第37話 【書籍化】女医の霊(後編)
最初のうちは睡眠時の金縛中のみに女医の霊を視た。ところが、だんだんそれに限らずという状態になっていったのだ。
洗面の鏡に目を向けたときに、自分の背後に女医が立っていた。なにげにゴロンと部屋で寝転んだときに、真っ黒な目の女医が天井に張りついていた。相変わらず身体は濃い影に覆われており、はっきり視えるのは顔と足もとだけだった。
さらには、こんなこともあったそうだ。
「頭をね、ガシッと掴んでくるんですよ」
姿は視えなくても間近に女医の気配を感じることが頻繁にあった。そんなときはたいてい頭を掴まれるのだという。頭を掴まれると必ず強烈な吐きけに襲われた。
「女医さんは頭を殴られて殺されていますからね、頭を掴んでくるのはそれと関係があるのかと……」
井本さんは漠然とそんなふうに考えていたそうだ。
「とにかく、今だからこうやって平気で話せていますが、当時は生きた心地がしないほど怖かったですね。引っ越しも考えたんですが、金銭的に難しくて無理でした。でも、もし引っ越しが叶っていたら、あんな事故も起きなかったでしょうね……」
アポートに引っ越してから二ヶ月ほどが経った頃だった。その日の朝は仕事に遅れそうで、井本さんは少し焦っていた。いつもより十分遅れで部屋を出ると、小走り気味に階段へと向かった。
そして、一階におりようしたときだった。妙な気配を感じた次の瞬間、誰かに背中をドンと押された。
あっと思ったがもう遅い。井本さんは完全にバランスを崩した。咄嗟になにかを掴もうと手を伸ばしたが、その手は空を切った。肩や腰をあちこちに打ちつけながら、一階まで転がるようにして落ちた。
しかし、相当派手な落ち方をしたというのに、意識のほうは存外にはっきりとしていた。だからこそ、それを見つけてぞっとした。真っ黒な目。陥没した頭。見あげた階段の上に女医が立っていた。
背中を押したのは彼女に違いない。そう思うとさらに首筋が冷たくなった。女医はしばらく井本さんを見おろしていたが、ややして靄が消えるようにすうっといなくなった。
それと入れ替わるようにして、大家が一階の部屋から出てきた。何事かといった顔をしている。階段から落ちたさいの大きな物音が彼の耳にも届いたのだろう。
大家は倒れている井本さんを認めると、慌てたようすで駆け寄ったきた。
「い、井本さん、大丈夫ですか! 救急車を呼びますから動かないでください!」
救急車なんて大げさな。井本さんそう思った。しかし、首に違和感を覚えて触れると、手が真っ赤に染まった。顔と首の右半分が血でベットリと濡れていたのだ。階段から落ちたさいに側頭部の皮膚が避けて、そこから流れ出た大量の血が顔や首にまで垂れていた。
「大家さんが呼んでくれた救急車に乗って病院にいきました。医者に階段から落ちた理由を訊かれましたが、どうせ本当のことを言っても信じてもらえません。不注意で足を踏み外したと伝えました。でも、本当はあの女医さんに背中を押されて階段から落ちたんです。彼女に殺されかけたんだと思いました」
女医は側頭部を複数回殴打され死亡し、井本さんが傷を負った場所も側頭部だ。しかも、階段から転落した原因は女医にある。彼女に殺されかけたとしか考えられなかった。
「でも、運びこまれた病院でよく検査したなと思います。てっきり傷を縫って終わりだとばかり思っていたのですが、医者が万が一のことがないようにと検査をすすめてきたんです」
階段から転落したさいに頭を強打しているのは明らかだ。頭蓋内出血などの危険な症状が起きていないとも限らない。念のためにMRI検査を行ったのだという。
「その検査でね」井本さんは側頭部の傷痕を撫でるように触った。「見つかったんですよ。こいつが……」
さいわいなことに外傷による問題は起きていなかった。だが、それとは別で重大な疾患が見つかったのだ。右側頭部――正確には脳の側頭葉に腫瘍ができていた。
「あのとき頭に怪我したからこそ見つかった脳腫瘍なんです。階段から落ちて怪我をしていなければ、検査なんてしていなかったはずですから」
まさに怪我の功名で発見された脳腫瘍だった。また、初期のものだったおかげで、まもなく行われた切除手術は無事に終了した。脳の手術では後遺症が気になるところだが、そういった問題も特に起きなかったという。
「強いて後遺症をあげるとすれば、禿げができたことくらいですかね」
井本さんの右側頭部にある傷痕は手術痕だ。メスを入れた部分には毛が生えておらず、髪を掻きわけると白い肌が痛々しく露出する。
「こんな後遺症だけで済んでほんとによかったです」
しみじみと言った井本さんは、入院中のことにも言及した。
「手術後しばらくは入院していたんですけど、大家さんが何度か見舞いにきてくれたんです」
そのさいに大家はこんなことを口にしたそうだ。
「殺された女医の霊を視たとよく耳にするんですがね、彼女を目撃した人の多くが、自分では気づいていない病気を抱えていたらしいのです」
だから、井本さんに何度かこう告げていたのだ。
「病院で診てもらったほうがよろしいかと……」
頭がおかしくなったと気の毒に思っていたわけではなかった。井本さんの体調を純粋に案じての言葉だったらしい。
「ただ、私も半信半疑ではあったのですよ。女医の霊を視ると病気が見つかるなんて、にわかには信じられませんのでね。だから、あまりしつこくは病院をおすすめませんでした。でも、今になって思うと、もっとしっかりおすすめするべきでした。本当に申しわけありません」
大家はそう言って頭をさげたという。
「とにかく」井本さんは側頭部の傷痕に再び触れた。「こうして僕が生きていられるのは、あの女医さんのおかげなんです。初期段階で見つかったからこそ手術も無事に済んだんです。でも、腫瘍に気づかずに放ったらかしていたら、今頃どうなっていたことか……」
女医は井本さんに病気を知らせようとして夜な夜な現れていたのかもしれない。そう考えてみると、何度も頭を掴んできたというのも理屈がとおる。そのさいに発現した吐きけも警告のひとつだったのだろう。
しかし、井本さんは恐怖を覚えるばかりで、女医の警告にまったく気づかなかった。だから、女医は強硬手段に出たのだ。井本さんを階段から突き落とし、頭部の精密検査を受けさせた。
「もし、本当にそうだとしても、強引すぎる気はしますけどね。下手したら脳腫瘍うんぬん以前に、打ちどころが悪くて死んでましたし……」
井本さんは苦笑いをしたあとこう続けた。
「その女医さんって腕がよかったうえに、親切で優しい先生だったらしいんです。そんな先生だったからこそなんでしょうね。きっと、殺されたあとも治療を続けていたんですよ。その一環で僕の脳腫瘍も見つけてくれたのかなって思ってます」
現在の井本さんはそのアパートからとあるマンションに引っ越し、結婚もして一児の父になっている。しかし、脳腫瘍の除去手術を受けた当時の井本さんは、退院しても五年ほどはアパートに住んでいた。その
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