第41話 【書籍化】怒鳴り声

 広田久美ひろたくみさんに聞いた話だ。


 正月気分が少し薄れてきた一月半ばの早朝だった。広田さんは深い眠りの中にいた。しかし、心地いい眠りは突として遮られた。耳もとでいきなり怒鳴られたからだ。


久美くみ、起きなさい! 久美!」


 驚いて目を覚ました広田さんは、布団を跳ねのけて起きあがった。


「な、なによ、お母さん! びっくりするじゃない!」


 怒鳴り返してからハッと我に返る。口を手で覆いながら思う。


 なにやってんのよ、私……


 木造戸建住宅の一階にある自分の部屋だった。今しがたの怒鳴り声は母である悦子えつこさんのものだ。しかし、真っ暗なこの部屋に悦子さんがいるはずない。わかり切っているからこそ、自嘲せずにはいられなかった。


 いくらなんでも寝ぼけすぎ……


 悦子さんは広田さんが十六歳のときに大腸がんで亡くなっている。ちょうど十年前のことだ。


 それにしてもリアルな声だった。悦子さんの怒鳴り声がまだ耳の奥に残っている。おかげで、心臓がどきどきと早鐘を打っていた。


 ほんとにどれだけ寝ぼけているんだか……


 広田さんは自分に呆れつつ、枕もとの時計に目をやった。午前五時四十分を少し過ぎていた。


 仕事に出る時間は二時間以上先だ。しかし、もう一度寝ようにも目が冴えてしまっていた。それに喉も少し渇いた。リビングのポットにはまだ湯が残っていただろうか。ぼんやり考えながら布団で出た広田さんは、身を切るような寒さに思わず身震いした。


「さむ……」


 広田さんの家は二階にリビングが設けられている。今でこそ明るい二階にリビングをもってくる間取りは珍しくないが、何十年も前に建てられた住宅では斬新な間取りだ。


 広田さんは部屋着のフリースに袖を通すと、自分の部屋を出て階段に向かった。すると、二階のリビングから明かりがうっすらと漏れ出ている。父の忠雄ただおさんがもう起きだしているらしかった。


 忠雄さんの仕事には早番と遅番があり、早番にあたる日は早朝の六時過ぎに家を出る。この時間にもう起きているということは、今日のシフトは早番なのだろう。遅番であればまだ布団の中だ。


 広田さんが階段をのぼりはじめると、足もとで耳障りな音がギシギシと響いた。古い家だから仕方ないのかもしれないが、夜遅くや朝早くに階段を使うと、この音で近所に迷惑をかけないか少し不安になる。もっとも、さっき寝ぼけて怒鳴ったあの声のほうが、よっぽど近所迷惑になるだろうが。


 その軋む階段をちょうどあがりきったときだった。広田さんは奇妙な音に気がついた。遠くで響いている地鳴りのような音だった。


 なんの音……?


 不思議に思った次の瞬間、ドンッと音がして、強い衝撃を足もとに感じた。突きあげられるような感覚でもあり、広田さんはバランスを崩してその場に倒れた。頭を思い切り床に打ちつけたが、痛みを感じる余裕なんてなかった。荒波のように激しく上下する床の上で、バリバリと亀裂が入っていく天井や壁を見た――


 一九九五年一月十七日。午前五時四十六分。六千人以上の犠牲者をだした阪神淡路大震災が発生した瞬間だった。


 広田さんの家は地震によって全壊したが、その被害は一階部分に集中していたという。二階の重さに耐え兼ねた一階が押し潰され、まるではじめからそこにあったかのように、二階のリビングが一階の高さまで崩れ落ちていた。広田さんが寝ていた一階の部屋も、木っ端みじんに瓦解したそうだ。


 当時の広田さんは二十代半ばだったが、現在は五十代前半になっている。その日を振り返りながら、広田さんはこんな話をしてくれた。


「一階で眠ったままだったら、間違いなく死んでいたと思います。今もこうして生きていられるのは、母が起こしてくれたおかげなんです。夢と言われると否定のしようがないのですが、私は母が救ってくれたんだと信じています」


 そして、最後にこうつけ加えた。


「きっと私たちふたりの身代わりになってくれたんです」


 それから広田さんは、父の忠雄さんのことにも言及した。


「地震があったあの朝、父もやはりリビングにいました。でも、早番だったからではなかったんです」


 忠雄さんも悦子さんの声を聞いたそうだ。耳もとで怒鳴られて飛び起き、目が冴えてリビングに向かった。広田さんの体験とほぼ同じことが忠雄さんの身にも起きていた。


「父の部屋も一階にありましたから、もし眠ったままだったら……」


 おそらく命はなかっただろう。地震の被害者ではない僕でもそれはわかる。よく目が覚めてリビングに向かったものだ。


 また、悦子さんの仏壇は地震当時、リビングの窓際に置いてあったそうだ。仏壇を据えるのに適した和室が一階にあったものの、悦子さんは二階の明るいリビングが好きだった。それを考慮して仏壇の置き場所をそこに決めたのだという。

 

 そうやってリビングに据えられることになった仏壇は、二階にあったおかげか、無傷とはいかないまでも大きく損傷することはなかった。ところが、仏壇の中にあった悦子さんの位牌だけは、なぜか縦真っ二つに割れていたそうだ。


「きっと私たちふたりの身代わりになってくれたんです」


 広田さんがそう口にしたのもわかる気がする。位牌だけが真っ二つに割れていたなんて不自然だ。もちろん、なにかの偶然で位牌が割れたという可能性もゼロでないだろう。しかし、悦子さんが身代わりなったと考えるほうが、より納得できるのは僕だけだろうか。





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