、本好きな人多いだろうし、もっといろんな人と喋ってみればいいんじゃね?」
「そうですね」
笑顔で頷いたあとで、ふいに白柳の顔が曇った。
「でも私……なんか怖くて」
「人と話すのが?」
「は、はい」
たしかに打ち解ける前の白柳は酷かったな、と思い出す。はっきりと怯えられているのを感じたくらいだし。
「そんな怖がることじゃないと思うけどな。みんな白柳と同じ人間なんだし。それにさ、いい人だっただろ?」
新井さん。言うと、白柳の顔に笑みが戻った。
「はい」と頷いて、「先輩も」と呟くように続けた。
「先輩も、いい人でしたしね」
「あー、最初はだいぶ怖がってたよな、俺のことも」
すみません、と白柳は困ったように笑った。
「だから、喋ってみなきゃわかんねえだろ何にも。だいたい、怖がんないといけないような人なんてそうそういないし、大丈夫だって」
はい、と白柳が頷くのを聞きながら、自分が随分お節介なことを言っていることに気づく。
そういえば、何も考えずにいつもの帰り道を歩いているけれど、白柳の家はどこなのだろうということをはたと思い出し尋ねると、俺の家のわりと近くだったため、そのまま足を進めた。
しばらく歩いたところで、「メール……」とかろうじて聞き取れるほどの声で白柳が呟いた。
「え?」と聞き返せば、白柳は自分の足下を凝視したまま
「メール、って……送っていいんですか?」
「は? うん、いいぞ?」
「ど、どんなこと、送ればいいんですか?」
「どんなことって、何でもいいよ。しょーもないことでもいいし。俺、たいてい暇してるから」
そう言ったが、余計白柳は考え込んでしまった。「しょーもないこと……」と呟きながら、まだ新しいローファーのつま先を眺めている。そのとき、ふいにまた新井さんのことを思い出した。
「そういえばさ、新井さんとは連絡先交換したか?」
またお節介なことを言っていることはわかっていたが、これだけは助言しておかなければ気が済まなかった。
「え? してませんけど……」
「しとけよ。次に会ったときにでも」
メールなら、口下手な白柳でもうまく続けられるだろう。それで一気に仲良くなればいいけどな。
もちろん俺がそんなことを考えているとは知らない白柳は、きょとんとした表情で、「は、はい」と首を傾げつつ頷いていた。
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