第52話 思いだせない

 三十代後半の徳田英一とくだえいいちさんに聞いた話だ。


 徳田さんはバイクが好きで、よくツーリングに出かけるそうだ。その日もひとりでバイクを走らせていた。


 目的地はとある山の頂上付近に設けられた展望台だった。走ること自体がツーリングの目的であるため、実のところ行き先はどこだって構わない。だが、休憩を取るという意味でも一応は目的地を決めている。


 十一月初旬にしては暖かく、頭上には蒼い空が広がっていた。二時間半ほどの快適なツーリングで、展望台のこじんまりとした駐車場に着いた。休日の昼間だというのに車やバイクは一台も停まっていなかった。地元の人間しか知らないような展望台だからだろう。人でこみ合っているところが苦手な徳田さんは、いつもこういう閑散としたところを目的地にする。


 雑木林に囲まれた駐車場の奥には小道が設けられていた。その入口部分に木製の看板が立っており、ペンキで書いたらしき手書きの文字がある。


 第一展望台まで約三十メートル。第二展望台まで約六十メートル。


(展望台はひとつじゃなかったんだな)


 徳田さんはそう思いながら小道に歩を進めた。ややあって雑木林を抜けると、視界が大きく開けた。展望台は思っていた以上に広々としており、テニスコートよりひとまわりほど大きい。展望台の奥には鎖が張ってあり、その向こうに重畳たる山々の眺望がある。


(せっかくここまできたんだし、写真くらいは撮っておくか……)


 鎖のところまで歩を進めると、五メートルほど先が崖になっていた。鎖は立入禁止を知らせるために張られているらしい。


 徳田さんはスマホをあちこちに向けて写真を撮っていた。すると、右手側の一部に鎖の途切れているところを見つけた。おそらく、その先には遊歩道のような小道があるのだろうが、くだりに坂になっているらしく先は見えない。第二展望台まで約六十メートル。さっき見た看板にそう書いてあった。あの遊歩道が第二展望台に続いているのだろうか。


 そんなことを考えていると、その小道をあがってくる人影が見えた。髪の長い小柄な女性だった。年齢は徳田さんと同じくらいと思われた。どうやら連れはいないようだ。


(女ひとりでこんなところにきたのか……)


 気にはなったものの、ジロジロ見るのは失礼だ。視線を逸らしたとき、その女性が声をかけてきた。


「あれ、徳田さんですか?」


 なぜか女性は徳田さんの名前を知っていた。


「やっぱり徳田さんだ」


 そう言って駆け寄ってきた女性の顔には親しげな笑みがあった。


 徳田さんは女性の顔に目を凝らした。どこかで見たことのある顔だった。おそらく仕事でかかわった人物だと思うのだが、名前をまったく思いだせなかった。


「こんなところでお会いするなんて奇遇ですね」


 女性のほうはしっかり徳田さんのことを覚えているらしい。徳田さんは営業スマイルを作って鎌をかけてみた。


「ほんとですね。その節はお世話になりました」

「いえ、こちらこそお世話になりました」


 女性は表情を改めて頭をさげた。


 この対応の仕方からして、やはり仕事でかかわった人物なのだろう。しかし、やはり名前が出てこない。だからといって名前を尋ねるのも失礼な気がする。


 女性が徳田さんのスマホに目をやりながら尋ねてきた。


「今、写真を撮られていましたよね?」

「ええ、まあ……」

「でしたら、第二展望台から撮られたほうがいいですよ。あっちのほうが景色が綺麗ですから。よかったらご案内しましょうか?」


 聞けば、女性は写真を撮るのが趣味らしく、ちょくちょくここにくるのだという。


 徳田さんは写真になど興味なかった。しかし、女性には少し興味が湧いた。こうやって話してみると、派手さはないものの美人だ。独身彼女なしの身としては、電話番号くらいは交換しておきたい。それに誰だったかも気になる。第二展望台への道すがら、喉まで出かかっている名前が、なにかの弾みで思いだされるかもしれない。


「じゃあ、お言葉に甘えて、お願いしてもいいですか?」

「ええ、もちろんです」


 女性はニッコリ笑うと、徳田さんを先導して歩きだした。


 第二展望台へ続く小道は舗装がなされていなかった。土が剥きだしのまま草原の中でウネウネと蛇行している。小道の左右には頑丈そうな鎖が張ってあり、鎖の少し向こうは崖になっているようだった。


「僕はバイクに乗るのが趣味なんです。だから、今日はツーリングでここにきました」

「へえ、いいご趣味ですね。こんないい天気の日にバイクで走るのは気持ちよさそうです」


 徳田さんはそんな雑談をしながらも、女性が誰だったかのさぐりを入れた。あの仕事でかかわった人物だろうか、それともこの仕事だろうか。仕事の話をあれこれ振ってみたが、女性に繋がる仕事はなかった。


 これはもう単刀直入に名前を尋ねるべきだろうか。そう思いはじめていた徳田さんは、ふとあることに気がついた。


「ひとつ伺っても?」


 徳田さんが断りと入れると、女性はにこやかに返してきた。


「どうぞ。なんでしょう?」

「この展望台には駐車場があるじゃないですか?」

「ええ、ありますね」

「ここは山の頂上付近にありますから、徒歩ではこれないと思うんですよ。でも、僕が駐車場に着いたとき、車やバイクは一台も停まっていませんでした」


 なぜか女性の顔から笑顔が消えた。それを奇妙に思いながらも尋ねる。


「あなたはどうやってここまできたんですか?」


 口にしてみると、それが余計に奇妙に思えた。奇妙どころか異常にさえ感じた。女性はどうやってここに?


 改めて女性に目をやったとき、彼女がすうっと消えていった。


「え……」と漏らした徳田さんの目の前で、女性はこう言い残して完全に消えた。


「あと少しだったのに……」


 なにが起きたのか、わけがわからなかった。茫然と立ち尽くしていた徳田さんは、しばらくして我に返ると、ヒヤリとして思わず後ずさった。数歩進んだ先が切り立った崖になっていたからだ。


 後ろを振り返ると鎖が張ってある。いつのまにか小道の鎖を跨ぎ越して、崖に向かって歩いていたらしい。


 さっきの女性の声が耳の奥に蘇る。


 あと少しだったのに……


 あと少し歩を進めていたら、確実に崖の下に落ちていた。落ちれば無事ではいられなかったはずだ。得体の知れない恐怖を感じた徳田さんは、その場から逃げるようにして駐車場に戻った。一度も振り返らないままバイクに飛び乗り、震える指でエンジンをかけて展望台を去った。


 展望台では美人だと鼻の下を伸ばしていたが、女性がこの世ならざるものなのは明らかだ。また、彼女は徳田さんを崖にいざなって命を奪おうとした。


 つまり、徳田さんは霊に殺されかけたのだ。その事実だけでも心臓が縮みあがるほど恐ろしい。だが――。


 あの女性の顔には確かに見覚えがあったものの、未だに名前を思いだせないほど希薄な関係の人物だ。生前の彼女となんらかのかかわりがあったとしても、一度か二度しか顔を合わせていないのだろう。そんな人物が霊になって現れ、徳田さんに殺意を向けてきた。


 名前すら覚えていない女性に、そこまで憎悪されるようなことを、いつしてしまったのだろうか。殺意を抱かれるほどの恨みを、いつ買ってしまったのだろうか。身に覚えのないことというのが一番恐ろしかった。


 それに徳田さんはまだ生きている。名前も覚えていないあの女性は、今も徳田さんを狙っているのだろうか。





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