第36話 【書籍化】女医の霊(前編)

 三十代前半の井本忠いもとただしさんに聞いた話だ。


「ほら、これです」


 そう言いながら横を向いた井本さんは、右側頭部の髪の毛を指で掻きわけた。そこにある痛々しい傷痕を僕に見せるためだ。それから「十年くらい前のことなんですが」と話をはじめた。


「就職したのをきっかけにアパートでひとり暮らしをはじめたんです。二階建てのアパートで、築年数は三十年以上でした。でも、大がかりなリフォームを一度したことがあるとかで、古いわりには外観も部屋も綺麗でしたね」


 井本さんが借りたのは二階の角部屋だった。セパレートのバスとトイレがついており、部屋は十四畳とかなり広かった。にもかかわらず、家賃が相場よりも低く設定されていたのは、事故物件扱いになっていたからだ。


「といっても、そのアパートで誰かが亡くなったわけではないんですよね。アパートの隣りにある病院で人が殺されたんです。それで事故物件というのもなんだか不思議な話ですけどね」


 殺人事件は小さな個人病院で起きた。殺されたのはその病院の院長でもある五十がらみの女医だ。診療が終わった午後八時三十分頃に金銭目的の強盗が押し入り、女医の右側頭部をハンマーで複数回殴打して死亡させたのだ。また、事件後も病院は取り壊されずに残っていたそうだが、あちこちが傷んで廃墟のようにすさんでいたという。


「そのアパートで殺人事件が起きていたのであれば、多少は気持ち悪さもあったかもしれません。でも、隣の病院で起きたことですから全然気になりませんでした。家賃が安くてラッキーって感じで部屋を借りることにしたんです。けど……」


 住みはじめた当日からそれははじまったらしい。


「正確な時間はわかりませんが、夜中にふっと目が覚めたんです。そしたら、身体が全然動かなくて……はじめての体験でしたから、めちゃくちゃ怖かったです」


 いわゆる金縛りというやつだった。意識ははっきりしていても、身体はぴくりとも動かない。しかし、目だけは自由に動かせた。

 

「仰向けに寝てたんですが、枕もとになにかの気配を感じたんです。そちらに目を向けてみたら、誰かが立ってました。でも、裸足の足しか見えないんですよね。すねから上は影みたいに真っ黒でした」


 その人の形をした影がこの世のモノではないことは明らかだった。はじめて霊を視た井本さんは悲鳴をあげそうになったが、喉に蓋をされたかのように声をだすことができなかった。


「悲鳴をあげる代わりに心の中で念仏を唱えました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏って……そうしたら金縛りが解けると、どこかで聞いたことがあったので」


 しかし、枕もとにある土色の骨張った足は、いつまでもそこに留まっていた。


「たぶん、僕を見おろしていたんだと思います。顔も影に覆われていて視えなかったんですが、なんとなくそんな感じがしました……」


 井本さんは逃げることもできず、枕もとに立つ影に恐怖するばかりだった。

  

 どのくらいその状態が続いたのだろうか。ふと人の形をした影が屈んだらしい。すると――


「いきなり目の前に顔が現れたんです。五十歳くらいのガリガリに痩せた女性でした」


 鼻先が触れそうな距離に女性の顔がある。井本さんはひどく恐縮しながらも思った。この女性は殺された女医だ。


 女医は側頭部をハンマーで複数回殴打され死亡した。井本さんの枕もとにいる女性の霊は側頭部がボコンと陥没していた。女医と考えて間違いないだろう。また、霊となって井本さんの前に現れた女医は、両目がなくなっていた。正確には目があるはずの部分が真っ黒で、まるで深い穴が空いているかのようだった。


「でも、目がなくても僕の顔を覗きこんでいたはずです。そう感じたんです。僕をじっと見ていました」


 そして、枯れ枝のような指で井本さんの頭を鷲掴みにした。すると、脳を直接掴まれたような感覚があり、井本さんははげしい吐きけに襲われた。


「覚えているのはそこまでです。次に気づいたときには朝になってました。そのまま眠ってしまったのか、恐縮で気絶したのか……」


 目が覚めた当時の井本さんは一連の出来事を夢だと思ったそうだ。それまで霊を視たことがなかった井本さんは、金縛りにあっても夢だとしか思えなかった。


「でも、翌日も同じことがあったんです……」


 夜中に金縛りに遭い、女医に頭を掴まれ、気づくと朝になっていた。


「その次の日も、またその次の日も、同じことがありました」


 怖くて仕方がなくなった井本さんは、休日の昼過ぎに、思い切って大家の住んでいる部屋を訪れた。大家の部屋は一階のすみにあり、簡単な挨拶をしたあとにこう尋ねた。


「隣りの病院で女医さんが殺されたというのは本当のことでしょうか?」


 大家は六十代後半であろう男性だった。彼は神妙な顔で「ええ……」と頷いた。


「五年ほど前のことになります。いい先生だったんですがね……」

「もしかして」井本さんは躊躇しながらもはっきり訊いた。「僕が今住んでいるあの部屋って、その人の霊がよく出たりする場所ですか?」

「……霊?」

「はい、女医さんの霊です。あの部屋に住みだしてから毎日視るんです」


 すると、大家は気の毒そうに井本さんを見つめた。


「病院で診てもらったほうがよろしいかと……」


 そうすすめられた井本さんは、急に恥ずかしさがこみあげてきた。頭がおかしくなったと思われたに違いない。女医の霊を視るまでは井本さんもこう考えていた。


 霊など存在するはずがない。作り話に決まっている。もし本当に霊が視えるというのであれば、幻覚などの精神疾患を疑うべきだ。なるべく早く病院にいったほうがいい。


 なんて馬鹿な話をしてしまったのだろう。井本さんは後悔しながら告げた。


「すいません、忘れてください……」


 逃げるようにしてその場を離れ、急ぎ足で自分の部屋に戻った。


 しかし、大家は同じアパートの一階に住んでいる。以後も顔を合わせることがしばしばにあった。彼はそのたびに気の毒そうに言った。


「病院で診てもらったほうがよろしいかと……」


 正気を失ったと思われたくない。井本さんは「もう、大丈夫です」と霊の話をなかったことにしようとした。しかし、実のところ怪現象は日ごとにひどくなっていた。


【後編に続く】





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