第43話 約束

 二十代後半の小山結花こやまゆかさんに聞いた話だ。


 小山さんには富江とみえさんという祖母がいた。一緒に暮らしていた富江さんは初孫の小山さんをとても可愛がり、こんなことを口癖のように言っていたそうだ。


「おばあちゃんはね、なにがあっても結花ちゃんの味方よ。ずっとずっと結花ちゃんの味方だからね」


 実際に富江さんはなにがあっても小山さんの味方だった。両親に叱られているときなど、必ず味方になって小山さんを庇ったそうだ。


 しかし、なんでもかんでも庇うのは教育上よくない。小山さんの両親は富江さんをたしなめたが、富江さんはまったく聞き入れなかったという。


「こんなに可愛い結花ちゃんをよく叱ったりできるわね。叱るほうがおかしいのよ」


 富江さんは子供の教育には厳しかったという。だからだろう。彼女の娘である小山さんのお母さんは、納得いかない顔でよく言っていたそうだ。


「もう、結花には甘々あまあまなんだから……私にはあんなに厳しかったくせに」


 そんな富江さんのようすがおかしくなりはじめたのは、小山さんが大学に入学してまもなくのことだった。物忘れがあまりにもひどく、ときおり意味不明のことも口走った。病院につれていった時点である程度の覚悟をしていたが、医師のくだした診断はやはり認知症だった。


「ショックでした……」小山さんは少し顔を曇らせて言った。「まさかおばあちゃんが認知症になるなんて思ってもみませんでしたから。それに、当事はほかにもいろいろ問題があったんです。だから、余計に落ち込みました。なぜ大好きなおばあちゃんまでって……」


 小山さんは当事のほかの問題についても詳しく話してくれた。


 小山さんには五歳年上のお姉さんがいるのだが、そのお姉さんが胡乱な新興宗教に入信し、宗教がらみのトラブルをあちこちで起こしていた。また、真面目だけが取り柄と言われるような小山さんのお父さんが、あろうことか会社の後輩と浮気をし、相手の家に泊まりこんだまま帰ってこなくなったのだという。さらには、ふたりのことで苦悩していた小山さんのお母さんが病的にヒステリックになり、いつも甲高い怒鳴り声を家の中に響かせていた。


「お母さんと怒鳴り合っていた私も、きっとおかしくなっていたんだと思います……」


 小山さんは一瞬の間のあと、「とにかく」と話をついだ。


「そんなときに、おばあちゃんの認知症ですからね。ほんとにどうしたらいいのか、途方に暮れちゃって……」


 家族の中に富江さんの世話をする者はいない。不安や不服がありながらも、小山さんが世話をすることになった。


「でも、実際におばあちゃんの世話をしてみると、少しも苦痛ではなかったんです。むしろ、おばあちゃんと一緒にいるとホッとするぐらいでした。認知症を患っていたとしても、あのときの家族の中では、おばあちゃんが一番まともだったんです」


 当時の小山さんは、うまく歩けなくなった富江さんを車椅子に乗せて、よく散歩をしていたそうだ。まともな会話ができなくなってしまっていたし、富江さんが小山さんをちゃんと認識しているかもあやしかった。それでも富江さんと散歩をいるときが最も気持ちが穏やかだったという。


 そして、その散歩中に富江さんは言ったそうだ。


「ほんとに突然でした。いきなりおばあちゃんは約束したんです」


 認知症が進行していた富江さんは、いつも目の焦点がぼんやりとしていた。小山さんが話しかけてもほとんど反応を示さない。にもかかわらず、そのときだけは目に強いを光を宿して、しっかりとした表情で小山さんに約束したそうだ。


「私が全部持っていくから。約束ね……」


 そう言い終えるや否や、富江さんの表情はまた曖昧になった。


 なにを全部持っていくというのだろうか。約束の意味がわからずとも、なぜかとても安堵したそうだ。


「それから一週間後でした。おばあちゃんが亡くなったんです」


 小山さんはいつものように富江さんをつれて散歩に出かけていた。三十分ほどして家に戻ったとき、富江さんはもう息をしていなかった。手を握ってみるとまだ温かったそうだ。

 

 いつも小山さんの味方をしてくれた富江さんがいなくなってしまった。大好きな富江さんともう散歩ができない。小山さんは悲しみに暮れながらも、きっとあの約束が守られたのだと思った。


 散歩中に富江さんが急に強い目を宿して口にしたあの約束だ。


「私が全部持っていくから。約束ね……」


 富江さんが亡くなったあと、家族の問題がどんどん解決していった。


 宗教にあれほど傾倒していたお姉さんが、急に気持ちが冷めたという理由で、加盟していた宗教団体からあっさりと脱退した。また、浮気をしていたお父さんが相手とケリをつけ、お母さんに土下座をして久しぶりに家に帰ってきた。ふたりの問題か解決すれば、お母さんの気持ちも落ち着く。小山さんとヒステリックに怒鳴り合うことがなくなり、今では明るい笑い声が家に戻っているという。


 だから、小山さんはこう強く信じるようになった。


「きっと、おばあちゃんが全部持っていってくれたんです。あのときの約束を守って、嫌なことを全部……」


 富江さんが本当に持っていたのか、単なる偶然だったのか、それは誰にもわからないことだ。しかし、もし小山さんとの約束を守ったのだとすれば、ずっと昔の約束を守ったのだと思う。


 私が全部持っていくから。


 その約束よりもずっと昔の約束だ。小山さんが幼かった頃、富江さんはこんな約束をしている。


「おばあちゃんはね、なにがあっても結花ちゃんの味方よ。ずっとずっと結花ちゃんの味方だからね」


 富江さんはずっと昔から小山さんの味方だった。認知症を患っても、なにがあっても、ずっと味方だった。そして、最後の最後までその約束を守ったのだろう。


 約束どおりに小山さんの味方となり、嫌なことを全部持っていったに違いない。





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