第31話 終戦(前編)

 三十代半ばの愛沢あいざわみゆきさんに聞いた話だ。


 二年前に亡くなった愛沢さんの祖母は真知子まちこさんといった。昭和がはじまって間もなくに生まれた彼女は、四歳のときに父を結核で亡くしたそうだ。現在では死に至るケースが少なくなった結核も、当時は不治の病として恐れられていた。


 一家の大黒柱を失えば生活が困窮してしかりだ。しかし、母のフミさんに愛情深く育てられた真知子さんは、貧乏に不便を感じても不幸だとは思っていなかった。母ひとり娘ひとりの家庭は、慎ましいながらにしあわせだった。


 しかし、第二次世界大戦の狂風が、ほがらかな生活を吹き飛ばした。


 真知子さんの住む町に米軍戦闘機が飛来したのは彼女が十一歳のときだった。昼過ぎの眩しい空に現れた銀色の怪鳥が、プロペラの咆哮をあたり一帯に響かせた。空襲の爆発音、逃げ惑う悲鳴、遅すぎる警報。耳に入るすべての音がひどくやかましく、心臓が胸を内側からドクンドクンと叩いた。


 裏の畑にいたフミさんが、家に戻ってきて叫んだ。


「真知子、防空頭巾ぼうくうずきんをかぶって!」


 慌てて防空頭巾をかぶった真知子さんは、フミさんに手を引かれるまま、転がるようにして家を出た。


 いたるとことに火の手があがっていた。煙と土埃が喉にこびりついて咳が出たが、苦しいなどと言っている場合ではなかった。真知子さんたちは家の近くにある防空壕ぼうくうごうに向かって走った。フミさんも含めた近所のみなで作った防空壕で、鉄扉を設けた頑丈な造りになっている。


 しかし、頼りにしていた防空壕だというのに、あろうことか中に入れてもらえなかった。防空壕には換気の機能がなく、人が集まりすぎると窒息の危険がある。


「子供がいるんです! 中に入れてください。お願いします!」

「悪いけど、ここは一杯なのよ……ほかをあたって……」


 フミさんが鉄扉を叩いて必死で訴えても、中から返ってきたのは拒否する声だった。その声の主はおそらく近所に住んでいるおばさんだ。いつも真知子さんと遊んでくれる優しいおばさんに違いなかった。


「こんなときのための防空壕じゃなかったの……」


 フミさんは絶望した顔でその場に崩れ落ちた。だが、膝をついていたのは束の間だった。すぐに立ちあがって毅然とした眼差しをみせたという。防空壕はほかにもある。諦めちゃいけない。自分を鼓舞するような強い眼差しだった。


「真知子、いこう!」


 フミさんは踵を返して走りだした。ところが、突然足を止めると、真知子さんを引ったくるようにして抱き寄せた。その直後、真知子さんは強い衝撃に襲われて、天地左右の感覚を完全に喪失した。


 もしかしたら、しばらく意識を失っていたのかもしれない。気づくと真知子さんは地面に倒れていた。爆弾が近くに落ちてフミさんもろとも吹っ飛ばされたのだ。


 フミさんは真知子さんの上に覆いかぶさるようにして倒れていた。意識を失ったままなのか、ぐったりとして動かない。


 空襲は未だ続いていた。爆発音がそこら中に聞こえる。


「お母さん、起きて!」真知子さんは叫んだ。「早く防空壕!」


 幸い、フミさんは意識を失っていなかった。すぐに、かすれた声が返ってきた。


「……そう……ね……防空……壕……」


 しかし、真知子さんに覆いかぶさったまま動こうとしなかった。様子もどこか変だ。両手でフミさんを押し離した真知子さんは、そこでようやくなにが起きたのかを把握した。


「お……お母さん……」


 真知子さんは目尻に涙が膨れあがっていくのを感じた。泣いてはいけない気がして唇をぎゅっと噛んだものの、ぼろぼろと噴きだす涙を止めることができなかった。


 そのとき、聞き覚えのある声がした。


「真知子ちゃん……それ、フミちゃんなの……?」


 手の平で涙を拭って声のしたほうに目をやった。近所に住んでいるヤチエさんが、真知子さんたちを茫然と見ている。二児の母であるヤチエさんは、歳が近いフミさんと仲がよく、ふたりはよく姉妹に間違われた。


 真知子さんはフミさんの下から這いだして叫んだ。


「お母さんを助けて!」


 するとヤチエさんは、はっとした顔をした。それから真知子さんのところに駆け寄ってきて、フミさんを防空壕まで運ぶのを手伝ってくれた。


 町のおおよそが破壊されたのだから、ヤチエさんだって大変だったはずだ。しかし、空襲がおさまったあとも、彼女は嫌な顔ひとつせずに、真知子さんに手を貸してくれた。怪我人が集められている小学校の体育館に、重症のフミさんを連れて移動できたのは、彼女の手助けがあったからにほかならない。


「ごめんね、真知子ちゃん。家や家族のようすを見にいかないといけないから、ここにずっといるわけにはいかないの……でも、困ったことがあったら私をさがして訪ねてきて。遠慮なんかしちゃだめよ。いい? 約束だからね」


 空襲があった翌日、ヤチエさんはそう言い残して体育館から立ち去った。それを無言で見送った真知子さんは、彼女の言葉の意味を理解し、すでに覚悟もしていた。困ったことというのは母の死だった。


「手とか足のない人がそこかしこにいてね、亡くなった人も数え切れないほどいたわ。でも、きっちり弔ってあげる余裕なんてなかった。どんどん増えていく遺体が、山積みになって放置されていたのよ。おかげで町にはいつも死臭が充満していたわ」


 愛沢さんが言うには、生前の真知子さんはときどき戦争の話をしたそうだ。しかし、空襲でフミさんがどうなったかは、自らすすんで語ろうとはしなかった。愛沢さんは真知子さんと最も仲のいい孫だが、そんな彼女ですら詳しく聞いたのは一度だけだという。


 戦闘機から投下された爆弾が近くに落ちたあのとき、フミさんは自分の身を盾にして真知子さんを守った。しかし、その代償は見るも無惨なもので、フミさんの身体は酷たらしく破壊された。


「顔の左半分が丸焼けになってねえ、白いものがチラホラ見えていたわ。頭蓋骨とか顎の骨とかがね。左腕は肘から先が吹っ飛んでなくなったのだけど、あまり血は出ていなかった。切断面が焼けていたからかしらね……」


 そんな状態であるにもかかわらず、フミさんは一週間近くも生きたという。しかも、体育館で最期を迎えたとき、膿んでうじがわいた顔に、穏やかな笑みまでみせたそうだ。


「真知子に……怪我が……なく……て……よか……った……」


 それからしばらくして終戦を迎えたが、真知子さんはアメリカ人を見るにつけ、苛烈な怒りを覚えるようになっていた。大好きだった母を殺したアメリカ人を許せなかったのだ。終戦直後はあちこちにアメリカ兵がいて、彼らの姿が目に入るたびに、どす黒い感情が胃のあたりからせりあがってきた。


 いつのことだったか、遠い目をした真知子さんが、愛沢さんにこう話したそうだ。


「あのときは子供だったからなにもできなかったけれど、もし大人だったらどうだったかしらね。刃物なんかを手にして本当に襲いかかっていたかもしれないわ……」


【後編に続く】





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