第42話 【書籍化】寝言

 三十代前半の日高俊哉ひだかとしやさんに聞いた話だ。


 その日の深夜、自宅の寝室で眠っていた日高さんは、ある音に気づいて目を覚ましたそうだ。


 日高さんの眠りを邪魔したのは、隣りで眠っている奥さんの寝言だった。奥さんの佳歩かほさんには寝言を言う癖があるのだという。以前は気にならない程度のものだったが、最近は毎晩のように目が覚めてしまう。なにを言っているのかは判然としないものの、ムニャムニャと発する寝言は大音量だった。


 Wベッドで隣り合わせというのはもう無理かもしれない。もちろん、本人に悪い気がないのはわかっている。だからこそ言いだしにくかったのだが、これはもうはっきりと告げて、寝室を別にするなどの対策を取るしかない。日高さんはそう思いながら寝返りを打ち、佳歩さんに背中を向けた。もっとも、背中を向けたくらいで寝言を遮れるのであれば、苦労なんてしないのだが。


 そのときだった。突として日高さんは身が竦むような妙な感覚に襲われた。この感覚は――


 咄嗟に目を開けようしたが、すでに瞼が動かなくなっていた。手足もまったく動かない。金縛りだ。


 二十代の頃はよく金縛りに遭っていた。しかし、三十代になってからははじめてだ。全身がどんどん硬直して冷たくなっていく。石になったかのような感覚に苛まれ、額に冷や汗が滲みはじめたのがわかる。


 軽くで済む金縛りというのもあるが、今回の金縛りは深いところまで落ちた。こうなると十中八九、霊らしきモノに遭遇する。霊と対峙したくなければ、金縛りを解くしかすべはない。


 日高さんは金縛りに抗った。動かない手足を動かそうと試みる。だが、もがいているのは気持ちばかりで、肝心の手足はピクリとも動かない。


 そうこうしているうちに、寝室のドアがゆっくり開いた。目が開かないために視認はできないが、はっきりとそう感じた。そして、得体の知れないなにかが寝室に入ってきた。


 そのなにかが日高さんに真っ直ぐ近づいてくるのがわかる。床を踏む摩擦音がどんどん迫ってくるのだ。それから、ベッドのすぐ脇で立ち止まった。おそらく日高さんをじっと見おろしている。


 金縛りを解こうにも指すらも動かない。焦るばかりの日高さんだったが、次の瞬間、ぎょっとして息が止まりそうになった。Wベッドに圧が加わってグッと沈みこんだからだ。


 佳歩さんが眠っているのとは逆側――寝室に入ってきたなにかが、日高さんの隣りに横たわったのだ。


 それと同時に金縛りが解けた。しかし、怖くて目を開けることができなかった。得体の知れないなにかはまだ隣りに横たわったままだ。ここで目を開けてしまえば、きっと目が合う。


 だが、ずっとこの膠着状態を続けるわけにもいかない。日高さんは意を決して目を開けた。


 そこにいたのは――


 佳歩さんだった。


 全身から力が抜けた。トイレにでもいっていたのだろう。佳歩さんはもう寝息を立てている。しかし、その姿にホッとしたのは束の間だった。日高さんは再び恐怖に駆られて、背筋がゾワッと凍りついた。


 さっき目を覚ましたとき、誰かが隣りに眠っていた。寝言を発する佳歩さんだと思い、寝返り打って背中を向けた。だが、佳歩さんは目の前にいる。


 今、背中側にいるのは誰だろうか。もう寝言は聞こえてこないが、首筋にはっきりと視線を感じる。また冷たい汗が流れはじめた。


 日高さんは振り返れないまましばらく硬直していた。だが、そこからの記憶が曖昧で、気づくと朝になっていた。


 昨晩のことを不気味に思いながら、日高さんは寝室を出てリビングに向かった。すると、佳歩さんはすでに起きだしていた。ダイニングテーブルに腰をおろして、眠そうな目でマグカップに口をつけている。


 日高さんは佳歩さんの対面に腰をおろし、昨晩の体験を事細かく説明した。霊感体質の日高さんは幼い頃からちょくちょく怪現象に遭遇する。佳歩さんにはそれを伝えてあり、昨晩のことも隠す必要はなかった。


 話を聞き終えた佳歩さんは、戸惑いの表情を浮かべた。


「なにそれ……私、さっき帰ってきたばかりなんだけど……」


 そう言われて、日高さんは思いだした。


 看護師として総合病院に勤めている佳歩さんは、日勤、準夜勤、深夜勤の三シフトで働いている。昨日のシフトは確か深夜勤だった。つまり、昨晩から今朝にかけて家にいなかったのだ。

 

 目を覚ましたときに寝言を言っていた佳歩さん。金縛り中に寝室に入ってきた佳歩さん。どちらの佳歩さんも、佳歩さんであるはずがない。


 あれは、いったい……


 日高さんは一日がはじまる爽やかな朝に、再び首筋がひんやりとするのだった。





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