第45話 ついてきて(前編)
三十代前半の
「
僕の問いに林さんはうなずいた。
「そうです。もう伸びないんでしょうね。尻尾がグニャッと折れ曲がってはてなマークになってるんです。だから、僕は勝手にハテナ猫と名前をつけてます」
独身の林さんはワンルームマンションでひとり暮らしをしている。ハテナ猫とはそのマンションに住みつく一匹のノラ猫のことらしい。
「なるほど、尻尾がはてなマークに。だとしても、ハテナ猫って……ネーミングセンスが微妙ですよ」
「そうですか。わかりやすくていいと思うんですけど」
「まあ、わかりやすくはありますけどね……」
名前はわかりやすければいいってもんじゃないはずだ。響きの良さや可愛さも必要だろう。ハテナ猫という名前にはそれが足りない。
「とにかく、柄的にはどこにでもいる猫なんですけど、尻尾があんなに変形した猫はそういません。だから、すぐにそいつだってわかるんですよ」
ハテナ猫の体毛は茶色がかった縞模様とのことだ。おそらく、猫の元祖といわれるキジトラ柄だろう。林さんはそのキジトラ柄のハテナ猫に少しばかり親近感を持っていた。実家で飼っている猫もキジトラ柄だからだ。
「でも、親近感といってもあくまでほんの少しですけどね。餌をあげたなんてこともありませんし、撫でてやろうと思ったこともありません。実家の猫と似てるなあって、目で追うくらいのもんです。向こうが僕に近づいてくることもありませんしね」
しかし、その日のハテナ猫はいつもとようすが違っていたそうだ。
「二週間前くらいのことなんですけどね――」
林さんは午後十時過ぎにマンションの下に着いた。ひどく気づかれしていたのは、婚活パーティーに参加したあとだったからだ。
以前は婚活パーティーにこれっぽちも興味がなかった。だが、実家の両親に「結婚はまだか?」とちょくちょく急かされているうちに、いつしか林さん自身も結婚に焦りを感じるようになっていた。まだ早いと友人に言われても、相手を見つけて落ち着きたかった、しかし、職場に女性がいないこともあって、なかなかいい縁に恵まれない。そんな経緯があって近頃はよく婚活パーティーに参加しているという。
エントランスのドアを開けようとしたときだった。林さんは足もとに違和感を覚えて視線を向けた。すると、ハテナ猫がそこにいた。
「いつもはまったく近づいてこようとしないんですよ。でめ、その日は足に擦り寄ってきたんですよね。あんなことされたのはじめてです。思わずあっちにいけって、蹴っ飛ばしてしまいましたよ」
「いや、動物虐待をさらっと告白されても……」
「聞こえの悪いことを言わないでください。虐待なんかしてませんから。蹴ったといっても軽くです。ほんとにかるーくです」
婚活パーティーに参加するさい、林さんはオーダーメイドのスーツを着る。量販店のスーツと違ってそこそこ高級な代物だ。爪で傷つけられるのを嫌ってハテナ猫を追い払ったそうだ。
「追い払うと少しは離れました。でも、遠くに逃げてはいかなかったんですよね」
ハテナ猫はつかず離れずの距離に座りこむと、林さんをじっと見あげたそうだ。その目をなんとなく見返した林さんは、ハテナ猫にこう言われたような気がしたという。
ついてきて――
「ハテナ猫の性別なんて知らないんですよ。でも、メスっぽい口調で『ついてきて』って言われた気がして……」
「婚活パーティーにばっかりいってるから、猫までメスに思えたんじゃないですか」
僕の軽口に林さんはカラッと笑った。
「はは、そうかもしれません」
やがてハテナ猫はゆっくりと歩きだした。
ついてきて――
婚活パーティーのあとで疲労していた林さんは、一刻も早く家に帰って休息を取りたかった。しかし、なぜかハテナ猫を無視できず、あとについていったそうだ。
「僕が住んでるマンションの隣りには公園があるんです。ハテナ猫はそこに入っていきました」
その公園はそれなりの広さを有しているものの、常夜灯が少ないためにやけに暗いのだという。人けがないのはその暗さのせいかもしれない。ベンチや案内板はずいぶん古臭く、そこかしこに生い茂った雑草が、寂れた印象をますます強めていた。
公園の一角には古びた公衆トイレがあった。ハテナ猫はそこに真っ直ぐ歩いていき、トイレの裏手にまわって姿を消した。これ以上あとを追うとスーツが汚れるかもしれない。林さんはそう懸念しながらも、ハテナ猫を追う足を止めなかった。
「僕もトイレの裏にまわると、ハテナ猫が横たわってました。枯葉だらけの地面の上に」
寝転ぶではなく横たわる。変な表現だなと思いながら僕は尋ねた。
「横たわってなにをしてたんです、ハテナ猫は?」
「なにもしてません。正確にはなにもできなかったんです。そこで死んでたんですから」
僕は「ん……?」と首を傾げた。
「ハテナ猫について公園にいったんですよね。なのに死んでたんですか? それっておかしくないです?」
「そうですね。僕もおかしいと思います。でも、トイレの裏で死んでたんですよ」
「寝転んでいただけとかではなくて?」
「いいえ、死んでました」
ハテナ猫の目は白く濁っており、息をしていないのは一目瞭然だった。念の為に木の枝で突っついてみたが、なんの反応もなかった。
「ハテナ猫がトイレの裏手にまわったときに、少しだけですが姿が見えなくなったんです。その短いあいだに死んでしまったんでしょうか……」
林さんはそう言いながら首を傾げた。自分の発言に自信がないのだろう。
ならば別の猫という可能性はないだろうか。しかし――
「常夜灯の光が届かないトイレの裏は真っ暗でした。それでも、
林さんはしばらく考える顔をしていた。だが、ややして表情をもとに戻すと、「それから」と別の話をはじめた。
「死んだハテナ猫のまわりには三匹の仔猫がいました。状況からしてハテナ猫の子供だと思います」
生まれたてだとおぼしきその仔猫たちは、ハテナ猫の腹部に群がっていたそうだ。出なくなってしまった乳を、必死になって吸っていたのだろう。三匹のほかにもう一匹仔猫がいたらしいが、少し離れたところでぴくりとも動かなかった。ハテナ猫と同様に息をしていないのが一目瞭然だった。
【後編に続く】
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