第35話 【書籍化】フランス人形
二十代半ばの
川上さんは最寄駅から徒歩五分のワンルームマンションに住んでいる。アパレル関連の専門商社に就職したのは約二年前。それをきっかけに実家を出てひとり暮らしをはじめた。
その日の川上さんは午後七時過ぎに帰宅したが、あるものをベッドの上に見つけて首を傾げた。
「あれ、なんで……?」
ベッドの上にちょこんと座っているのは古びた西洋人形だった。いわゆるフランス人形というやつだ。子供を模したもので背丈は三十センチほど。ロココ調の白いドレスが少し黄ばみ、ガラス製の目玉がこちらをじっと見ている。
確か九歳の誕生日だった。七年前に亡くなった祖母がプレゼントとしてくれたものだ。しかし、当時も今も川上さんはその人形があまり好きではなかった。祖母に悪いとは思うが、どことなく不気味な感じがするからだ。
なにかと不安なひとり暮らしに、うす気味の悪い人形なんて必要ない。不安が増すだけだ。実家に置いてきたはずだが、なぜかベッドの上に座っている。
川上さんは西洋人形を見おろして小さく唸った。
「んー……」
どうしてここにあるのだろう。首を捻って考えてこんでいると、人形がすくっと立ちあがった。
「え……」
川上さんは自分の目を疑ったが、人形は確かにひとりでに立ちあがった。しかも、唖然とする川上さんを前に、ベッドの上でジャンプをはじめた。
何度も何度もベッドの上でジャンプした。人形なんて小さなものだ。しかし、ジャンプをするたびに、大人が飛び跳ねているかのようにドシドシと音がした。
「ちょ、ちょっと」川上さんは慌てて声をあげた。「近所迷惑になるからやめて!」
今になって考えればおかしな話だが、そのときは人形が動きだした怪現象よりも、近所迷惑のほうが気になった。
ジャンプし続ける人形に、川上さんはもう一度怒鳴った。
「やめてってば!」
しかし、人形はドシドシと飛び跳ね続けた。このままだと近所からクレームが入り兼ねない。川上さんは人形の首を掴んで、ベッドに思い切り押さえつけた。
「やめてって言ってるでしょう!」
人形は手足をバタバタさせて抵抗した。ひん剥かれたガラス製の目玉が川上さんを睨んでいる。
手を離すとまた飛び跳ねるに違いない。これじゃ埒が明かない。完全に動けないようにしなければ――
川上さんはバスルームに向かった。人形を掴んだ腕を湯船の水の中に突っ込む。人形は水の中でも暴れ続けて、水しぶきがバシャバシャとあがった。
「お、大人しくして!」
川上さんは声を荒げながら腕に体重をかけた。湯船の底に押さえつけられた人形は、それでも喘ぐように暴れ続けた。だが、徐々に動きが鈍くなっていった。手足がピクピクと痙攣する程度になり、最後にはその痙攣も認められなくなった。
これで大丈夫だろう。ほっとした川上さんは人形を湯船から引きあげた。ところが大丈夫ではなかった。
動きを止めていた人形が、急に手足をバタバタさせて、今度は奇声まで発しはじめた。
「ギ――ッ! ギ――ッ!」
思わず耳を塞ぎたきなるような不快な声だった。
「ギ――ッ! ギ――ッ!」
人形は歯を剥きだしにして奇声を発し続けた。
「うるさい! 黙って!」
思わず怒鳴った川上さんは、ここではっと目が覚めた。
フローリングの上になにも敷かずに眠っていたせいだろう。背中のあちこちに軽い痛みがある。「いてて……」とこぼしながら上体を起こした川上さんは、ローテーブルのスマホに手を伸ばして時刻を確認した。午後十時前だった。
午後七時頃に帰宅した川上さんは、夕食を済ましたあと、なんとはなしにゴロンと寝転んだ。以降の記憶がないところをみると、そのままうたた寝してしまったのだろう。それにしても――
川上さんは思わず呟いた。
「嫌な夢……」
人形の不快きわまりない奇声が、まだ耳の奥にこびりついている。なんであんな夢を見たのだろうか。自覚はしていないがストレスでも溜まっているのだろうか。
首を捻って考えていると、手にしたままだったスマホに着信があった。画面を確認すると母からった。
『母さんよ』
「わかってる。どうしたの?」
挨拶とは言えないような挨拶を交わしたあと、母は「確認したいことがあってね」と尋ねてきた。
『おばあちゃんにもらった人形あるでしょう。ヒラヒラの服を着たフランス人形。あれ、ほんとに捨てちゃっていいの?』
そこで川上さんは思いだした。人形はゴミにだす予定になっていた。
一週間ほど前に実家に帰ったさい、母にこう言われたのだ。
「あんたの部屋の荷物を
川上さんは言われたとおりに、不要なものだけをまとめてゴミ袋に入れた。その中に夢に出てきた人形の含まれていた。祖母に悪いとは思ったが、古くて汚れた人形を、思い切って処分しようと考えたのだ。
しかし、人形の夢を見た直後に母からのこの電話だ。嫌な予感がする。処分してはいけないような気がしてならない。
川上さんはその予感に従うことにした。
「やっぱり捨てないで」
すると、なぜか母はほっとしたように言った。
『そう、よかった……』
そして、こう続けた。
『ちょっと捨てにくかったのよ。昨日、嫌な夢を見たからね……』
「……嫌な夢?」
『そう、人形が動きだして飛び跳ねるのよね。止めようとしたらギーギー叫ぶし。ただの夢だとはわかってるのよ。でも、人形が怒ってるんじゃないかって気がしてね。私を捨てるなって……』
それを聞いた川上さんは、背筋に冷たいものを感じた。母も人形の夢を見たという。しかも、川上さんが見た夢とそっくりだ。単なる偶然とは思えない。
「絶対に捨てないで」
川上さんは語気を強めて念押しした。人形を処分するときっとよくないことが起こる。根拠はなくても、直感がそう警告していた。
ここまでの話は約一年前の出来事だが、フランス人形は今でも川上さんの実家にあるそうだ。学生の頃に使っていた無骨な勉強机に、両足を投げだしてちょこんと座っている。
ちょくちょく実家に帰る川上さんは、当然ながら嫌でも人形を対面することになる。ガラス製の目玉と目があったとき、責められているような気分になり、心の中でこんなことを呟くのだという。
もう捨てたりしないから……
その気持ちが通じているかどうかは知る由もないが、以後は人形が動きだすような奇怪な夢を一度も見ていないそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。