あの日のぼくら

此見えこ

第一章 箱庭

第1話 図書室



 奇妙な話だ。

 俺は彼女のことが怖かった。怖くて仕方がなかった。

 それでも、俺は彼女を、守りたかったのだ。










 それは、ほとんど無意識のことだった。

 

 雨が降るかもしれないと言っていた今朝の天気予報を思い出して、何気なく窓の外へ目をやろうとしたとき。たまたま、窓の近くにいた担任教師と目があった。

 彼が俺の姿を見るなり、「あ」と口を開いた瞬間から嫌な予感はしていた。

 急いで目を逸らしたけれど、その直後に名前を呼ばれる。そのときにはもう諦めていて、「何ですか」と無愛想に言葉を投げれば、案の定彼はにっこりと笑ってプリントを差し出してきた。


 それでめったに行かない図書室へ足を運び、また何気なく視線を漂わせていたとき。本棚の並んだ奥で、一人の女子生徒がつま先立ちで必死に腕を伸ばしている姿が目に入った。

 考えなくても、彼女が何をしているのかなんて分かった。

 何とはなしにその子のもとへ近寄る。目当ての本しか見えていないのか、俺にまったく気づかない彼女に

「どの本取りたいの」

 尋ねると、彼女は大袈裟なほど肩を震わせたあとで、勢いよく振り返った。


「えっ?」

 伸ばしていた手はそのままに、顔だけを俺のほうに向けて固まる。

 その子の目には明らかに怯えの色が浮かんでいて、思わず自分の行動は何かまずかったかと焦ってしまうが、すぐに、何もまずくはないと思い直す。少なくとも、親切と呼ばれていいはずの行動だ。それは間違いない。

 少し憮然として

「本、取りたいんだろ?」

 そう返せば、彼女はさっと本棚へ伸ばしていた右手を引っ込めた。そうしてその手で自分の口元を触りながら

「は、はい」

 こちらが対応に困ってしまうほどの反応に、手持ち無沙汰だった右手で無意味に頭をかく。

「えーと」何気なく視線を下へ落とすと、スリッパの色でその子が一年生であることがわかった。


「どの本取りたいの」

 もう一度繰り返すと、彼女はしばしぽかんとしたあとで、「ああっ」とようやく合点がいったように声を上げて、本棚に向き直った。

「あのっ、えっと、あ、あれ、です」

 あれ、と言われて指さされた先には、本がびっしりと隙間なく並べられており、彼女の言う「あれ」がどれを指しているのか分からない。

 どれだよ、と聞き返そうとしたのを思い直し飲み込むと

「あの黒いカバーの本?」

 適当に目星をつけて尋ねる。

 彼女はぶんぶんと肩あたりまである髪が揺れるほど首を振って

「い、いえ、あの、その本の隣の本です……すみません」

 なんで謝ってんだ、という言葉も飲み込んで、「これ?」と手を伸ばしながら尋ねる。「は、はいっ」と声が返ってきたので、そのままその本を抜き出し、彼女に差し出した。

「ほれ」

 そこでまた彼女がきょとんとしたことに軽く頭痛を覚えながらも、「ん」ともう一度差し出す。ようやく彼女は我に返ったように両手で本を受け取った。

「す、すみません!」

 そこはありがとうだろ。思いつつも「いやいや」と返して、その子に背を向けた。

 それが、最初の出会いだった。



 二度目は、図書室になど全くと言っていいほど縁のない俺が、部活もやってないんだし暇だろ、などと言いくるめられてあれやこれやという間に任せられてしまった図書委員会の最初の集まりのときだった。

 俺が図書室に入ったときには、すでに大半の生徒が集まっていた。

 ほとんど埋まっている机の中に、一人の女子生徒が座っている四人がけの机を見つける。近寄ると、そこに座っている女子生徒が、この前図書室で会った一年生だと気づいた。


「ここ座っていい?」

 声を掛けると、彼女はやっぱり大袈裟なほどに肩を震わせて、怯えた目で振り返った。今度はだいたい予想できていたので、戸惑うことはなかったけれど。

 彼女は俺の顔を見て「あ」と小さく声を上げる。覚えてくれてはいたらしい。また、ぶんぶんと髪が揺れるほど、今度は首を縦に振ってくれたので、俺は彼女の向かい側に座った。

「図書委員だったんだな」

「は、はい……あの、この前は、す、すみません、でした」

 ……また謝ってる。

 こういうときは謝るんじゃなくて礼を言うべきなんだぞーって教えてやるかな、とか考えて口を開こうとしたときに先生が話を始めたので、俺はまたこの前と同じように「いやいや」とだけ返しておいた。


 その日は、当番の曜日の希望を教えてほしいということだった。それぞれに配られたプリントに、第一希望と第二希望の曜日を書けということらしい。

 ぼんやりと目の前の紙を眺めながら、図書委員ってけっこうめんどくさいんだなあとため息をついたら、その呟きは思わず口から漏れていたらしい。

「そ、そうですね」

 相変わらず落ち着きのない声で、目の前に座る一年生が相槌をうった。

「でも」思いがけなく彼女が言葉を続けたので、俺は顔を上げる。

 彼女はプリントに目を落としたままだったけれど、口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。

「私、図書室好きだから、嬉しいです。仕事いっぱいあるほうが」

 細い声だったけれど、つっかえることなく彼女が紡いだ言葉になんとなく嬉しくなり、「そっか」と自分でも少し驚くほどの柔らかい声が出た。

「えらいな」

 そう続けると、彼女はまた大きく首を振った。


 なんとはなしに彼女のプリントに目をやったとき、氏名欄に書かれた名前が目に留まる。初めて見る名字だった。

「しろやなぎ、って読むのか? これ」

 丁寧な字で書かれた“白柳”という文字を指して尋ねる。

「え?」と彼女は顔を上げたが、俺と目が合うとすぐにまた視線を落とした。

「い、いえ、しらなぎ、です。あの……すみません」

「……あのさあ」 

 教えてもらった名字の読み方よりも、口癖のように彼女が口にする謝罪の言葉に反応して、口を開く。

「今の、べつに謝るところじゃないから。この前も思ったけど、そんないちいち謝んなくていいって」

「え、すみません……あっ、ご、ごめんなさい。あ、すみま……あれ?」

 あたふたと呟く彼女に、思わず笑う。唐突に吹き出した俺に、彼女は弾かれたように顔を上げた。そして、また「すみません」と口走りそうになったのを途中で止めて、困ったように笑った。



 それから、俺が当番の日に図書室へ行くと、そこにはいつも彼女――白柳柚しらなぎゆずがいた。

 貸し出しカウンターの中にちょこんと座って、律儀に仕事をしている。

 カウンターに座っている白柳は、なんだかとても穏やかに見えた。本を借りる生徒に対応する白柳は、俺と喋っていたときのように慌てることも、怯えた表情を見せることもない。声はやはり小さいけれど、静かな図書室の中では、それくらいの声で丁度良かった。


「よう」

 声を掛けると、白柳はやっぱり肩を震わせたけれど、俺の顔を見たあとに小さく笑みを浮かべてくれたので、なんとなくほっとする。

 カウンターには図書委員が一人いれば充分だ。ここ最近は、毎日白柳が来ることがわかったのだろう、図書委員はほとんど誰も顔を出さない。昼休みも放課後も、いつもカウンターには白柳が座っていることが当たり前になっていた。

 それでも俺は、せめて当番の日はここへ来るようにしていた。いちおう決められたことは守らないとなんとなく落ち着かない性分だったし、ここは宿題や予習をするのにうってつけの場所だったから。


「白柳さ、たまには他のやつらに任せれば? 毎日大変だろ」

 白柳の隣に座り、持ってきた数学のノートを広げながら言うと、彼女は「いえ」とすぐに首を振った。

「大変じゃないです。あの、私、好きなんです、こうしてるの。図書室、落ち着くし……」

 白柳の言葉は、そこで途切れた。

 突然、「直紀だーっ」と高い声が俺を呼んだから。


 はっとしたように白柳は口をつぐんで、俺と一緒にその声の主へと顔を向ける。

 彼女の声は普段から少し大きい。いつもはさほど気にならないけれど、静かな図書室にはやたらと大きく響いて、俺はあわててしーっというジェスチャーを声の主へと向ける。

 確認するまでもなく、それが誰なのかはわかっていた。直紀、と俺の名前を呼び捨てる女子の知り合いなんて、一人しかいない。


「……園山そのやまさん、声大きいって」

 園山みなは、数少ない俺の女友達だった。もっとも、俺は友達と思わせてもらっているけれど、向こうがこっちをどう思っているかはわからないが。

 知り合ったのもほんの一週間前で、食堂で俺が園山さんにぶつかり、彼女の持っていたうどんの汁が制服にかかってしまったということぐらいが俺たちの接点だ。

 義理堅いらしい彼女は、俺の制服のシミが取れたかどうかを気にしてしょっちゅう声を掛けてきた。園山さんの明るく人懐こい性格のためだろう、その間にいつの間にか仲良くなっていた。


「え、なになに? 直紀ってば、こんなとこで何やってるのー?」

 俺の言葉も人差し指も無視して、目の前にいるというのに、相変わらず彼女は無駄に大きな声で尋ねる。

「図書委員だから。……園山さん、もう少し声小さく」

「直紀、図書委員なんだ! なんか似合わないね」

 相変わらず俺の言葉の後半部分は耳に入っていないらしく、あっけらかんとそんな失礼なことを言う。園山さんはにこにこと笑って、カウンターに腕をのせ身を乗り出すと

「ってことは、図書室に来れば直紀に会えるんだね」

「いや、俺がいるのは火曜と金曜だけだぞ」

「えっ、なんで?」

「当番が火曜と金曜だから」

「そっか。じゃあ火曜日と金曜日は図書室に来れば直紀に会えるんだ」


 園山さんの言葉に頷こうとしたとき、彼女の明るい色をした髪の向こうに、こちらへ向かってくる男子生徒を見つけた。

駿しゅん

 今日も一緒だったのか。ほんと仲良いな。

 そんなことを思いながら、園山さんと一緒に来ていたらしい彼の名前を呼ぶ。

「直紀が図書委員ってなんか意外だな」

 無駄に大きい園山さんの声が聞こえていたのだろう、駿は側に来るなり言った。

 高須賀たかすか駿。園山さんの彼氏で、突拍子のない園山さんの行動にも冷静に対応できる、俺から見ればかなりすごいやつだ。

 初めて園山さんと会ったときにも、駿が一緒にいたおかげで、いきなりうどんのかかった制服を脱がせようとしてきた園山さんに振り回されずに済んだ。まあ駿自身も、性格や思考回路は園山さんとよく似ているけれど。さすが恋人というか。

「ねー、意外だよね。直紀はあれだよね、栽培委員とかそんな感じだよね」

「あー、確かに。直紀は栽培委員だよな。間違いねえ」

「二人とも、本借りにきたんじゃないのか?」

 駿が加わりうるささが増したことを気に懸けながらそう尋ねれば、二人は揃って首を振った。

「ううん、べつに。なんか暇だったから、校内ブラブラしてただけ」

「家帰ってもどうせ暇だしな」

 なるほど。要は二人でいたいわけだな。すぐに合点がいって、思わずため息が漏れた。

「ねえねえ直紀、当番って何時まで?」

「五時。あ、いや、今日は火曜だから五時半までだっけ?」

 わからなくなり、隣に座る白柳に尋ねようと横を向いた。なあ白柳、と開きかけた口はそのまま固まる。そこには、誰もいなかった。

「あれ? 白柳?」

 きょろきょろと辺りを見回すと、「ここに座ってた一年生?」と園山さんが聞いてきた。

「どっか行っちゃったよー。みながここに来たらすぐ」

「あ、そうなんだ……」

「ね、五時までなら、みな待ってるから一緒に帰ろ?」

「え?」

 俺はいいけど……いいのか? 思わず駿が気になって目をやると、彼も園山さんと同じような笑顔を浮かべて「お、いいな。一緒帰ろ」と軽く言った。


 園山さんの人懐こさは俺からすれば気分が悪いものではないけれど、彼氏からしたらどうなんだろう、とよく思う。俺なら、自分の彼女が他の男にあまり親しげに接するのは、癪に障りそうだけれど、それは器が狭いのか。駿はまったく気にする様子もなく、園山さんと同じように俺に親しげに接してくれる。

「じゃ、もうちょっと待ってて」

「うん! あっ、じゃあみな、せっかくだから何か本借りてこっかなー」

「あ。なあ、みな」

 奥の書庫へ行こうと踵を返した園山さんの背中に、何か思い出したらしい駿が声を掛ける。

「今日、お前バイトじゃねえの?」

「あっ! そうだった、忘れてた! あー、せっかく直紀と帰れると思ったのに……また今度ね! またね直紀!」


 声を上げ、園山さんが慌ただしく図書室を出て行く。

 駿も当然彼女といっしょに出て行くものかと思ったら、動こうとしないので、思わず「あれ?」と声が漏れた。

「駿はいいのか?」

「なにが」

「いや、ほら、園山さんと一緒に帰らなくていいのか?」

「そりゃ、べつに俺はバイトじゃないし」

 当たり前のようにさらりと言う。「いや、そうじゃなくて……」と言いかけたが、やっぱりやめた。


 園山さんと駿には、まるで熟年夫婦のような雰囲気がある。恋人というより、ずっと昔から一緒にいる親友のようにも見える。そんなことを考えたとき、ふいに浮かんだ疑問をそのまま駿に尋ねてみた。

「駿と園山さんって、いつからの付き合いなの?」

「中学んときから」

 意外だ。もっと長い付き合いかと思っていた。

 そう感想を述べると「よく言われる」と駿は笑った。

「俺も、あいつとは、もっと前から一緒にいた気がするんだよな。まだ会って四年しか経ってないって、なんか変な感じするんだよなあ」

「それほど仲が良いってことだろ。いいよなあ。よっぽど相性良いんだな」

 べつにからかいのつもりではなかったけれど、駿がまったく照れもせず「そうだな」とあっさりと頷いたことに少し拍子抜けしてしまう。まあ、恥じらう駿なんて想像も出来ないけれど。

 そんな会話をしているうちに五時になり、帰り支度を始めたとき、ふと机に広げられたままの白柳のノートと古典の教科書が目に入った。けっきょく、白柳は戻ってこなかった。


 外は、傾きかけた陽が、柔らかな光で道を照らしていた。

 家はどこなのかと尋ねれば、俺の家と同じ方向であることがわかり、駿とそのまま並んで校門を出た。

「園山さんって、バイトやってんだ」

 別れる前に二人が交わした会話を思い出し、そう口にすると、駿が「あー……まあ」とどこか歯切れの悪い返事をしたことに少し面食らう。

 この話題はやめたほうがいいのかとも思ったけれど、これだけ言って話を切るわけにもいかず、「どこで働いてんの?」と続けた。

「駅前の喫茶店」

 返ってきた言葉に思わずぎょっとする。うちの学校はバイトは禁止されている。それでも隠れてこっそりとバイトをしているやつも何人か知っているが、駅前の喫茶店なんて、学校から近く、先生たちも訪れそうな場所で働くなんてあまりに危険に思えた。

 思わずそう口にすれば、「あー、大丈夫大丈夫」と駿は軽く言って

「あいつ、学校から許可もらってるから」

「え? 許可なんてもらえることあるのか?」

「まあ、あいつはいろいろあるから。一人暮らしだし」

 なんで、と尋ねようとした言葉は飲み込んだ。駿の言う「いろいろ」が明るい事情ではないことは、すぐにわかったから。

 そもそも俺と園山さんは、それほど親しい間柄でもない。本人がいないところで、彼女の深い事情まで根掘り葉掘り聞き出すのは憚られた。


「そうなんだ」と相槌だけうって、「ところでさ」となるべく軽い調子で話題を変える。

「二人って、どんくらい付き合ってんの?」

 そう尋ねた瞬間、思いがけなく駿の眉が怪訝気に寄せられた。

「は?」と聞き返され、思わず俺も「え?」と返してしまった。

「二人って?」

「いや、だから、駿と園山さん……」

「俺とみなが何って?」

「どんくらい付き合ってんのかって」

 はあ、と駿がため息をつく。思いも寄らなかった反応に、「なんだよ」と困惑して尋ねれば「付き合ってねえよ」と返ってきた。


 一瞬、わけがわからなかった。二人は付き合っているという大前提が俺の頭の中にあったが、そういえば二人から付き合っているのだという話を聞いたことはなかったと思い出す。

 ただ、はじめて園山さんに会ったとき、駿は当たり前のように一緒にいたし、次に会ったときにも二人は一緒だった。少なくとも俺には四六時中行動を共にするような仲の良い女友達はいないし、そんな二人の姿は俺には付き合っているようにしか見えていなかった。


「そうなのか?! 仲良さそうだったからてっきり……」

「みなと付き合うとかあり得ねえって。あいつは、家族だし」

 そう言い切った駿の声は、奇妙に重たく響いた。

「家族……」

「そ。家族」

 思わず彼の発したその単語を呟けば、駿は頷き、もう一度繰り返した。

「あいつは家族だよ」

 たくさん聞きたいことが浮かんだが、すぐにそれらは意識の外へと消えた。呟くように駿が言ったその静かな言葉は、何故だかしばらく耳から離れなかった。

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