第32話 終戦(後編)
復興の波と共にいくつかの季節が過ぎていき、町に残る戦争の傷跡が風化しはじめても、真知子さんはアメリカ人を嫌悪し続けた。彼らが視界の端に入るだけで、奥歯を噛み砕きたくなるような、激しい怒りが身体の芯に膨れあがるのだった。
アメリカ人をぎりぎりと憎悪しながら、ヤチエさんに育てられた真知子さんは、二十一歳の春にお見合いをして結婚した。
ヤチエさんは真知子さんの花嫁姿をしみじみと眺めて涙を流したそうだ。
「フミちゃんにも見せてあげたかった……」
真知子さんはじきに子供を授かった。時が過ぎて孫も生まれた。だが、いくら月日が流れても、真知子さんの怒りは、変わらずに終戦直後のままだった。
母を殺したアメリカ人は人間の皮をかぶった別のなにかだ。鬼畜と言ってもいいかもしれない。いや悪魔だろうか。真知子さんは腹わたをグツグツと煮えくり返らせ続けていた。
八月の終戦記念日が近づいてくると、アメリカ人への怨憎が増していく。毎年のことだった。そんなおりに、真知子さんはこんな夢を見たそうだ。
青空に浮かぶ真っ白な雲が、公園の池にくっきりと映じている。真知子さんは小さな子供に戻っており、池畔のベンチに腰をろしていた。
あたたかい風が頬をかすめていく。投げだした両足をぶらぶらさせていると、すぐ隣りで気持ち良さげに呟く声がした。
「いい天気ね……」
声には懐かしい響きがあった。隣りに目をやれば、母のフミさんが青い空を仰ぎ見ている。年齢は三十代前半。この世を去った頃の年齢だ。
「お母さん……」
真知子さんは夢を見ているのだと半分気づいていた。今までもときおりフミさんは夢に出てきた。しかし、こんなことを言われたのは、そのときがはじめてだったという。
「真知子は今でもアメリカの人が嫌いなんだね」
意外な言葉に驚きながらも、真知子さんはきっぱり返した。
「うん、大嫌い」
「どうして嫌いなの?」
「だって、お母さんをあんな目に合わせたから……」
答えると、あのとき目にしたものが脳裏によみがえった。爆弾によって無惨に破壊された母の身体――
真知子さんはせりあがってくるものを我慢できず、前のめりになってバシャバシャと嘔吐した。なぜか
「あらあら……」フミさんはのんびりと言って、真知子さんの背中を撫ぜた。「大丈夫?」
嘔吐した気持ち悪さのせいか、脳裏に浮かんだフミさんの姿のせいか、真知子さんは涙を止めることができなかった。
しばらくして、ようやく真知子さんの涙が落ち着いたとき、フミさんが優しい口調で話しはじめた。
「あのときは、変な時代だったの。人と人が殺し合う、おかしな時代だったわ。私も含めてみなが狂っていたんでしょうね。だから、たくさんの人が死んだのよ」
フミさんは「よいしょ」と口にしながら、真知子さんを自分の膝の上に乗せた。
「真知子は頭がいいから、いろんなことを覚えてる。ずっと昔のことを今でもね。でも、忘れる大切さもわかっているはずよ。過去の出来事はときどき大きな荷物になるわ。いつかはおろさないと前に進んでいけない……」
「でも……」
真知子さんは言葉と詰まらせた。言いたいことがたくさんあるいうのに、ひとつも言葉にならなかった。
「あの時代は命の奪い合いだったけど、私はそんな時代に真知子の命を守ったの。大切な娘をこの手で守れたのよ。そんな嬉しいことはないわ。かけがえのないあなたを守れて私は幸せだったの。だからね、もう自分を許してあげて」
「え……」
微笑むフミさんを見ていると、怒りの理由がはっきりした。許せないのはアメリカ人じゃない。自分自身だ。自分に怒っているのだ。
「ご、ごめんなさい……お母さん、ごめんなさい……」
さっき止まった涙がまた溢れだした。
「私のせいで……ごめんなさい……ごめんなさい……お母さん、私のせいで……うう……お母さん……死……死ん……うう……」
最後のほうは嗚咽ばかりで、ほとんと言葉にならなかった。
「真知子、よく聞いてね。私が死んだのは真知子のせいじゃない。時代が悪かったの。それにね、さっきも言ったけれど私は幸せだったの。あなたを守れたことは私の誇りなのよ。だから、もう泣かないで」
フミさんに頭を撫でられたとき、真知子さんはふっと目を覚ました。夢を見ながら泣いていたらしく、目尻に涙の名残があった。
のちに真知子さんは、その夢を振り返って愛沢さんにこう告げた。
「頭では夢だとわかっているのよ。でも、なぜかただの夢じゃないような気がしてね。もしかしたら、母からのメッセージじゃないかって……」
単なる夢だったのか、メッセージだったのか、それは誰にもわからない。しかし、夢を見てからの真知子さんは、アメリカ人に怒りを覚えなくなったという。
年末から雪が降り続けているある年の正月のことだった。元旦に親戚一同が真知子さんの家に集まるのは毎年の恒例行事であり、十五人ほどの大人と子供が入り混じって、さして広くないリビングでおせちをつついていた。
その最中に真知子さんはこんな話をしたそうだ。
「私の母はどんなにつらくても笑ってる人だったわ。戦争でひどい死に方をしたというのに、その死の間際ですら笑っていたのよ。私も母みたいにずっと笑っていれたらよかったけれど、人生の大半を怒ってすごしてしまった。今になって思うとほんとに勿体ない。どうして私はずっと怒っていたんでしょうね」
それが遺言だったかのように、真知子さんはその正月明けに亡くなった。心身共に
話が少し前後してしまうが、真知子さんが息を引き取る直前のことだ。病院にかけつけていた家族のひとりが、病床で眠っている真知子さんを見つめて、こんなことを呟いたのだという。
「あら、お母さんったら、笑ってるわ……」
震える声はさらにこう続いた。
「楽しい夢でも見ているのかしらね……」
愛沢さんもその場にいたらしく、真知子さんの顔に目をやった。すると、皺がいっぱいの彼女の口もとには、確かに穏やかな笑みが浮かんでいたそうだ。
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